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異世界恋愛短編

冷酷公爵の溺愛はチョコレートよりも甘くなる〜婚約破棄したら溺愛が始まってしまいました〜


 甘くてとろけるチョコレートの香り。

 ふわふわに混ぜた生クリームに、ほのかに感じられるバニラの匂い、そして口いっぱいに広がる幸福感。


「……できた」


 木製のテーブルに並べられた小さな生チョコを見つめ、私はそっとため息をついた。

 異世界の材料を駆使して、ようやく完成させた手作りのチョコレート。

 

 けれど、ひとかけらの愛情も混ぜてはいない。

 言ってしまえば、義理チョコ。


 ──このチョコを餞別(せんべつ)にするんだ。


 ここはフィールノイズ王国。

 数ヶ月前、気がついたら私はこの異世界に転生していた。

 二十五歳のしがないOLとして生きてきた私の最後は、交通事故という不運な出来事であっけなく幕を閉じた。


 そしてこの異世界で目を覚まして一番最初に知った情報は、「冷酷公爵」と呼ばれているエヴァン=ベルメールの婚約者ということだった。


 愛のない婚約に、『冷酷』と呼ばれる男の妻。


 ──いやいやいや! 絶対無理!!


 ただでさえ異世界に来て困惑していたのに、そんな運命、どう受け入れればいいのかまったくわからない。

 

 だから、私は考えたのだ。


 ちょうどこの日は二月十四日。

 もといた世界ではバレンタインの日。

 

 この世界には「バレンタイン」というイベントはないようで、女の子がチョコを贈るいうことが何を意味しているかは誰もわからない。

 

 ──せめて最後くらいは礼儀正しくして去ろう。バレンタインだし、餞別としてチョコを贈るのは悪くないはず。


 そう、これはただの餞別。

 私はこの日、婚約者に婚約破棄を切り出すつもりでいた。

 最初で最後の贈り物。だからこそ、心を込めて贈りたかった。


 ──すんなり「はい、よろこんで」とでも言ってくれれば楽なんだけどなあ。


 そんなことを考えながら、私は婚約者のいる執務室へと向かった。


 ゆっくりと扉をノックし、恐る恐るその足を踏み入れる。

 彼はいつものように無表情で書類に目を通していた。


「エヴァン様」


 名を呼ぶと、彼の亜麻色の瞳が私を見据え、顔を上げた金髪がさらりと揺れた。

 けれど、そのまま冷徹な表情を崩すことはない。


「……何か用か?」


 無愛想な反応、いつも通りだ。

 

 私は少し躊躇(ためら)ってから、テーブルの上に小さな箱を置いた。

 チョコレートの甘い匂いがふわりと広がる。


「これは、私からの餞別です」


 彼がそれを受け取るよりも前に、私は一気に言葉を続ける。


「私は今日、婚約破棄を伝えに参りました。エヴァン様だって愛のない結婚なんて嫌でしょう? ですので、この婚約は解消ということにしていただければ」


 その言葉が静かな執務室に響いた。

 そして、彼にじっと目を見つめられている。

 

「……」

「……エヴァン様?」


 何も言わず、無言でこちらを睨んでいるような彼の視線からは、何も感情が読み取れなかった。

 

 長い沈黙が続き、気まずさに心音がどくんと乱れていくのがわかる。


「……お前も、そうやって離れていくんだな」

「……え?」

 

 やっと口を開いた彼の声には、わずかな哀愁が混じっているような気がした。


「まあ、いい。婚約解消だな。好きにしろ」

「あ、ありがとうございます……」


 エヴァンは冷ややかに言い放ち、再び机に向かう。

 その目はすでに私を見ていなかった。

 想像していた以上にあっけない幕引きだった、けど。


 ──この人が少し寂しそうに見えるのは、どうしてだろう。

 

 ふと胸が痛くなる。


 ──ええい、もう無礼講でいいでしょ!


 思い切って心を決めた。

 どうにかして、最後に彼の笑顔を見てみたくなった。

 

「よかったら一つ食べてみてください! 味は保証しますよ、私お菓子作りが趣味だったんで!」


 気まずい雰囲気を変えようと、少し声を張り上げる。

 

 お菓子作りは転生前からの趣味だった。

 いろんな人に食べてもらって、「美味しい」と言ってもらえるのが何よりも嬉しかった。

 

「いらん」

「そんな、一つだけでいいですから! 糖分は頭の回転にも必要なんですよ!」


 再度必死にお願いする。

 なのに彼は無視するかのように、目を合わせることもなく、また答えた。


「いらん」


 先ほどとまったく変わらない声のトーンだ。


 ──人がせっかく作った生チョコなのに……!

