第45話 カイと人狼
「申し遅れた、わたくし――**飼**と申します」
白装束の男は、まるで古びた劇場の舞台にでも立つような動作で、胸に手を当てて一礼した。
その動作に無駄な隙はなく、それでいてどこか滑稽で、芝居じみている。
そして、彼の顔は依然としてフードの奥に隠れていた。
「こちらの少女はですね、鼻が非常に利くのです。……そして、多少――吸血鬼に対して、ものすごく強い恨みがあります」
「エンド、外に――」
俺が立ち上がり、セレナに目配せして出口に目をやった瞬間だった。
「逃げるなあああああっ!!!」
少女が叫んだ。
次の瞬間、視界がぐらりと揺れた。
まるで爆風のような衝撃が、真正面から吹きつける。
と思った時には、俺の体は宙を舞い、背中から――テーブルごと壁に叩きつけられていた。
「がっ……!?」
吐き出した息とともに、内臓が圧迫される。
少女が動いた。
小さな足音、けれど音がするたび、床板が軋む。
(……なんだ、この力……)
「吸血鬼……吸血鬼……吸血鬼」
まるで呪詛のように、少女は言葉を繰り返す。
その目――
無表情な顔に浮かぶ、真っ赤に染まった瞳はまさしく**“獣”**だった。
人間の形をしているだけで、その本質はまるで違う。
「エンド……!」
セレナが立ち上がろうとするが、彼女の動きを飼が手で制した。
まるで「今は見ていなさい」とでも言うように、柔らかくも支配的な仕草。
「ご安心を、お嬢様さん。今はただの“挨拶”ですから。それと貴女の相手は私ですからねえ?」
飼の言葉に、少女は返事をしなかった。
ただ、俺を睨みながら、低く――唸るように呟いた。
「お前の牙、折ってやる……」
その言葉が、ぞわりと肌を撫でた。
(……この子、本気で俺を“殺しに来てる”)
静かな店の中。
スープの匂いは冷め、満月の光だけが、戦いの始まりを照らしていた。
飼が静かに立ち上がった。
その手には、いつの間にか銀でできた十字形の剣が握られている。
「失礼、ですが――」
次の瞬間、飼がまるで羽のように軽い身のこなしで距離を詰め、
十字の剣が月光を反射して、セレナの喉元へと振り下ろされた。
「っ……!」
セレナはすかさず身を翻し、カトラス型の剣を逆手に構える。
その一閃は、鋭く、迷いのない一撃だった。
キィンッ!
金属同士がぶつかり合い、火花が散る。
飼は軽やかに剣を弾き、さらに踏み込んでセレナの脇腹を狙ってくる。
(速い……!)
セレナは寸前でかわし、回転しながら一気に体勢を入れ替えた。
「邪魔――しないで!」
セレナの蹴りがカイの腹部を捉える。
体格差もあるが大きく弾かれ、飼の身体がガラス戸を突き破って外の通りに吹き飛ばされた。
セレナはすかさず跳び上がり、両手の武器に力を込める。
「煌滅!」
白銀の輝きが地を這い、閃光となって夜の通りを焼く。
地面が抉れ、建物の外壁を貫くほどの“光”がカイを包み込んだ。
一瞬の静寂。
やがて、ゆっくりと立ち上がる白装束。
「さすが――銀の神子だ。これは……手強い」
笑っている――顔が見えないのに、確かに笑っている気配だけが伝わってくる。
「でもね、お嬢さん。わたしは“彼女”があの吸血鬼を殺すまでの時間稼ぎなんですよ」
セレナが一瞬、店の中へと目を向けた――
そこには、少女の姿と、追い詰められたエンドの気配が残っている。
「行かせないよ」
「これからが盛り上がりだから――ね?」
飼が、また一歩踏み込む。
月明かりの下、銀の剣と銀の神子が激しくぶつかり合う。
地を裂くような剣撃と、静かなる狂気が、町の空気を引き裂いていく――
「吸血鬼、お前らだけは――全員、殺す」
少女の声は低く、怒気と怨念が絞り出されたような響きだった。
その言葉とともに、少女の体が突然、びくりと跳ねた。
骨が軋む音。
肉が膨張し、皮膚の下で何かが蠢くような異音が響く。
「……!」
俺が身構えるより先に、少女の身体は大きく膨れ上がった。
服を破って飛び出したのは、純白の毛皮に覆われた獣の四肢。
背骨が隆起し、爪が異様に伸び、牙が覗く。
白く、美しく、そして獰猛な――狼。
「人狼……?」
セレナ呟いた瞬間、背後からカイの声が届く。
「知ってます?吸血鬼さん。“人狼”って」
彼は銀の剣を軽く肩に担ぎながら、どこか淡々とした口調で続けた。
「――あの子、かつて吸血鬼の元に囚われていたんです」
セレナの表情が微かに動いた。
「吸血鬼は、時折“人間”を**眷属**にする。
その際に、“呪い”をその体に注ぎ込む……言わば、血の契約ですね」
「でも中には……」
カイは小さく笑った。
「“人狼”を改造しようとした、愚かな吸血鬼もいたんですよ。
より強く、より鋭く、より従順な……兵器としての人狼を作ろうとね」
月明かりの下、白い狼が静かに低く唸っている。
「その実験台にされたのが――あの子です」
「吸血鬼の呪いがあまりにも強すぎて、眷属化は逆に破綻した。
体内の呪いが暴走し、吸血鬼の制御がきかなくなって……」
「結果、彼女はその名も知れぬ貴族の吸血鬼を引き裂いたんですよ」
俺は、白い獣の瞳と視線が交差するのを感じた。
獣の中に――泣いている人間の目がある。
「人狼としての呪いだけが体に残った彼女は、
もう人間には戻れない。
ただの少女として生きる未来は、奪われた」
カイは、ゆっくりとため息を吐いた。
「だから……あの子は、吸血鬼を恨んでるんです。
理屈じゃない。ただ、本能で――命を賭けてでも、殺しにくる」
「エンド!」
セレナの叫びが響くが、
その時、カイの口元がゆっくりと笑みに歪んだ。
「――今日は、満月。
人狼の力が、もっとも高まる夜ですよ」
白銀の獣が、空間そのものを裂くように跳んだ。
その跳躍だけで、周囲の空気が凍りつく。
俺は反応すらできず、店の奥の壁に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
背骨がきしむ音と同時に、肺が押し潰された。
口の中に、鉄錆のような血の味が滲む。
“彼女”の瞳には、もう言葉は届かない。
そこにあるのは、呪いに焼かれた憎悪だけだった。




