第103話 ジョーカー
それは、イギリス中で視聴率を誇る人気深夜番組――
上品な観客ときらびやかな照明、シニカルな笑いと皮肉に満ちたトークで知られる、「The Murray Franklin Show」。
スタジオのライトがゆっくりと落ち、司会者マレーの姿がスポットライトに照らされると、観客の拍手と歓声が一斉に湧き上がる。
「Ladies and gentlemen, 今夜のゲストは――」
マレーがおどけた調子で口元を吊り上げた。
「……最近ロンドンの街角で“何かと話題”の彼です。ピエロであり、芸人志望であり、そして……まぁ、とにかく謎の多い男だ」
音楽が流れ、ステージ奥から現れたのは、紫のスーツを纏った異様な男。
化粧は分厚く、目元は笑っているようでどこか虚ろ。
奇妙なダンスを刻みながら、アーサー・フレディーはスポットライトの下へと進んでくる。
観客席が一瞬ざわつき、拍手は不規則に波打った。
「ようこそ、“Mr.アーサー”!」
マレーが手を差し出す。
アーサーはほんのわずか間を置いてから、その手を握り返した。
「よろしく、マレー」
「あぁ、よろしく。どうぞ座ってくれ」
「ありがとう」
2人が向かい合ってソファに腰を下ろす。
「さて、アーサー」
マレーは、軽く手を組んで、笑いながら話を切り出す。
「今日はどんな面白い話が聞けるかな? 君のネタ動画、最近SNSでやたら見かけるんだよ。“爆笑”ってタグがついてたな、あれ」
観客からも笑いが漏れる。
だが、アーサーの顔に浮かぶのは、笑いではなかった。
「面白い話か……」
彼は小さくつぶやき、視線を少し落とす。
そして、顔を上げる。
「君たちは、地面に湧いた害虫を見つけたら殺すよね?」
一瞬、空気が止まる。
マレーは苦笑いを浮かべた。
「まぁ……家の中に出ればな、殺虫剤でもなんでも使うさ。だれだって嫌だろう」
「でもさ、その虫も、必死に生きようとしてるんだ。気づかれないように、静かに、空腹と闘って……」
観客の一部が困惑気味にざわつく。
マレーが場を和ませようと笑う。
「はは、詩人だな、君は。じゃあ――虫にも救済の手を?」
アーサーはゆっくりと首を振る。
「違う。救う必要はないよ。でも……せめて、踏み潰す前に、気づいてあげるべきなんじゃないか」
「ほう……なにか、個人的な経験が?」
「あるよ」
アーサーは唐突に口角を引き上げ、笑顔を作る――だがその目は笑っていなかった。
「みんな、俺を見なかった。路上で倒れてても、誰も止まってくれなかった。笑って、通り過ぎるだけだったよ」
沈黙。
マレーの笑みが、わずかに引きつる。
「だからさ、僕はね――今夜、ちゃんと“見てもらう”ために来たんだ」
観客の拍手は起きなかった。
誰もがその奇妙な空気の変化を感じていた。
その“笑い”は、もう“笑い話”ではなかったからだ。
「……それは、どういうことかな?」
マレーが笑顔を崩さずに問いかける。
けれど、その眉間には、ほんのわずかな皺が寄っていた。
「んー、つまりね……」
アーサーは一拍置いて立ち上がる。
そして――ゆっくりと、マレーの方へ身体を向けた。
その手を、ピストルの形に構える。
「……こういうことさ」
その瞬間、アーサーの目がぞっとするほど紅く染まった。
笑っていたはずの瞳が、獣のような光を宿す。
“バンッ!”