 

 さすがに少し腹が立ってきた。

 

「好きにしろって言いましたよね? じゃあ好きにします! 食べてください!」


 最後の言葉に力を込め、チョコレートの箱をエヴァンの前に置いた。

 彼がどんな反応を見せようとも、もう引き下がらない。


 しばらく睨み合いが続いたが、観念したかのようにエヴァンが大きくため息をついた。

 

「……一つだけだ」

 

 冷たく無表情のまま一粒を取り出し、口に運ぶ。

 どんな反応が返ってくるのか固唾(かたず)を呑んで見守っていたが、次の瞬間、エヴァンの表情が一変する。


「……!!」


 彼の目がわずかに見開かれた。


「……もしかして、お口に合わなかったですか?」


 一瞬不安を覚えた。


 ──え、失敗した? でも、味見した時は大丈夫だったけど……。

 

 どきどきしながらエヴァンの答えを待つ。

 次に彼の口から出た言葉は、まるで予想外のものだった。


「アンリ。もう逃がさない」

「えっ?」


 その言葉に驚愕しつつ、何かが変わったことに気づく。

 なんと、彼の顔がほんのりと赤く染まっていたのだ。


「婚約破棄だなんて言わせない。お前は、俺のものだ」


 エヴァンの言葉が鋭く響く。

 見たことのない真剣な眼差し。

 その変わりように、まともに声を出せずにただ目を見開くことしかできなかった。


「……ええと、それはいったいどういった心境の変化でございますでしょうか?」


 思わずたどたどしい敬語が出てしまう。

 すると彼は静かに立ち上がり、こちらに歩み寄ってきた。

 驚いて後ろに下がろうとしたが、すぐに距離を縮められてしまう。


「変化もなにもない。俺は、お前が欲しい」

 

 そう言うと私の栗色の髪を一房すくい、優しくその髪に唇を落とした。


「〜〜っ!!」


 彼の言動に心臓が大きく鼓動を打ち、体が固まる。


「アンリ。どこにも行くな」


 その声はいつもと違っていた。

 冷酷さも無情さも感じられない。

 むしろ、どこか切なさと愛おしさを滲ませた色が瞳の奥に浮かんでいるのがわかる。


 ──ど、ど、どういうこと!?


 その問いが心の中でぐるぐると渦を巻いている。

 今までの冷徹で無愛想な彼が、まるで別人のように感じられた。

 

「……エヴァン様! 私まだ片付けが済んでなくて! キッキンに戻りますね!」


 思わず大きな声で叫ぶように伝え、彼の制止を振り切って執務室を後にした。


 ◆◆◆


 ──いやいやいや! おかしいって、絶対!!


 心の中で何度もその言葉を繰り返しながら、気持ちを落ち着けようと必死だった。

 でも身体中の熱は収まることなく、顔も火照ったまま。

 キッチンを片付け続ける手元もどこか慌ただしい。


 彼の言葉がぐるぐると回り続けて、どうしても頭から離れない。


「アンリ様、何か考えていらっしゃいますか?」


 その声にふっと我に返る。

 振り向くと、執事のリンドールが穏やかな表情で立っていた。


「落ち着きがありませんね」

 

 リンドールは少し心配そうに言ったが、その表情はどこか微笑ましい。


「あ、はい……。ちょっと……」

 

 照れくさそうに頬をかき、また作業を続ける。

 けれど、どうしても心の中は整理がつかない。


「そうだ! リンドールさん! この生チョコ、食べてみてくれません!?」

 

 思わず叫ぶようにして、リンドールに生チョコを差し出した。

 自分用にと取っておいたチョコレートだが、彼の反応も見てみたかった。

 

 リンドールにもエヴァンと同じような作用が起こるのか。

 そもそも、このチョコレートを美味しいと思うのは私だけで、この世界の人には合わないのではないか。

 

 とにかくなんでもいいから答えが知りたくてたまらなかった。


「よろしいのですか? ありがとうございます。では、いただきます」


 リンドールは穏やかな微笑みを浮かべ、ゆっくりと手袋を外す。

 そして慎重に生チョコを一粒取り、優雅に頬張った。


「……どうですか?」


 少し緊張しながらリンドールの反応を待つ。

 彼はにこりと微笑み、軽く(うなず)いた。

 

