第98話 小さな宿と小さな灯り
「ここが、私の家の宿です」
女性は少し恥ずかしそうに笑いながら、小さな建物を指し示した。
路地を抜けた先、ぽつんと建っていたのは――
石造りの、二階建ての宿だった。
壁は黒ずみ、ところどころ漆喰が剥がれ落ち、
古びた灰色の石材が、夜の闇の中で静かに佇んでいた。
入り口の上には、錆びた鎖にぶら下がった小さな看板。
風にきしみながら揺れているそれは、もはや文字を判読するのも難しい。
分厚い木のドアと、無骨な鉄の取っ手。
わずかな灯りだけが、宿がまだ生きている証のように漏れていた。
窓は少なく、牢獄を思わせるような無骨さ。
けれど、その内側にかけられたレースのカーテンだけが、ささやかな温もりを宿していた。
周囲には人気もない。
ただ、夜気がしんしんと吹き抜け、石畳を乾いた音でなぞっていくだけ。
エンドとセレナは、静かにその宿を見上げた。
――時代に取り残されたような、寂しげな建物。
だが、それは同時に、旅人たちを受け入れる、小さな港にも見えた。
「ふぅ〜……休める〜」
セレナが、ほっと肩の力を抜いて言った。
船旅と戦闘で、身体には確かな疲労が溜まっていた。
だが、こうして小さな灯りを見るだけで、少し心がほどける気がした。
「ふふふ、今から話を通してきますね!」
女性は笑顔でそう言うと、小走りで宿の中へと入っていった。
数分後。
ドアが開き、彼女と共に、もう一人の男が姿を現した。
無骨な顔立ちに、白髪交じりの髪。
年季の入ったコートを羽織り、厳つい見た目とは裏腹に、深く頭を下げた。
「娘が……娘が危ないところを助けて頂き、本当にありがとうございました!」
男の声には、堪えきれないほどの感謝が滲んでいた。
女性――娘も、ぺこりと深く頭を下げる。
「普段はこんな時間に外に出さないんですが……港の方で看板の修理を頼もうと思って……それで……」
娘は申し訳なさそうに俯き、手をぎゅっと握りしめる。
「本当に、助かりました!」
男は、力強くそう繰り返した。
「お代なんて要りません。気が済むまで、ここでゆっくり休んでいってください!」
エンドとセレナは、顔を見合わせ、小さく頷き合った。
旅の途中に、こんなふうに温かな善意に触れることができるとは、思ってもいなかった。
彼らは、深く礼を返しながら、古びた宿の中へと一歩、踏み込んだ。
外では、夜の冷たい風が、まだ石畳を静かになぞっていた。
だが、扉の内側には、確かに――
ほんの少しだけ、温かな夜が息づいていた
「夕食をご用意しますので、あとで食堂まで来てください!」
部屋に案内されるとき、店主が朗らかにそう告げた。
「エンド、もう私、お腹ペコペコ。先に行ってるからね!」
セレナは子供みたいに駆け出していく。
「ああ」
エンドは苦笑しながら、少し後れて歩き出した。
――食堂に入ると、素朴な光景が広がっていた。
石造りの壁に、温かなランプの灯り。
木製のテーブルと椅子がいくつか並び、小さな暖炉からはパチパチと火の音が聞こえる。
料理の香ばしい匂いが、部屋いっぱいに満ちていた。
「あ、セレナさん!」
店主の娘――エミリーが、ぱたぱたと駆け寄ってきた。
白いエプロンを着け、手には大きな木盆を抱えている。
その顔は、弾むような笑顔に満ちていた。
「今から夕食、運びますね!」
そう言うと、エミリーは手際よく料理をテーブルに並べ始めた。
運ばれてきたのは――
金色に揚がった巨大なフィッシュフライと、山盛りのチップス(フライドポテト)。
魚の衣はカリッと音が聞こえそうなほど香ばしく、スパイスをたっぷりまとっている。
隣には、鮮やかなグリーンピースのマッシュと、甘酸っぱいタルタルソースが添えられていた。
皿の端には、レモンのくし切りが一つ。
テーブルに並んだ瞬間、スパイスの香りが鼻をくすぐった。
唐辛子、パプリカ、黒胡椒――刺激的だけど、どこか温かみのある匂いだった。
「今夜はスパイシーフィッシュアンドチップスですよ。
旅の疲れをスパイスの刺激で癒してくださいね」
「美味しそう……いただきます!」
セレナはすぐに手を伸ばし、フィッシュにかぶりつく。
サクッ――
小気味いい音とともに、熱々の白身が顔を出した。
ひとくち、ふたくち――
セレナの顔がパッと輝く。
「美味!」
素直な感想に、エミリーは嬉しそうに微笑んだ。
「ふふふ、よかったです!」
料理を夢中で頬張りながら、エミリーが話しかけてくる。
「私、エミリーって言います。
セレナさんって、おいくつなんですか?」
セレナは、フィッシュを頬張ったまま考え込む。
「ん〜、エンドと出会ったのが17くらい。
そこから……もう3年は旅してるから、20かな」
「えぇー! やっぱりお姉さんだ! 私、まだ16歳ですよ!」
エミリーは目を輝かせて言った。
その無邪気な反応に、セレナは口元を緩める。
次の瞬間、エミリーが顔を寄せ、こっそり囁く。
「エンドさんのこと、好きなんですか?
