第47話 黒い血に春風がそよぐ
人狼の動きは、もはや“速度”の定義から外れていた。
一瞬の刹那に、こちらの死角を突くように前脚が振り抜かれる。
「クッ――!」
間に合わなかった。
ゴシャアアッ!!
咆哮にも似た衝撃。巨体の爪が、脇腹を捉えた。
防御の構えすら取れず、そのまま俺の体は弾かれ、建物の外へと吹き飛ぶ。
背中から地面を滑り、跳ね、木製のフェンスを砕きながら転がった。
「ぐっ……ああっ……!」
わずかに動いただけで、骨が悲鳴を上げる。腕の感覚が抜けていた。
すぐさま迫る影――人狼の追撃。
(まずい――っ!)
瞬時に体を霧へと変える。
身体が霧と化し、空間に分散する。
無数の微粒子となった俺の肉体は、地表に漂いながらゆっくりと輪郭を取り戻す。
霧の中心に、再び“俺”が現れた。
肩で大きく息をしながら、地に膝をつく。
「ハァ……ハァ……」
再生はできた。だが――血が足りない。
胸元から、首筋から、じわじわと血が滴る。
腕の裂傷は塞がったが、その分、体力が一気に奪われた。
(このまま戦ったら、持たねぇ……)
吸血鬼の再生能力には限界がある。
血液――命そのものが燃料だ。出血が続けば、たとえ再生しても、それだけで“死”に近づく。
(体力が尽きれば、再生は止まる。大きな一撃を食らえば……そこで塵だ)
意識が朦朧とする中で、俺は、かつての言葉を思い出していた。
――「血はお前の力だ。イメージしろ。お前は、それを“操れる”」
玄の声が、脳裏に響いた。
(やるしかねぇ……今、やらなきゃ“終わる”)
俺は額に血の汗をにじませながら、左手を天に掲げた。
その掌の先、空中へと浮かぶように血が集まり始める。
滲み出た血液が空中に舞い、渦を巻く。
空気が震え、圧が変わる。
やがて、それは雲のように広がった。
紅い“雲”が、頭上に浮かぶ。
「――血の五月雨」
俺の呟きとともに、それは音を立てて降り始めた。
――ザァアアアアアアッ!!!
まるで梅雨の雨のように、だがその一滴一滴が鋼のように重く、鋭い。
紅い雨が空から落ちる。
人狼の背に、肩に、そして頭上から無数の血の弾丸が降り注ぐ。
「ガアアアアアッ!!」
咆哮が響いた。ついに動きを止め、雨の圧力に抗えず、その巨体が沈む。
だが――
(……硬い……!)
雨が止んだ直後。
「グルル……!」
狼は、まだ立っていた。
その白銀の毛並みは赤く染まり、傷を負っている――が、眼光は衰えていない。
(くそっ……やっぱ、タフすぎんだよ……!)
次の瞬間。
「――ッ!」
狼が再び接近してきた。
今までで最速――“決める”ための動きだった。
獣の直感。ここで終わらせなければならないという殺気。
ドンッ!!
鋭く振り上げられた前肢が――
建物の壁を突き破った。
俺の体は、崩れた住宅の瓦礫に埋もれる。
煙と粉塵が舞い、痛みすら追いつかない。
瓦礫を振り払い、かろうじて視界を確保した時――
そこには、巨大な影が迫っていた。
「――!」
爪じゃない。
今度は、足全体だ。
獣は“踏み潰す”つもりだった。
その脚が振り上げ、俺の胸を狙う。
俺は――咄嗟に、手を顔の前にかざしていた。
「うっ――!!」
だが、来ない。
バチン――!
何かが割れる音。
視線を落とすと、影が盾のように俺の上に浮かび、獣の顎を止めていた。
“俺の影”が、主を守るように、意志を持ったかのように動いた。
「はっ……なんだよ、これ……」
だが、それも一瞬。
人狼は判断を変えた。
“前脚では塞がれる”と踏んだその獣は――
代わりに、大きく口を開けた。
顎が、俺を喰いちぎろうと迫る。
(――俺を喰う、か……)
思考が加速する。
(だったら――俺も、喰ってやる)
刹那。
俺は仮面を取り、残った力で首をずらし、獣の喉元に牙を立てた。
「うおおおおおっ!!」
牙が肉を裂き、血があふれる。
喉に熱い流れが込み上げる。
――血呪の牙
血が喉を満たし、何かが体内に入り込んでくる。
焦げたような苦味が、舌と喉を焼いた。
吐き気に近い熱が、胃の奥で暴れまわる。
それでも、噛みついた牙は離せなかった。
まるで“呪いそのもの”を啜っている感覚――
…自分の血と、他人の呪いの境目がわからなくなっていく。
それでも、俺は吸い続けた。
その時だった。
「……っ」
人狼の体が、わずかに震えた。
筋肉が収縮し、骨がひとつ、またひとつと鳴り始める。
巨大な体が、ゆっくりと――
少女の姿へと、戻っていく。
毛皮が剥がれ、牙が収まり、爪が短くなる。
呪いの“力”が、血と共に、俺の中へ吸われていく。
(……取り込んだ、のか……?)