「とても美味しいです。隠し味はルナクレイア山に咲いている花の蜜ですかね。ほのかに香る甘い匂い、チョコレートだけでは出せない深みがありますね」

「そうなんです! あの山まで取りに行くの行くの大変だったんですよ!」


 嬉しさを抑えきれず、思わず声を弾ませる。


「でも、さすがリンドールさんですね! ちゃんとわかってくれるなんて!」


 思わず顔をほころばせる。

 しかしその喜びも束の間、すぐにハッと我に返った。


 ──って、違う違う。リンドールさんが変化するかどうかを知りたかったんじゃん。


 冷静さを取り戻し、リンドールをじっと見つめる。

 その視線に気づいた彼は、少し首を傾げて不思議そうにこちらを見返してきた。


 ──やっぱり、リンドールさんはいつも通りだ。

 

 どこか安心したような、少し物足りないような気持ちが広がった。


「アンリ!」


 突如としてエヴァンの声がキッチンに響き渡り、その瞬間、背後からぎゅっと強く抱きしめられた。


「エヴァン様!?」

 

 驚きで一瞬息を呑む。

 

「俺だって、隠し味には気がついていた」

 

 低く、そしてどこか優しげな声でエヴァンが続ける。

 

「女性一人で山に入るなんて危険だ。次からは俺も同行するから、遠慮なく言え」


 その言葉に、不覚にも胸が高鳴った。

 きっと見たことのない彼の言動に驚いただけだろう。

 

「……いえいえいえ! 大した山じゃないですし! 一人で登れますから大丈夫です!」


 必死で力を込めて身体からエヴァンを引き離した。

 その様子を見ていたリンドールが静かに口元に手を当てて、くすりと微笑む。


「これはこれは、どうしたものでしょう」


 彼の目はどこか楽しそうだ。


「リンドールさん! 私の生チョコを食べてから、エヴァン様の様子がおかしくなっちゃって!」


 必死に弁解すると、リンドールはさらに微笑みを深めた。


「アルコール成分は感じられませんし、酔っているわけでもなさそうですね」


 呟くように言ったリンドールはさらに言葉を続ける。

 

「アンリさん。このチョコレート菓子のレシピを書き出せますか?」

「え、あ、はい」


 突然の申し出に少し戸惑いながらも、こくりと(うなず)いた。

 リンドールはその反応に満足したように微笑み、静かに続ける。

 

「では、出来たら私に見せてください。少し興味があります」

「はい、わかりました」


 いぶかしげに答えるも、リンドールなら何かわかるのかもしれないという期待がわずかに胸をよぎった。

 

 けれどそれよりも気になるのは、やはり作った生チョコが原因なのかどうかということだった。


 ──もしそうなら、エヴァン様の様子も一時的なものかもしれない。


 チョコレートを消化しきって、しばらくすればきっと元の『冷酷公爵』に戻るはず。


 ──だったら、それまで距離を取っておけば大丈夫かも!


 そう閃いた瞬間、思わず小さく頷いた。


 ──うんうん、それが一番いい。


 問題が解決するまで、できるだけエヴァンとは関わらないようにしよう。

 そう思った。


 ◆◆◆


 その夜、私はそっと部屋を抜け出した。

 向かう先は街の宿。

 数日間身を潜めていれば、きっと時間が解決してくれるはず。

 物音を立てないよう、慎重に廊下を歩いていく。


「こんな夜更けに、どこへ行くつもりだ?」


 背後から響く低い声に全身が凍りついた。

 恐る恐る振り返ると、月明かりに照らされながら静かに佇むエヴァンの姿があった。

 

 普段ならば冷たく無機質な表情をしているはずの彼が、今はどこか楽しげに微笑んでいる。


「……っ!」


 反射的に後ずさると同時に、エヴァンが一歩踏み出す。


「逃げるな」


 すぐに壁際まで追い詰められ、腕をつかまれた。


「エヴァン様……!?」


 至近距離で見つめられて心臓が跳ね上がった。

 彼の金色の髪は(またた)く星のように煌めいている。

 なのに、その瞳にはどこか不安の色が滲んでいるように見えた。


「……俺が、怖いか?」


 低く落ち着いた声が夜のしんとした空気を震わせる。

 確かにエヴァンは冷酷で、感情をあまり表に出さない人だ。

 だが今の彼は、まるで別人のように自分を(さら)け出しているように思えた。

 

