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第35話 悪い人生じゃない、ただ…

3章始まりました!

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 俺とセレナは、今、船に揺られている。


 船底を打つ波の音と、遠くで鳴るエンジンの唸りだけが、薄暗い船室の静寂を埋めていた。窓の外に広がる海は灰色で、どこか不吉な気配を漂わせている。


 目指す場所は――カムシャン連邦。


 世界の“傷跡”とも言われるその地は、魔物の大量出現によって文明の進行が大きく後退した地域だった。産業革命も情報化も、全てが足並みを揃える前に喰い荒らされ、国の枠組みすら機能しなくなった。技術が追いつかないままに街が焼かれ、村が消え、人が“信仰”にすがり始めた。


 結果、かつて存在したいくつもの国が、生存のために手を取り合った。

 教科書に載っている世界史では、「旧中国」から「旧インド」にかけて広がる一帯――

 いくつもの民族、宗教、言語、文化が入り混じり、統一された“形”を持たないままに誕生した“国家”。それが、カムシャン連邦だ。


 領土だけを見れば、日本の数十倍にも及ぶ。

 けれど、そこにあるのは秩序ではない。むしろ、**多すぎる“違い”と“不和”**だった。


 日本と比べれば、技術力は数年以上遅れている。

 さらに問題なのは、魔物の“活発化”だ。

 森林に、廃墟に、地下の水脈に――あらゆる場所に“棲みついている”それらは、夜ごとに集落を襲い、人々の間に恐怖と混乱を根づかせた。


 広大な土地ゆえに、“国家”の目が届かない場所も多い。

 そのため、地方ごとに異なる“土地信仰”が今なお根強く残っている。

 神ではないものを神と祀り、血を捧げ、祈りを捧げる。

 その信仰の名のもとに、数えきれないスラムが発生し、国としての形すら曖昧な場所も存在する。


 そして、公用語は“英語”。


 だが、それもまた、全てを統一するための方便に過ぎない。

 地方では旧言語が混ざり合い、通訳がいなければ何を話しているのかすらわからない。

 同じ“人間”でありながら、考え方も、文化も、価値観すらも違う――**本当の意味で、“異国”**なのだ。


 そこへ、俺たちは向かっている


(君たちの力じゃ、まだ足りない。……だから、世界を見て回るといい。)


 神代のあの言葉が、船の揺れに乗って何度も頭の中に響く。


 俺たちが向かっているのは――カムシャン連邦。

 その玄関口、“シェン港”。


「エンド、シェン港……もう少しで着きそう」


 甲板から戻ってきたセレナが、軽く風を払うように髪を揺らしながら言った。


 俺は船室の片隅に座り、古ぼけたランプの明かりの下で本を開いていた。




 船底の振動が静かに伝わる中、壁に伸びた俺の影が、ふと“ざわり”と揺れた。

 ランプの炎が揺れたわけでも、風が吹いたわけでもない。

 ……まるで、影が“俺の思考”に呼応したかのように――

 少しだけ、視線を壁の影にやった。だが、特に何も起きなかった。

 気のせいか。

 そう思いながら、本へと視線を戻す。




 太陽の光を浴びないよう、昼の間はできる限り外に出ないようにしている。


「……エンド、何見てるの?」


 セレナが俺の隣に腰を下ろし、覗き込むように顔を寄せる。


 開いていたのは、英語で書かれた一冊の本だった。


「これは、英語の本だ。……セレナは話せるんだろ?」


 俺は視線をページから外さないまま、静かに訊ねる。


「うん。昔の話だけど、私の出身は英語圏だったから」


「そうか……読めたら便利だろうなって思ってな」


 そう言いながら、俺は本を閉じた。

 本当は――“英語を学ぶため”に買ったわけじゃない。

 ただ、そのタイトルに何かが引っかかっただけだった。


 表紙には白いインクで、こう刻まれていた。


『Bad Life』


 最後に読んだページには、こうあった。


“It’s just a bad day, not a bad life.”


 直訳すれば、“今日は悪い日だっただけで、人生が悪いわけじゃない”。


 どこか納得できそうで、でも……心の奥に沈む“何か”を動かすほどではなかった。


(本当に……そうなのか?)


 言葉は綺麗だ。慰めとしてはよくできている。

 でも、あの日、太陽に焼かれて灰になりかけた自分にとって、それはあまりに遠かった。


 ため息を一つつき、俺はページを閉じそっと目を伏せた。


 船の揺れに合わせて、木の壁が軋む音が響いていた。

 そのリズムに背を押されるようにして、俺は立ち上がった。


 夜になった今なら、外に出られる――


 船室の扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。

 月が海面に白く滲んでいる。今日は三日月。

 空には雲ひとつなく、春の風が優しく甲板を撫でていた。


「……やっぱ、夜は落ち着くな」


 誰に言うでもなく、そう呟くと、後ろからセレナが肩を並べて立った。


 言葉の余韻とともに、遠くにぼんやりとした光が見えてきた。

 おそらく、あれがシェン港――


 夜の闇の中、俺たちの次なる舞台が、静かにその輪郭を現しはじめていた。




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