第101話 ロンドンの夜
ロンドン地下
地上の喧騒とは無縁の、沈黙に沈む空間。
それは、かつて戦時中に作られた避難壕、廃駅、廃線、古代の水路、そして時を超えて繋がり続ける地下通路群――
その全てが積み重なり、やがて“都市そのものの影”と化した領域だった。
瓦礫に埋もれたプラットフォームの跡。落書きと血痕が交じるコンクリ壁。天井からは水滴が絶え間なく落ち、鈍い音を響かせる。
空気は澱み、呼吸を拒むほど湿っている。
電力の通わぬ空間には、かすかに燻る松脂の炎と、誰が点したとも知れぬ赤い提灯のような光が、幽かに揺れていた。
そして、その闇の奥――
「……“杭”の奴ら、また騒いでるな」
低く、掠れた声が響いた。
スーツのまま血で濡れた男が、足を投げ出し、崩れたベンチに凭れかかっている。
「聞いた。地上が騒がしい。
……何でも、顔の見えねぇ奴が“夜の狩り”をやってるらしい」
金髪を逆立てた若い吸血鬼が、煙草の火で赤い目を照らす。
指先に持った煙草から立ち昇る煙は、妙に鉄臭い――まるで血を燻したような香りだった。
「顔が見えねぇってのが、また不気味だな」
「ヒーロー気取りか? 自分と同族だけを喰うなんて……さぞご立派なことだよ」
壁際で膝を抱えていた影が、くつくつと笑う。
「でも、限界だろう。
……喰い物がねぇ。もう人間も地下に降りてこねぇし」
「だったら、壊すか」
短く、どこか退屈そうに言ったのは、手足の長い女の吸血鬼。
口元には微笑み。だがその瞳は、乾ききった飢えの色を湛えていた。
「この街を、もう一度――“夜”に沈めてやる」
その場の空気が一瞬、ぴりりと張り詰める。
だが、誰かがぽつりと呟いた。
「……“あの方”は?」
静かに、空気が変わった。
誰もが、無言になる。
たとえ名を出さずとも、そこに“絶対”がいると知っていた。
長きにわたり闇を支配してきた存在。
表の貴族どもさえ敬遠する、“本当の旧き夜”。
「……あの方が動けば、こんな仮面野郎ひとり――瞬きのうちだ」
「俺たちは、その合図を待てばいい。
夜の主が目を覚ます時、ロンドンは……“夜の棺”になる」
遠く、崩れたトンネルの奥から、何かが蠢く音が聞こえた。
骨のような音。濡れた足音。
否、呼吸のような……“なにか”が目を覚ました気配。
やがて、その場の誰かがぼそりと呟く。
「……ロンドンの“夜”は、終わらねぇな」
そこは、ロンドン郊外の森にひっそりと隠されていた。
古地図にも載らぬ領域――“夜の頁”にだけ記される館。
そこに、時代に取り残されたような豪奢な館がある。
鋳鉄の門は蔦に覆われ、敷き詰められた石畳には赤黒い苔がしみついている。だが、館の中に一歩でも足を踏み入れれば、空気は一変する。
調度品はどれも西方の王族が愛したとされる逸品。黒檀の階段、血のように紅い絨毯、天井には金と銀で織られた月の刺繍が広がっていた。蝋燭は絶えず揺れ、光はあるのに明るくはない。窓は閉ざされ、外界と断絶された静謐の空間。
その一室。最奥の間。
赤い絹のカーテンの向こう、巨大な月を模したガラスの照明の下、玉座のように配置された漆黒の椅子に、一人の男が静かに座していた。
皮のように滑らかな黒のコートを纏い、首元に深紅のスカーフ。長く、流れるような銀髪。瞳は深い琥珀に似た赤で、まるで燃えるようでありながら、すべてを凍らせる冷たさをも孕んでいる。
館の奥、仄暗い執務室――
重厚な本棚が壁一面を覆い、香木の香りがほのかに漂う。蝋燭の光が赤い絨毯を淡く照らし、静けさはまるで礼拝堂のようだった。
「侯爵様、今宵は……ご機嫌のようで」
絹のような声で話しかけたのは、年老いた執事。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、手には銀の盆を携えている。
漆黒の椅子に座る男――侯爵は、ゆっくりと振り返った。
その背後、壁に飾られているのは、一枚の大きな肖像画。
緋のスカーフを纏い、金糸の装束を纏った男――そう、侯爵自身の若き日の姿だ。
だが、その外見は今も変わっていない。
時の流れを忘れたかのように、肖像と現実が寸分違わぬ顔で並んでいた。
ただひとつ異なるのは、瞳に宿る“静寂”の深さだけ――
琥珀の瞳が、肖像の中ですらこちらを見据えてくるようだった。
「わかるか?」
侯爵が、静かに問う。
執事は恭しく微笑を浮かべた。
「何年ご一緒しているとお思いですか。気配の変化など、眼を閉じていてもわかります」
「ふふ……そうだな」
侯爵は薄く笑い、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
革靴が絨毯を沈め、静かな足音が室内に響く。
「そろそろ――地下の連中が騒ぎ出す頃合いだと思ってな」
「ほぉ……それでは、G.O.Dと戦の兆しが?」
「可能性は高いだろう」
そう言って、窓辺へと歩み寄る。
そこには、分厚いカーテンが重なり、外の世界を拒むように閉じられていた。
しかし侯爵は、その幕の向こうにある“夜”を見通すように、言葉を続ける。
「だが……この地に、ついに“エンド”が現れたそうだ。
そして、その隣には一人の女。――あの光の後継者がいる」
「ほう……ようやく、ですね」
「エリシアの奴が討たれてからというもの、ようやく“実り”が見え始めた」
執事は、盆を静かに置き、侯爵の前にワイングラスを差し出す。
中には、深紅の液体――それはワインではない、濃密な“血”だった。
「ふふふ……楽しみだな」
侯爵はグラスを手に取り、ゆっくりと一口。
血の香りが空気に溶ける。
そして、静かに呟いた。
「……今夜も、月が綺麗だ」
その声は、血に酔うでも、戦を喜ぶでもない。
まるで、これから始まる“戯れ”を待ち望む、孤高の王のような響きだった。