「いえ、怖くはないですけど……。いつもの冷酷さがなくて、戸惑っています」


 自分でもわかるくらい、少し声が震えていた。

 正直な気持ちを伝えると、エヴァンは小さく息を吐き、ゆっくりと目を伏せる。

 

「それもそうか」


 短く呟いた後、彼は手を伸ばして私の頬に触れた。

 その指先は驚くほど優しく、そして温かい。


 鼓動が早まるのを感じながらも、私はそこから動けなかった。

 

「アンリ、ずっと俺のそばにいてくれ」

 

 エヴァンはそっと私の額に口付けをした。


 ◆◆◆


 次の日からエヴァンの行動はエスカレートしていった。


 朝は必ず部屋まで迎えに来てくれるようになった。


「一日の始まりに婚約者の顔を見に来るのは当然だろう?」


 当然なのか? と思っているその後ろで、リンドールはどこか微笑ましげにこちらを見ていた。


 ◆

 

 お茶の時間には、洋菓子を持ってくるようになった。

 

「エヴァン様、どうしていつもお菓子を?」

「お前が好きそうだと思ってな」

 

 はい、確かに好きですけれど。


「美味しそうに食べているアンリも可愛いよ」


 いきなりやめてください。

 せっかくの洋菓子が喉に詰まります。

 

 ◆

 

 一緒に街に出掛けた時、洋菓子店の男性店員と少し会話をした後に「楽しそうだったな」と不機嫌そうに言われた。

 

「別に普通ですよ? どうやって作ってるんですかって聞いただけで」

「いや、楽しそうだった」

「お菓子作りが趣味な身としては、知りたくなるじゃないですか」

「お前の作る菓子は、どれも美味い」


 え、なんかさりげなく褒められた!?

 

 ◆

 

 書類仕事をしているとすっと後ろに立たれ、肩に手を添えられた。

 

「アンリ、疲れていないか?」

「いえ、私よりエヴァン様の方が……って、近いです!!」

 

 前まではこんな距離感じゃなかったはずでしょ!


 

 ◆◆◆


 

 そんな日々が続き、私はついにリンドールに相談することにした。

 

「やっぱりエヴァン様、生チョコを食べてから様子がおかしいんです」

「何がおかしいのでしょう?」

「だって、あの『冷酷公爵』ですよ? 『興味ない』とか『つまらん』とか『それで?』とか、氷のような一言しか言わなかった人が急に溺愛なんて、普通じゃないです! すぐに元に戻ると思ったのに、全然そんな気配もないし……」

 

 するとリンドールは静かに目を伏せ、少し考えるような素振りを見せた。


「……エヴァン様は、ご自身の過去について何か話されましたか?」

「え?」


 問い返すと、リンドールは静かに語り始める。


「エヴァン様は、若い頃、ご家族からの裏切りにあっているんです」


 思わず息を呑んだ。


「信じていた母は浮気し、頼っていた父は酒に溺れて、二人とも財産を奪って逃げていきました。気づけば、彼の周りには誰もいなかった。それが、あの方が冷酷になった理由です」


 淡々と語られる過去。

 しかし、その内容はあまりに孤独だった。


「そんなエヴァン様が、今のように誰かに執着することは……ある意味、とても自然なことなのかもしれませんね」


 リンドールの言葉に複雑な感情が広がっていく。


 ──本当に、あれはチョコレートのせいなの? それとも……。


 言いようのない想いが、胸の奥で静かに波紋を広げていった。


 ◆◆◆


 居ても立っても居られなくなった私は、その日の夜にエヴァンを庭に呼び出した。

 

 静かな夜。庭の真ん中に座り、深く息を吸い込む。

 肌を撫でる夜風はひんやりとしていて、少しだけ冷たい。星は雲に隠れ月明かりも薄く、あまり明るさを感じない。

 そんな中、エヴァンを待つ自分の心臓が不安定に鼓動しているのが分かった。

 

「珍しいな、アンリからの呼び出しなんて」


 時間通りに現れた彼は、ゆっくりと私の隣に座った。


「今日はあまり星が見えないな」


 彼はいつもの何気ない会話のように話し出す。

 それなのに私の心臓は激しく鼓動し、手のひらが少し震えた。


「……アンリ?」


 何も言わない私を、彼は不思議そうな顔で見つめる。


 ──このままじゃダメ……!

