第46話 踊る血は影と銀
人狼が低く唸ったかと思うと、その巨体を震わせながら――
「グアアアァッ!!」
怒号のような咆哮とともに、巨大な前肢を振り上げた。
鋭く伸びた爪が、月光を裂きながら迫ってくる。
その光景は、まるで死そのものが落ちてくるようだった。
(“この子”も……呪われて、生まれた存在……)
逃げられない。
目を逸らすことも、背を向けることもできなかった。
(――それは、“俺”も同じだ)
俺は右手を伸ばした。
その手の爪が、音もなく伸びていく。
まるでそれに呼応するかのように、体の奥から血がざわつき、牙が疼いた。
振り下ろされる狼の腕を、爪で迎え撃つ。
ガギィィンッ!!
鈍い衝撃音。鉄がぶつかるような火花。
そして、伝わってくる重圧。
(――重い……!)
骨がきしむ。
肩が砕けそうなほど、全身に圧がかかる。
血管が膨れ、筋肉が悲鳴を上げる。
(……耐えきれない)
その瞬間、体が咄嗟に反応していた。
紙一重の距離で、俺は横へと身を翻す。
狼の爪は地面を抉り、破片が弾け飛ぶ。
砂埃の中、俺は地を蹴った。
膝をついたまま、ゆっくりと立ち上がる。
「……俺の邪魔をするやつは――」
目の前の少女の瞳に浮かぶ、絶望と怒り。
それが、かつての自分に重なった。
「誰も、“赦さない”」
牙を食いしばり、地面を踏みしめる。
その瞬間だった。
俺の両腕に、紅の光が灯る。
燃えさかるような赤。
それは怒りと――祈りの色。
「――罰と赦」
“それ”は音もなく、空間を裂いて出現した。
右手に現れたのは、“咎”の刃。
本能と怒りに従い、全てを切り裂く紅の剣。
左手には、“赦”の刃。
理性と祈りを抱き、誰かのために振るうための刃。
二振りの短剣が、俺の両手に宿る。
熱い。
それは血よりも深く、心よりも近い場所から湧き出る力。
少女の顔が、かすかに揺れた気がした。
だが、獣はためらわない。
人の意志を飲み込んで、踏み込んでくる。
次の瞬間、人狼の前肢が地を裂きながら迫った。
(来る――!)
俺は瞬時に右足を影に沈め、地面の黒へと滑り込む。
影の中。世界が鈍く沈む。音が遠のき、鼓動だけが強く響いた。
“彼女”の影――そこに向かって滑るように移動し、出現と同時に刃を振るう。
「――ッ!!」
“赦”の刃が首元を狙って走る。が、硬い毛皮にわずかに弾かれる。
(浅い――!)
振り返るより早く、狼の尾が風を裂いて薙ぎ払ってきた。
「ッく――!」
再び影に沈む。
肩をかすめる衝撃が背筋を震わせた。
(速い……反応も、完全に“獣”のそれだ)
再び現れた時には、狼は俺の真上にいた。
跳躍――!
その鋭い爪が、天からの鉄槌のように振り下ろされる。
だが。
「……そこだ」
俺は咄嗟に足元の影を繋ぎ、背後へと“ずらす”。
影と影の距離を瞬時に読む。
これが、俺だけの戦場――《シャドウグリム》の領域だ。
だが――
「ガァアアッ!!」
人狼はその軌道すら読んでいたかのように、着地と同時に振り向き、鋭く咆哮する。
咆哮が衝撃波のように地面を裂き、破片が飛ぶ。
(……影の出入りすら追えてる……!?)