銃声のような乾いた音が、スタジオの空気を真っ二つに裂く。
血弾が空を裂き、マレーのこめかみを貫いた。
椅子に凭れかかるように、そのまま沈む彼の身体。
……沈黙。
誰もが、その光景を“理解するまでの時間”を必要とした。
音が消えた世界の中で、ただ心臓の鼓動だけが耳を打つ。
次の瞬間――
「キャアアアアアアアア――!!」
悲鳴が、観客席を駆け抜けた。
スタッフは混乱し、カメラがぶれ、照明が一部落ちた。
逃げ惑う観客、倒れる椅子、鳴り響く警報――
その中で、アーサーだけが静かに立っていた。
やがて彼は、狂気の笑みを浮かべたまま、ゆっくりとカメラに向かって歩き出す。
一歩。二歩。三歩。
スモークの残るスタジオ中央に立ち、正面のカメラへと顔を寄せた。
「これが――お前たちがしてきた“仕打ち”だ」
その声は、低く、けれどマイク越しに全英国へと響き渡る。
笑っていない。だが、異様な熱と確信に満ちていた。
「お前たちは言った。“吸血鬼は怪物”だと。“病気”だと。“駆除対象”だと――」
アーサーは声を上げる。
その瞳には、何千何万の“地下に追いやられた声なき者たち”の怒りが宿っていた。
「そうやって、俺たちを隠させた。追い詰め、飢えさせ、名前すら持たせなかった!」
彼は一歩、さらに前へ出ると、スタジオの天井カメラに顔を向け、両腕を広げた。
「でも、もう終わりだ」
声に震えはない。むしろ、異様な静けさと狂気を孕んでいた。
「これからは、吸血鬼が――お前らを嗤い、喰らう番だ!」
――その声が、生放送のまま、世界へと発信されていく。
「地下に潜んでる仲間たち……!
もう怯えるな。もう頭を垂れるな。
“狩られる側”の時代は――今夜で終わりだ」
アーサーは、まるで演説するようにカメラを掴み、顔をぐっと寄せた。
「……このピエロが、反撃の旗印になる」
アーサーは、口角をゆっくりと吊り上げる。
「そうさ。笑い者にされてきた僕が――今、名前を持つ」
一瞬、スタジオ全体が、そしてテレビ越しの視聴者たちが息を呑んだような気配。
「この世間に立ち向かうのは……」
スタジオの照明が一瞬だけ明滅し、赤いランプが点灯しっぱなしのカメラがアーサーを捉える。
コントロールルームのスタッフが言葉を失い、誰もが“それ”を口にするのを恐れていた。
「――“ジョーカー”だ」
バン、とカメラの映像が途切れる。
その直後、全国のスタジオに“非常停止信号”が走った。
けれど、遅かった。
“反逆のピエロ”の姿は、すでに画面越しに――
数多の“夜の者たち”の心に、深く焼き付けられていた。
***
翌朝――
世界は、沈黙と混乱の渦の中にあった。
ロンドン市民は、通勤途中に流れる巨大ビジョンの再放送に足を止めた。
カフェのTVではリプレイが繰り返され、SNSには《#ジョーカー》《#仮面の反乱》というタグが瞬く間にトレンド入りしていた。
「……これは本当に放送されたのか?」
「狂ってる……でも、目が離せなかった」
誰もが目を背けたがりながらも、画面の奥に焼きついた“あの目”――
紅く染まった、笑っていないピエロの目が、脳裏から離れなかった。
一方、ニュース番組では各国のG.O.D支部の代表が声明を発表。
『ジョーカーと名乗る吸血鬼は、明確なテロリズムに該当する。即時の拘束・討伐を含めた緊急措置が検討されている』
その言葉の裏で、地下に潜んでいた者たちは――
笑っていた。
口元を、鋭く、ゆっくりと歪めながら。
「夜が、始まったな……」
そう呟いたその声が、路地の闇の中、誰かの心を呼び起こしていた。
“狩られる側の時代は、今夜で終わりだ”――
その言葉は、世界の“下”で、確かに火を灯していた。
その放送を、じっと見つめていた“誰か”がいた。
冷たい窓辺に一人座り、ぼろぼろの白衣を羽織った少女。
笑っていなかった。けれど――その目は、確かに笑っていた。
「……会いたいな、“ジョーカー”」
かすれた声が、夜の底に消えていった。