 

 勇気を振り絞って、胸の中で渦巻く思いを言葉に変えた。

 

「……エヴァン様。私、エヴァン様の過去のこと、聞きました」

「……リンドールか?」


 彼は少し驚いたような顔をして、眉をひそめた。

 

「はい」

「まったく。余計なことを」


 不機嫌そうに言いながらエヴァンは空を見上げる。


「……私、知らなくて」

「同情か? 生憎(あいにく)だが、俺はそういう類の慰めは嫌いだ」


 エヴァンがため息をつき冷たい口調で言ったとき、胸の中で何かがぎゅっと締め付けられた。

 

「違う……こともないかもしれません」

「なら、この話はもう終わりだ。俺も、アンリを嫌いになりたくはない」


 冷ややかに言ったエヴァンの言葉には、どこか切なさと、傷つきたくない気持ちが(にじ)んでいるように聞こえた。

 でもだからこそ、私は伝えなければならないと思った。

 

「私はエヴァン様のことを勘違いしていたんです! 誰よりも強いけれど、きっと誰よりも寂しい。……冷酷になったのも、人を信じるのが怖くなったからですよね?」


 その言葉が空気に紛れていった瞬間、手首を掴まれて強引に押し倒された。

 

「……だったら? その身体で、慰めてでもくれるのか?」


 雲の隙間から差し込んでくる月明かりに晒された彼の顔は、とても綺麗で、とても苦しそうだった。

 私はその目を見つめ返すことができず、視線を逸らしそうになる。

 

 けれど、すぐに深呼吸をして心を落ち着けた。

 

「……そんな安っぽい慰めはしません。だから、私はあなたのそばにいます。あなたが心から笑えるように、自然体でいられるように。あなたに、信じてもらえるように」


 私の言葉がエヴァンの耳にどう響くのか、それを知るのは少し怖かった。

 でも、言わずにはいられなかった。どうしても伝えたかった。

 私はここにいるから、何も怖がらないで、と。

 

「アンリ……」


 名を呼んだ声はいつもより低く、冷たく聞こえた。

 

「もう寝ろ。夜風は身体に悪い」


 その言葉には優しさなど一切感じられない。

 ただ、私を避けるように突き放すものだった。


 ◆◆◆


 彼は以前のような『冷酷公爵』に戻っていた。


 朝の出迎えもなくなった。

 お茶の時間のお菓子もない、近づいてもこない、何気ない会話すらない。


 ──元通りになっただけ……。今なら婚約破棄だって、きっと……。


 きっと、前と同じように「好きにしろ」と言われるのだろう。

 でも今なら、あのとき彼がぽつりと呟いた言葉の意味が痛いほどわかる。


 ──『そうやって離れていくんだな』、か……。


 たった一言。

 それがどれほど重く、寂しい響きを持っていたのか。

 今さらのように実感させられた。


 ◆◆◆

 

「アンリ様、お待たせしました」


 気晴らしにとお菓子を作っているところにリンドールがやってきた。


「チョコレート菓子のレシピを調べさせてもらいまして、あることがわかりました」


 そう切り出したリンドールに、私は思わず身を乗り出した。


「本当ですか!? 何がわかったんです!?」


 自分でも驚くほど勢いよく聞き返してしまう。

 リンドールはそんな私を見ても慌てることなく、微笑みを浮かべながら続けた。

 

「アンリ様は隠し味に花の蜜を使いましたよね?」

「はい……。それが?」

「花にも様々な種類がございますが、アンリ様が摘んできたものの中に、とある魔力を秘めている花があったんです」

「魔力?」


 そんなものが混ざっていたなんて思いもしなかった。

 

「そうです。ヴィンセントフラワー、別名、恋の花」


 リンドールが淡々と告げているのとは反対に、私の心臓は大きく脈打っていた。


「恋の……花?」

「ええ。この花が持つ魔力。それは『本当の気持ちを暴く』こと。そして……、『本当の愛を持つ者にしか、その効果を発揮しない』というものです」

 

 リンドールの穏やかな声がやけに遠く感じた。

 頭では理解できても、心が追いつかない。

 

「本当の……愛……」


 戸惑っている私を見つめ、彼は少し柔らかく微笑んだ。

 

