第44話 満ちる月、欠ける静寂
その日は、かなり遅くまで宿で休んだ。
久しぶりの柔らかいベッドと、外気を遮る静かな部屋。
どれほど体と心が限界に近かったのか、目を閉じた瞬間、意識が深く沈んでいったのを覚えている。
気づけば、日は高く昇り、窓から差し込む光が部屋の壁に淡く映っていた。
「……ん、おはよ」
セレナが、もぞもぞと布団の中から起き上がる。
寝ぼけ眼を擦りながら、ぼんやりとした声でそう言った。
その姿は、戦場に立つときとはまるで違っていて――
肩まで伸びた銀色の髪が寝癖で少し跳ねているのが、妙に人間らしくて、俺はつい口元が緩むのを抑えきれなかった。
「……おはよう。よく寝れた?」
「うん……たぶん」
そう呟いて、彼女はのろのろと立ち上がる。
そして、こちらをちらりと見ながら少しだけ目を細めた。
「シャワー、浴びてくる。……覗かないでね」
「覗かないよ」
俺は思わず苦笑した。
「……フフ、冗談よ」
そう言って、セレナはタオルを手にバスルームへと入っていった。
扉が閉まり、水の音が静かに響きはじめる。
その音を背に、俺は椅子に腰を落とし、カーテン越しの外をぼんやりと見つめていた。
街の空はまだ明るく、遠くで誰かの呼び声が微かに聞こえる。
けれど、出歩く気にはなれなかった。
――活動を始めたのは、結局、日が沈んでからだった。
太陽が完全に地平線の向こうへと姿を隠し、
代わりに冷たい夜風が街を撫で始める頃。
ようやく、俺たちは静かに部屋を出た
「と・り・あ・え・ず・ご飯」
セレナがじれったそうに言いながら、腹を押さえて小さく眉をひそめた。
普段は冷静で余裕のある彼女が、ここまでストレートに“空腹”を訴えるのは珍しい。
それだけで、今回の旅がどれだけ苛酷だったかが伝わってくる。
「……了解。はい、隊長の命令です」
俺が苦笑しながら立ち上がると、セレナは「早く」と言わんばかりに先に扉へ向かっていった。
外はすっかり夜。
"満月"が街灯の届かない路地をぼんやりと照らしている。
満月が、やけに明るい夜だった。空気が澄んでいるせいか、まるで昼のように白く輝いている。
開いている店は少なかったが、角を曲がった先に小さな食堂を見つけた。
看板は剥げかけていて、店先に吊るされたランタンがかすかに揺れている。
中に入ると、素朴な木のテーブルと椅子が並んでいた。
客はまばらで、誰もこちらを気に留める様子はない。
「ここでいいか?」
「文句ない。……むしろ、今なら藁でも食べられそう」
「やめとけ」
店の店主がメニューを持ってやってきたので、俺たちは適当に腹にたまりそうなものを頼むことにした。
「とりあえず、肉とスープと……それとパン。あと、あんたの分も何か適当に」
「全部多めにしてもらって。……」
セレナは真剣な目で注文を追加していく。
(……こいつ、本当に腹減ってんだな)
俺は心の中で呟いた。
やがて、熱々のスープと香ばしい肉料理が運ばれてくる。
セレナは何も言わず、すぐにナイフとフォークを手に取った。
一口、そしてもう一口。
彼女の動きに迷いはなく、静かだけど――どこか嬉しそうに見えた。
その姿を見て、ようやく“日常”が戻ってきた気がした。
店に、もう一組の客がやってきた。
キィ……と静かに開いた扉から現れたのは、小さな少女と――全身を白装束で覆った男だった。
(……やけにアンバランスな組み合わせだな)
俺はそう思った。
少女は年端もいかないように見えるが、その瞳はまるで何かを飲み込んだ後のように、濁っていた。
男は顔を覆うように深くフードを被っていて、肌もほとんど見えない。
目元すら見えないのに――なぜだか“笑っている”ような気配だけが、じわじわと伝わってくる。
彼らはまっすぐカウンターへ向かい、注文を告げた。
「……あの人たちと、同じ料理を」
男が俺たちを指差した。
「それと……ニンニクを、たっぷりと」
その声には無邪気さが一片もなかった。
まるで毒を盛るような声音だった。
(ニンニク……)
鼻をくすぐる、あの独特の刺激臭が頭に思い浮かぶ。
(……あんまり匂い好きじゃないんだよな。吸血鬼になってから、特に)
いやな予感が、背筋を這い上がってくる。
料理が運ばれるより先に――その“気配”が、空気を変えた。
「こんばんは、吸血鬼さん」
男がこちらに振り返った。
「今日の“満月”は、綺麗だね」
その一言が落ちた瞬間――
店の中にあった喧騒が、すべて“消えた”。
(……?)
誰もいない。
さっきまでいた店主も、他の客も――
まるで最初から、俺たちと“奴ら”しかいなかったかのように。
通りに面した窓の外も、妙に静まり返っている。
まるでこの空間ごと、何かに“切り取られた”ようだった。
隣に座っていたセレナの手が、ぴたりと止まっていた。
フォークの先から、まだ温かいスープがぽたりと皿に落ちる。
彼女も、ただならぬものを感じ取っている。
俺は、そっと懐に手を伸ばす。
取り出したのは、仮面。
それは――
泣きたくても泣けない、“血の涙”を流す仮面。
俺は静かにそれを顔にかぶせた。
ここから先は、ただの食事じゃ済まない。
そして、白装束の男がゆっくりとこちらに顔を向けた。
やはり、笑っている




