第43話 この街には匂いがする
「ふぅー……やっと着いた。久しぶりの宿だな」
肩にかかったリュックをずらしながら、俺は大きく息を吐く。
セレナも小さく頷き、街の奥を見やった。
「ようやく、少しは……ゆっくりできそうね」
そう言った彼女の声には、ほんのわずかに安堵の色が滲んでいた。
長い道のり、連日の野宿、そして断続的な戦闘。
体力だけじゃない。精神も、少しずつすり減っていた。
町に入ってすぐ、違和感に気づく。
通りの人々が、ちらちらとこちらを見ては視線を逸らす。
擦れた石畳、ひび割れた看板。
どこか寂れたこの町は、時間の流れから取り残されたような静けさを持っていた。
「……あんまり歓迎されてないな」
俺が小声でつぶやくと、セレナは目線を町人の一人にやり、ふっと表情を曇らせた。
「当然よ。見知らぬ旅人なんて、警戒されて当然の場所よ、ここは」
「……まぁ、とりあえず宿を取るか」
俺が言うと、セレナは無言で頷いた。
ひとまず今日の寝床を確保する――
宿の部屋に入り、扉が閉まった瞬間、ようやく心と体が緩むのを感じた。
外の空気はまだ重く、街のざわめきは不穏なままだったが、ここだけは――少なくとも今だけは、少しの静寂が守られていた。
セレナは黙って窓を閉め、荷物を床に下ろす。
俺も同じように、壁際に腰を下ろして、しばらく天井を見上げていた。
しん……とした空気の中、言葉がひとつ、自然にこぼれる。
「……セレナ、血……吸っていい?」
部屋の空気が、ほんの一瞬だけ静かに揺れた気がした。
それでも彼女は、すぐにいつもの口調で――
疲れた顔を見せることもなく、ただ静かに言った。
「いいよ」
いつもと変わらない。
本当に、何も変わらないような声だった。
けれど、その“変わらなさ”に、どれだけの気遣いが込められているのか――俺には痛いほどわかっていた。
セレナは椅子に腰をかけると、髪を片方に寄せ、首筋を見せやすいようにそっと襟元をずらす。
月明かりが差し込む窓際で、彼女の肌は白く静かに光っていた。
「加減、ちゃんとしてよね」
「……わかってる」
俺はそっと近づく。
吸血の衝動は、喉の奥からじわじわと熱を帯びて広がる。
けれど、急がない。焦らない。
セレナの鼓動がわずかに伝わる距離で、深く息を吐いた。
そして――牙を立てる。
「……っ」
微かに、セレナの体が震える。
それでも彼女は何も言わない。痛みにも、緊張にも、快楽も、一言も。
流れ込んでくる彼女の血は、あたたかくて、静かだった。
甘さも、苦さも、混ざり合った深い味わい。
何度味わっても――この血は、“彼女”そのもののように思える。
決して、“渇き”を満たすだけのものではない。
“生きている”ことを、思い出させるものだ。
吸血を終えると、そっと口を離す。
セレナは目を閉じたまま、小さく息をついた。
「……大丈夫?」
俺が問うと、セレナはゆっくり目を開けて、薄く笑った。
「慣れたよ……って言わないと、あなたがまた背負うから」
その笑顔が、どこか切なくて――
俺は、それ以上何も言えなかった。
ほんの少しの沈黙が、部屋を優しく包んでいた。
気のせいだろうか牙が"ムズムズ"と疼くような感じがした
セレナはふと立ち上がり、軽く伸びをしながらカーテンを閉めた。
外から差し込んでいた月明かりがゆっくりと遮られ、部屋の空気が一段と静けさを増す。
「……もう寝るよ。疲れた」
彼女はそう言って、振り返ることなくベッドの縁に腰を下ろした。
その背中には、どこか緊張の糸が緩んだような雰囲気があった。
戦いの中では決して見せない、誰にも見せない表情――けれど今だけは、その少しの無防備さが、なんだか少しだけ嬉しかった。
セレナは無言のままベッドに身体を横たえ、毛布を肩まで引き上げた。
その動作ひとつひとつに、疲れがにじんでいる。
しばらく俺は、その背中を見つめていた。
枕に流れた彼女の髪が、月明かりを淡く弾いて揺れている。
戦場では決して見せない無防備さ――それが今、この小さな部屋の中にはあった。
寝息は浅く、けれど静かで、安心しているようにも感じられた。
不意に、その音に耳を傾けながら、俺の胸の奥にも、少しだけ温かな何かが灯る。
(……セレナも、ちゃんと疲れてる。俺だけじゃないんだ)
そんな当たり前のことを、今さら思い知った気がした。
「うん……おやすみ」
俺はそう返しながらも、しばらく彼女の背中を見つめていた。
伸ばしかけた手を、一瞬迷ったあと、そっと彼女の髪を撫でた
「うん」
セレナが誰にも聞こえない声で言った。
ほんの少しだけ、彼女の肩がかすかに震えたようにも見えたけれど――
きっと、それは気のせいだったんだと思う。
焚き火もない静かな部屋の中で、ただ彼女の寝息が、ゆっくりと夜に溶けていった。
その町にもうひとつ、異質な“気配”が混ざり込んだ。
町は暮れ、
人々が店を閉め、通りが静かになり始めた頃――
石畳を踏む足音が、湿った空気を切り裂くように響く。
少女は、ふと立ち止まり、鼻先を小さくすんと鳴らした。
風が一筋、彼女の髪を揺らす。
「……臭う。ここだ」
その声はかすれていたが、はっきりとした確信が滲んでいた。
忌々しげな声音には、静かな怒りと――濃い殺意が混ざっていた。
「吸血鬼……」
そう呟いた少女の目は、獲物を捉えた獣のようにぎらついていた。
その体は小さく、か弱く見えるのに、宿しているものは明らかに“それ”ではなかった。
隣の男が、にやりと口角を吊り上げた。
鼻先を指でこすりながら、まるで踊るような足取りで言葉を継ぐ。
「そうかい、そうかい。やっぱりこの町か……君の鼻はすごいな、ほんと」
「早く見つけて殺さなきゃ……」
「ここか"夜の匂い"がするのは」
少女の声はどこか機械的だった。
激情を抱えているはずなのに、感情の温度が抜け落ちたような――まるで、誰かに吹き込まれた台詞のように。
アンバランスな二人――
饒舌な男と、釘を呑み込んだような瞳をした幼い少女。
その存在は、町の色あせた風景にそぐわなかった。
歩くだけで空気が歪むような違和感。
まるで“異物”が、ゆっくりと何かを侵食していくように。
誰もがすれ違いざまに視線を逸らす。
関わってはいけない、目を合わせてはいけない――
本能がそう告げている。
そして二人は、ただ歩く。
吸血鬼を探して。
血の匂いを辿って。
町の“静寂”を、ゆっくりと噛み砕くように―
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