「私はアンリ様をお慕いしておりますが、それは愛ではございません。一人の家族として、です。なので、私が食べても効果は出なかった」


 リンドールの瞳は優しく、それでいて確信に満ちた輝きをしている。

 そして静かに付け加えた。

 

「その先は、言わなくてもわかりますね」


 どくん、と心臓が大きく跳ねる。

 エヴァンの言葉や仕草の一つひとつが、鮮明に思い出された。

 

 何気ない瞬間にふと見せる優しさ。

 過剰なくらいの愛情表現。

 そして真っ直ぐに向けられた、揺るぎない眼差し。


 すべてが、一つに繋がっていく。


 ──きっかけは、チョコレートかもしれないけど……。

 

 気まぐれや(たわむ)れではなく、彼の想いの表れだったとわかった瞬間、身体中が熱くなった。


「あの人は不器用なんですよ。人の愛し方を知らないんです。だから、アンリさんが教えてあげてください」


 リンドールの穏やかな口調から、エヴァンを本当に大切に思っていることが伝わってきた。

 彼の想いが、静かに胸へと沁み込んでいく。

 

 私はぎゅっと拳を握りしめ、顔を上げて強く頷いた。

 

「……私、もう一回あの生チョコを作ります!」

「ええ。応援しています」


 背中を押してくれたようなリンドールの言葉に、迷いがすっと消えていった。


 すぐさま棚や引き出しを漁り、準備に取り掛かる。

 去り際にリンドールがヴィンセントフラワーの特徴を教えてくれた。

 真っ赤に艶めくその花は、どこかチューリップに似ていて、そして可憐で美しくも儚げだった。


 チョコレートを湯煎でゆっくりと溶かし、生クリームを泡立てて角を立てる。

 バニラの香りを忍ばせ、砂糖を加えたら、丁寧に()した花の蜜を少しだけ垂らす。


「……できた!」


 私はすぐに彼のいる執務室へと向かった。


 ◆◆◆


「エヴァン様!」


 勢いよくノックをし、返事を待つことなく部屋へと足を踏み入れた。


「……騒がしい」


 書類に目を通していたエヴァンは、こちらを見ることもなく淡々と呟く。

 無機質な表情からは、関心の欠片すら感じられない。

 以前は気にならなかったはずの冷酷さが、今は胸を刺すように痛む。

 

 ──でも、負けないんだから……!


 チョコレートの箱を握る手に、ぎゅっと力を込める。

 

「……これは、私からの気持ちです!」


 意を決して、手にした箱を差し出す。

 だがエヴァンは目線を書類に落としたまま、興味なさげに冷ややかに言い放つ。

 

「また『婚約破棄してくれ』とでも言いにきたか?」


 やっと目を合わせてくれた彼の顔と声には、何の感情も滲んでいない。

 淡々を通り越して、まるで虚無のようだった。

 

「もういい。早くここから出ていけ」


 突き放された言葉がさらに胸を(えぐ)る。

 けれど。

 

 ──この人は、またこうやって一人になろうとしている……。


 そんなの、いまさら見過ごせるわけがない。

 

「……違います! これは餞別のチョコレートではありません! この生チョコは今! 私が食べるんです!」


 パクっと放り投げるように生チョコを口に入れる。

 その瞬間、花の蜜が持つ魔力がじわりと体の中に広がり、気持ちが解き放たれていくような感覚がした。

 酩酊(めいてい)とはまた違う、ふわふわとた開放感。

 心の中の重荷が少しずつ軽くなっていくような不思議な感覚だ。


 そしてすぐに、するりと滑らかに口が開いた。

 

「……エヴァン様は、もう一人じゃありません」


 口に出した瞬間、心の奥から込み上げてくる感情が抑えきれず、少しだけ涙が出そうになった。

 

「何を急に」


 そう返してきた彼の目には相変わらずの冷徹さが浮かんでいたが、勇気を振り絞って言葉を続ける。

 

「過去を忘れろとは言いません。けれど、恐れないでください。エヴァン様にはリンドールさんが、そして私がそばにいます。信じてください」

「信じる? 馬鹿馬鹿しい、口ではなんとでも言える」


 エヴァンは眉をひそめて怪訝(けげん)そうに、そして嘲笑うように吐き捨てた。

 けれどその言葉の裏に潜んでいる彼の痛みを、私はもう知っている。


 ──卑怯かもしれないけど……彼が本当に私を求めてくれているのなら……!