地を這うように低く滑り込み、“咎”の刃を突き立てる。
だが狼は跳ねるようにその軌道を避け、逆にこちらの死角へ回り込む。
「――ぐッ!」
鋭い爪が背中を裂く。
服が破れ、背筋に痛みが走った。
血が滲む。視界がちらつく。
それでも、俺は膝をつかない。
「……俺を、殺したけりゃ――」
重い息とともに、影を地面に広げていく。
「その分だけ、“生きよう”としたお前を……殺さなきゃいけねぇ じゃなきゃお前を"赦さねぇ"お前に"罰を与える"」
その声に――一瞬だけ、白狼の動きが鈍った。
“彼女”の奥に眠る、“少女”の心が、ほんの少し揺れたように見えた。
その隙を――“俺”は見逃さない。
(今しかない――)
“罰と赦”を交差させ、地を蹴る。
そして、最後の影――**“彼女の影”**に重ねるように飛び込んだ。
(この男……飄々と、私の剣を――避けるっ!)
月光の下、セレナの剣が空を裂いた。
鋭い一閃。銀の煌めきが宙を奔る。
それは魔を裂くために鍛え上げられた、“聖剣”とすら呼ばれた一振り。
だが――
「おっと、お見事お見事。なかなか鋭い」
飼は、まるで舞うようにひらりと後退し、間合いをずらす。
その動きに無駄はなく、まるで彼女の剣筋を“視ている”かのようだった。
(……この剣は“魔”に特攻がある。だが――こいつには通らない)
セレナは歯噛みした。
人狼や吸血鬼相手なら、刃が僅かに触れるだけでも効果がある。
けれど、目の前の男――“カイ”には、その手応えがない。
(この男は“人間”……! だから――私の剣では……)
「私は時間稼ぎなもんでね。少し、付き合ってもらいますよ」
ニヤリと笑いながら、カイはステップを踏むようにセレナの剣圏から滑り出る。
そして――
「こういうのはどうです?」
次の瞬間、彼の銀の十字剣が、あえて“急所”へと向かってきた。
首筋、喉元、目の奥――
そこを“狙う素振り”を見せるだけで、セレナは反応せざるを得なくなる。
(っ――ウザったい!)
彼の攻撃は決して“殺し”には来ない。だが、致命を装った牽制で、思考と動作を奪ってくる。
“戦うために鍛えた剣”ではなく、“戦わせないために躱す技”――
それが、カイの戦い方だった。
「焦らない焦らない。私はただ、“彼女”が仕上げるまでの――幕間のピエロですから」
そう言いながら、また一歩、剣の間合いから抜け出す。
(……この戦い方、腹立たしいほど厄介)
セレナは、喉の奥で唸る
(――エンドに向かうか?)
セレナは、わずかに目線を逸らした。
店の中。砕けたテーブル。血の匂い。そして、咆哮。
そこには、今まさに人狼となった少女と、それに対峙するエンドの気配がある。
(あの距離なら、私が一瞬でも気を逸らせば――)
「……させない」
小さく呟くと、男は身を翻そうとした。
だが、その瞬間だった。
「――吸血鬼の元に向かわせませんよ」
空気が裂けた。
セレナの目の前に、再び“カイ”が現れた。
まるで読みきっていたかのような動き。
一歩の踏み込みに、剣の構え。すべてが、完璧な封鎖。
「今、あなたが彼のもとへ駆ければ――私は背中を斬る。
……ええ、いくら“銀の神子”でも、それでは済まないでしょう?」
声音は柔らかい。けれど、その瞳の奥にあるものは冷たい。
(読まれていた……!?)
セレナは歯を食いしばる。
「まったく……忠義深いことだ、あなたも」
カイは微笑みながら、十字の剣を持ち上げた。
「でも私、意外と独占欲が強いんですよ。“この戦い”くらい、最後まで私と踊ってもらわないと困ります」
ひときわ大きく、銀の剣が夜風を裂く。
その音が、まるで“結界”のようにセレナの前へ降りかかる――
銀の剣が夜気を裂いたその刹那、セレナの剣が火花を撒き散らすように応じた。
「――だったら、“踊り”を終わらせてあげる」
視線が交わる。
刹那、二人の剣閃が、夜を真っ二つに裂いた。
そしてその時、遠くから聞こえてきたのは――
人狼の、雄叫びだった。
(エンド……!)
セレナの瞳が一瞬だけ揺れたその瞬間、カイの剣が――再び、閃いた。
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