少女の瞳が、かすかに揺れた。
怒りではなく、恐怖でもなく――ただ、“泣きそうな目”をしていた。
そして、俺の腕の中で、その身体が力を失い、崩れ落ちた。
――決着だった。
けれど、どこかに――何かを“奪った”罪悪感だけが、確かに残った。
カイがひときわ大きく飛び退き、銀の剣を振るってセレナの追撃を防いだ。
そのまま、彼は俺の方へと視線を移しながら、優雅な足取りで近づいてくる。
「おっと……まさか、こういう展開になるとは。いやはや、予想外でした」
飄々とした口調のまま、彼は少女――否、元の姿へ戻りつつある人狼を抱き寄せる。
まるでぬいぐるみでも拾い上げるように、慈愛すら滲ませながら。
「今回はこの辺にしときます。彼女も……限界でしょうし」
「待て……!」
俺は血を吐きながら、倒れた体を無理やり起こそうとした。
けれど、動かない。
腕は痺れ、視界も霞んでいる。
気力だけで叫んだその言葉も、空に溶けていった。
「エンド……!」
遅れてやってきたセレナが、破れた服と血にまみれた姿で駆け寄ってくる。
その顔には焦りと、怒りと――何より、“無事を願う心”が浮かんでいた。
だが、俺は――その顔を、直視できなかった。
彼女の手が俺の肩に触れる。
その温もりが、ただただ、痛かった。
(……まただ)
俺の喉が、ひゅう、と情けない音を立てた。
(また俺は……セレナを巻き込んだ)
彼女の呼吸は乱れ、腕は斬られ、脚も傷だらけだ。
あの“銀の神子”と称されるセレナが――ここまで追い詰められている。
(俺がいなければ……こんなことには、ならなかった)
その思考が、ぐるぐると頭を巡る。
(俺が吸血鬼じゃなければ。俺がここに来なければ。俺が、セレナに近づかなければ……)
握りしめた拳が、震えた。
(――結局、俺は)
(誰かを守るための力を得て、こうして牙を得て、刃を持って、それでも――)
(誰も、守れない)
血だらけの自分の手が、呪われた証のように見えた。
何度、誰かの血を啜り、誰かの命を奪い、そして誰かの“想い”を折ってきた?
(俺は……ただの“化け物”だ)
背中から力が抜ける。
目の前が、ゆっくりと、暗く、霞んでいく。
カイはそんな俺を、まるで芝居を眺める観客のような目で見ていた。
軽く手を振ると、白装束を揺らして少女を抱えたまま、闇の中へと消えていく。
その後ろ姿に、怒りも、悔しさも、ぶつける力すら残っていなかった。
「……セレナ……ごめん」
それだけが、俺の最後の言葉だった。
セレナは何も言わず、ただそっと俺の肩を抱き寄せた。
そして、潰れそうな声で、ただひとつ――
「……謝らないで」
と、そう呟いた。
だが、その優しさすら、今の俺には――痛すぎた。
(俺さえ……いなければ――)
胸の奥に、深く、鋭い自己嫌悪の棘が刺さる。
セレナが肩を貸し、俺を近くの石段にそっと座らせてくれる。
彼女自身、立っているのがやっとなのに、それでも俺を支えていた。
息は荒く、体は鉛のように重かった。
けれど、その苦しさの奥で――彼女の温もりだけは、確かに感じられていた。
風に揺れる葉の音だけが、静かに耳を撫でた。
そんな時だった。
「おい、お前ら」
背後からふいにかけられた声。
驚くほど軽く、どこまでも柔らかくて――
まるで風が、夜の隙間を縫うように囁いた。
「腹、減ってないか?」
振り返ると、そこに立っていたのは――カナオだった。
足音ひとつ立てず、影のように、あるいは光のように現れた男。
どこから来たのかもわからない。
けれど、その佇まいは、不思議と“ここにいて当然”という気配に満ちていた。
夜の余白に差し込まれた、春の風のような存在。
カナオはゆっくりと歩み寄りながら、片手に持った包みを掲げる。
湯気が、月の光にかすかに溶けていた。
その笑顔には、何も問わない優しさがあった。
そしてその声は、
まるで「おかえり」と言っているようにも思えた――
この物語は、人間の“痛み”や“孤独”に向き合って書いたものです。
作者として、真正面からその感情に触れ、言葉にしました。
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