 彼の前に立ち、意を決して告げる。

 

「私は、あなたが好きです」


 息を呑むように静まり返った空気の中、私は続けた。


「だから教えてください。本当の、あなたの気持ち」


 生チョコを一粒、軽く口の中に入れる。

 そのまま彼の唇に触れ、甘いチョコレートをそっと彼の口元へと移した。


「……!」


 あの日のように、エヴァンの目が見開いていく。


「エヴァン様」


 そう名を呼ぶよりも早く、彼の腕に身体を抱き寄せられて、ぎゅっと強く抱きしめられた。


「……俺は、お前に裏切られた時に傷つくのが怖かった。だから距離を取っていた」


 耳元で囁かれている声は、わずかに震えている。

 それは今までの冷酷な姿からは想像もできないほど、(もろ)さと弱さを感じさせるものだった。


「アンリが言った通りだ。傷つきたくないから冷酷を装って、他人を近づけさせないようにした。だが、アンリは……近づいてくれた」


 彼の言葉が胸に重く響く。

 そしてこれまでにないくらい、彼の心が近くに感じられた。


「餞別だとチョコレート菓子を持ってきたときは、正直戸惑った。けれど、すぐに諦めた。そして俺は結局一人だと、少し悲しくなった」


 子供のように弱さを(さら)け出した彼の言葉から、深い孤独感と無力感が伝わってくる。

 まるで、ずっと誰かに愛されることを待っているかのような気がした。

 

 それを少しでも消してあげられるように、そっと両手で彼の頬を包み込んだ。


「何度でも言います。私は、あなたを一人になんかさせません。ずっと、そばにいます」


 涙ぐみながら伝えた私の気持ち。

 彼と見つめ合う時間がゆっくりと流れていく。

 上手く言葉にすることができない、けれどきっと、互いに分かり合っている。


「……アンリ」

「はい」

「どこにも行くな」

「はい、行きません」


 満面の笑みで答えた。

 

「アンリ」

「はい」

「愛している」

「はい、私も。愛してます」


 近づく距離に目を伏せる。

 ふわりと唇から甘い味がした。


 ◆◆◆


 数時間後。


「へえ。このチョコレート菓子に、そんなものが入っていたのか」

「リンドールさんが調べてくれたんです。私だってびっくりしましたよ、そんな花だって知ってたら……」


 言葉が詰まった。

 知ってたら、入れていたのだろうか?

 

 ──でも……。

 

「でも、入れてよかったって思っただろ?」

「……思ってません!」


 思わず顔を赤くしながら否定した。

 おそらく彼には見透かされているのだろう。

 

「俺はよかったと思ってる。これでもう、アンリは俺のものだとはっきりと言える」


 彼が甘い言葉を言うたびに、気持ちが激しく揺れ動く。


「前回といい、エヴァン様は急に人が変わりすぎなんです! もっとこう、緩やかに変わってくれないと心臓が持ちません!」


 そう言うと彼は一瞬黙ってから、意地悪そうにニコリと微笑んだ。


「それは困るな。俺は、今まで以上にアンリに触れていたい」

「よくもまあ、そんな歯の浮くようなセリフ平然と言えますね!?」

「アンリは天邪鬼だな。そこも可愛いけれど」


 くっくっとひと笑いしたエヴァンは、何かを思いついたように生チョコを一粒取り出す。

 

「でも、俺ももっと素直なアンリが見てみたい」

「何をおっしゃいますか! 私はずっと素直……」


 そう言いかけた言葉を、エヴァンの唇が突然塞いだ。

 

 甘くてほろ苦いチョコレートが、口の中で溶かされていく。

 身体中が熱い。

 さっき自分で食べた時とは比べ物にならないほどの甘美と、心を奪われるような感覚が広がる。

 

 唇を離すと、わずかに息が乱れていた。


「……可愛い」

「〜〜〜〜っ!」


 彼の不敵な笑みに、心臓が破裂しそうだった。

 

 こんな人のそばでやっていけるのだろうか。

 やっぱり婚約破棄をしたほうが身のためだったのではないか。

 そんな思いが脳裏をよぎる。

 

 けれど、気づけば本音が溢れてしまっていた。

 

「エヴァン様のバカ! ずっとずっと、大好き!」



お読みいただきありがとうございました


バレンタインにちなんだ甘い話を書いてみました

名前はチョコレートの名店や洋菓子店から取ってます 


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