第100話 影と影が重なる夜
ロンドン中心地――
テムズ川沿い、国会議事堂や金融街を望む最高地。
そこに、巨大なガラスと金属で構成された堂々たる施設が聳え立っていた。
広大な敷地に、近代建築の粋を集めたメインタワー。
反射する黒いガラス壁、耐爆仕様の外壁、そして無数の監視システム。
だがそれは秘密でも隠蔽でもない。
むしろ、堂々と存在を示す象徴だった。
――Grave Order Division
通称、G.O.D。
人類を脅かす超常存在――吸血鬼、魔物、異界種――
それらに対抗するため、各国の共同決議によって設立された世界規模の対魔機関。
ここ、ロンドン本部はその中枢であり、世界中からエリートが集まる最重要拠点だった。
白銀の杭と十字架を組み合わせたG.O.Dの巨大なエンブレムが、堂々とメインゲート上に掲げられている。
昼夜を問わず多くの職員たちが出入りし、
厳重なセキュリティをすり抜けて、国内外の外交官や研究者、軍事担当官たちが訪れる。
対魔は国家安全保障の一部。
それがこの世界では常識だった。
ロンドン市民にとっても、G.O.Dは恐れる対象ではない。
むしろ、日常の延長線にある「守るための壁」として受け入れられていた。
幼い子供たちですら、学校の授業で「G.O.Dの歴史」を学び、
制服姿のエージェントたちは街角で時折目にするヒーローのような存在だった。
だが――
その内部に渦巻く緊張感と緊急性だけは、
外からはうかがい知れない。
***
エントランスホール。
巨大なガラスドームの天井から陽光が差し込み、白い大理石の床に人々の影を落としている。
その一角、カフェスペースで休憩を取っていた若いエージェントたちが、低い声で囁き合った。
「なぁ、聞いたか?」
「最近、吸血鬼だけを殺しまわってるやつがいるって」
「しかも……目撃証言じゃ、そいつも吸血鬼らしいぜ」
カップを傾けながら、苦笑する。
「人間を襲わず、同族を狩る吸血鬼か。……どこの漫画だよ」
「いや、こっちは洒落にならない。
“二十一世紀の切り裂きジャック”――そう呼ぶ奴らまで出てきてる」
軽い笑いが漏れる。
だがその裏に、確かな警戒心が滲んでいた。
「本部上層部も動き出すかもな。
どんな存在でも、放っておけない……たとえ、それが今は味方に見えても」
ガラス越しに、遠くテムズ川が揺らめいて見える。
古い街並みと、未来的な施設が交錯するこの街で、
静かに、新たな異変が胎動していた。
夜は、まだ冷たかった。
遠い灯りすら霧に溶けて、世界はただ静寂に沈んでいた。
そんな夜を裂くように、セレナは低く告げた。
「エンド、また――ひとりで夜、吸血鬼狩りに行ってたでしょ」
声音は静かだった。
だが、その静けさは、鋭利な刃のように、エンドの胸に突き刺さる。
エンドは無意識に視線を逸らす。
夜のどこかへ、言葉の出口を探すように。
「……仕方ないだろ」
仄かに冷たい声で、言い訳にも似た答えを落とす。
「セレナが戦ったら、ヴァチカンの人間だってバレる。
お前の顔は――この国じゃ、知られすぎてる」
それは確かに、正しい理屈だった。
だが、セレナはほんの僅か、肩を揺らしてため息をつく。
その横顔は、夜の光を受けて白く、どこまでも静かだった。
「まぁ、その可能性はあるけど」
あっさりと受け流す。
しかし、すぐに、その瞳をエンドへと向けた。
銀の瞳が、迷いなく彼を射抜く。
「でもね、エンド――」
静かに、ゆっくりと、確かめるように言葉を紡ぐ。
「だからって……また、すべてをひとりで背負う理由にはならないでしょう?」
夜風が、二人の間をそっと撫でる。
けれど、その距離は、もう容易には離れなかった。
「……俺は別に、抱え込んでるつもりは……」
エンドはかすれた声で返す。
だが、その言葉を遮るように、セレナは一歩、踏み込んだ。
その仕草は、どこまでも自然だった。
「違うのよ」
静かに、けれど、抗えないほどの強さで。
「私には、わかるの。
……だって、私は、あなたの隣を歩くって、もう決めたんだから」
その一言は、剣戟よりも鋭く、深く、エンドの心に届く。
しばし、沈黙。
夜の匂いだけが、二人を包み込む。
エンドは、苦笑するように、ゆっくりと息を吐いた。
そして、顔を上げる。
「……セレナ」
かすかに微笑むその顔は、仮面を捨てたただの少年のものだった。
強がりも、絶望も、今はなかった。
そこにあるのは、ただ――ひとりの青年の、素直な表情だけ。
「……ごめん」
短いけれど、確かな謝罪。
セレナもまた、ふっと目を細める。
月のない夜に咲く、一輪の花のように。
「わかれば、いいのよ」
そして、クールな声音で、ひと言だけ。
「――バカ」
だがその言葉の奥に滲んだ温もりは、確かにエンドを救っていた。
夜は、まだ冷たかった。
けれど、ふたりの間だけには、確かな温もりが灯り始めていた。
音もなく、夜風が吹き抜ける。
それでも、エンドは思った。
(……俺は、もう独りじゃない)
月も星もない夜空の下で。
寄り添った影は、やがて、夜そのものと溶け合いながら――
確かに、同じ歩幅で、同じ夜を、歩き始めていた。