だって、3年も一緒に旅してるんでしょう?」
セレナは、わざとらしく肩をすくめ、ニヤリと笑った。
「――秘密」
そして、また一口フィッシュを口に運ぶ。
「えぇー! 女性同士なんだから、恋バナしましょーよー!」
エミリーは身を乗り出し、好奇心いっぱいにせがんできた。
セレナは、ちょっとだけ照れくさそうに笑うと、
窓の外――霧のかかった夜の街を、ちらりと見た。
そして、ぽつりと呟く。
「……恋バナなんて、そんな可愛いものじゃないの。
私たちの旅は」
エミリーはきょとんとしながら、それでも屈託なく笑った。
後ろから、軽やかな足音が聞こえた。
「あっ、エンドさん! 今、夕食運びますね!」
エミリーだった。
頬を少し赤らめ、慣れた手つきで盆を運んでくる。
「ありがとう」
エンドは柔らかく礼を言い、席に向き直る。
運ばれてきた料理は――
黄金色に揚げられたフィッシュと、山盛りのチップス。
かすかに立ち上るスパイスの香り。
衣はサクサクと軽やかで、傍らにはレモンのくし切りと、鮮やかなグリーンピースのマッシュが添えられていた。
エンドは、フォークを取り上げると、無言でフィッシュをひとくち齧った。
サクッ、と衣が砕け、中から熱々の白身が顔を出す。
だが――
(……やっぱり、味は、しない)
吸血鬼となった今、血以外の味覚はほとんど失われている。
塩気も甘みも、舌をすり抜けるだけの感触だ。
それでも、エンドは小さく笑い――静かに言った。
「……美味しいよ」
その言葉に、セレナがふと顔を上げた。
嬉しそうに笑いかけかけた――が、次の瞬間、微かに悲しそうな目をした。
その瞳には、言葉にできない想いがにじんでいた。
エミリーは、そんな空気にも気づかず、明るく問いかけた。
「エンドさんって、今おいくつなんですか?」
エンドは少し考え込むように視線を上げた。
「……十九くらい、だっけ?」
何故か、隣に座るセレナを一瞬だけ見て、確認するように答えた。
セレナは苦笑して、肩をすくめる。
「私より歳下だから、たぶん、それくらいね」
「へぇ~」
エミリーは目を輝かせながら、さらに身を乗り出した。
「じゃあ、やっぱり、セレナさんとはいい感じなんですか?」
にやり、と茶目っ気たっぷりに笑う。
エンドは、フィッシュをもうひとくち齧り――
それから、ぽつりと呟いた。
「……そんな甘いもんじゃないよ」
「えぇー! 二人して似たようなこと言う!」
エミリーは可愛らしく頬を膨らませる。
エンドとセレナは、視線を交わした。
互いに、何も言わない。
でも、わかっている。
これは、単なる旅じゃない。
ただの甘い関係でもない。
互いに、命を預け、孤独を背負い、赦し合いながら――
それでも並んで、ここまで来たのだ。
静かに、夜の時間が流れる。
古びた宿の食堂に、暖炉の火が柔らかく揺れ、
テーブルの上にはスパイスの香りと、揚げたての温もりが満ちていた。
外では冷たい夜風が石畳を吹き抜ける。
けれどこの場所だけは、
冷えた夜に抗う、小さな焚き火のように――
二人を、静かに、あたためていた。




