最低最悪の契約
トンネルを抜けたら、そこは山奥だった。
車に乗せられ、かれこれ三時間以上。延々と続く夏の山肌を眺めている。
マリアは冷房の効いた車内に仕方なく視線を移した。腐っても都会育ちのマリアには、山の良さが分かるにはまだ早いようだ。
「……あの、どこへ行くんですか」
マリアの隣、運転席で山道を片手運転でハンドルを握る男は、彼女の言葉にうっすらと笑う。
「着いてからのお楽しみ。まぁ、これも仕事だと思って」
整った派手な容姿で微笑む姿はおよそ山道を走る軽自動車が似合わない。まさか彼のような人が国産の軽自動車に乗るとは思わなかったが、対向車がすれ違うのがやっとという狭い山道を走り出してからなるほど、と頷いた。これでは大きな車は邪魔なだけだろう。
けれどその軽自動車のハンドルを握るのは、どこのリゾートへ行くものか。白麻のスーツを着た小奇麗な白い男である。
白い肌に銀の髪、夏に眺めるには涼し気なこの男は、アッシュと名乗った。
すぐに本名かどうか尋ねたけれど「さぁ、どうだろう」と笑ったから本名かどうかは分からない。
職業は知っている。強盗誘拐犯だ。
「目的地に着いたらすぐ仕事だ。よろしく頼むよ、マリア」
そう言って笑うアッシュから逃れるように、マリアは助手席で再び夏の眩しい緑を眺めに戻った。
マリアは、強盗誘拐犯と取引をしたのである。
※
マリアを誘拐したまま飛行場を飛び立ったセスナ機は三十分ほど遊覧するように飛び、すぐにどこかに降り立った。
マリアの人生初の飛行機の旅は瞬く間に終わりを告げ、降りろと促されて降りたのは、普通の飛行場ではなかった。だだっ広い滑走路には一機の飛行機もない。
周りは都会っ子を圧倒する山、山、山。
すぐに迎えの車がやってきたが、飛行場から出ても辺りは山で埋め尽くされていた。
走って逃げようにも右も左も分からない。
わずかに持った荷物の中で、唯一の外部との連絡手段であるスマホを意識するも、思えばマリアにすぐ連絡できるような知人はいない。
通報しようにも、ここがどこか分からなければイタズラ電話と間違えられてしまうかもしれない。
状況は絶望的だったが、マリアは乗せられた車から必死に情報をかき集めようと窓の外に目をこらした。
車内では誰も喋らなかった。
窓の外には時折ぽつんぽつんと民家と畑が見えたものの、他は見事な緑に染まっている。
標識や看板は一向に見えない。
耳が痛くなるほどのセミの声を聞きながら車がやってきたのは、これまた山奥の一軒家。別荘として使われているような瀟洒なコテージで、手入れのされた門扉を開くと広い庭が見えた。
これが誘拐されたのでなければ素直に夏バラの美しい庭に目を奪われていただろうが、男三人に引きずられるようにしてやってきた得体の知れない別荘地はマリアにとって危険以外は何も感じられなかった。どうやって逃げようかとマリアが知恵を絞っているあいだに、迎えの車は運転手と一緒に帰って行ってしまった。
「――さて。改めてお疲れさま」
靴のまま応接間に四人で入ると、マリアを誘拐した銀髪の男はそうやって切り出した。
他の男たちは暑いだろうに未だ覆面をしたままだ。マリアがいるからだろう。
各々好き勝手に広い応接間のソファに陣取ったが、マリアは入口に一番近い壁によりかかる。
銀髪の誘拐犯は広い開口を誇る窓辺まで寄って、マリアを振り返った。
「君もお疲れさま。――ええと、マリア?」
誘拐犯の言葉に思わずマリアは息を詰まらせる。
そんなマリアを嘲笑うように誘拐犯は軽やかな笑い声を上げた。
「あはは。そんなに驚かないでよ、レディ。君は僕の職業を知っているはずだけど」
誘拐犯で、強盗。泥棒だ。
マリアは咄嗟に自分のカバンを漁る。
無い。財布に定期入れ、スマホがない。
どうりでマリアの荷物を取り上げられなかったはずだ。すでに中身を探られていたのだから。
誘拐犯は窓辺で手品でも見せるように見覚えのある定期入れを取り出した。
「橋本マリア。苗字が似合わないね。孤児院の院長の名前?」
「どうして…」
定期や定期入れにある学生証だけでは、マリアが孤児院出身かどうかなんてわからないはずだ。
「ああ、やっぱり孤児院出身か。当たって困らせたならごめんね」
マリアは口を噤む。誘拐犯は手も口もずる賢いらしい。
誘拐犯はマリアの定期にある学生証を眺めて呟くように言う。
「夜学の大学生か。大学なら今は夏休みのはずだけど」
「……他の学生が休暇中に出来る講義を受けるんです」
実習や実技を夏休みや冬休みに受けるのだ。マリアも例外なくその講義を受けるはずだった。
「バイトは順調? ラインにこんなにシフト替えの依頼が着てるようだけど」
今度こそマリアは窓辺の誘拐犯に向かって走った。
「返して!」
「おっと」
マリアの突撃も誘拐犯は余裕綽々でかわして、気付いた時には彼の手には定期入れもスマホもなくなっていた。
「せっかくのラインが、横暴なバイト先の店長とのやりとりだけじゃあ、つまらないだろうに」
「余計なお世話よ!」
つまらないことは確かだが、誘拐犯に言われる筋合いはない。
「マリア。君、バイトをしてみない?」
誘拐犯が白く涼し気な顔で笑う。
「楽に稼げて、リゾート地で遊べる仕事だよ」
「……何、そのいかがわしい臭いしかしない仕事」
マリアが思わず口走ったが、誘拐犯は楽しげに笑っただけだった。
「いかがわしい! いいね、面白い。でも残念ながら、マリアに頼みたいのはただの助手だよ」
「……助手?」
ますますいかがわしい予感しかしない単語にマリアが顔をしかめるが、誘拐犯は残念そうに首を振る。
「安心して。君に泥棒をさせようっていうわけじゃない。ただ、僕のことを”先生”って呼ぶ助手が欲しいだけ」
「先生?」
「先生はイヤ? だったら教授でも所長でもいいや」
いかがわしい上にいい加減なものらしい。
一体何の助手をさせようというのだろうか。
マリアは怪訝を深めながらも、これはチャンスかもしれないと思う。
(逃げられるかもしれない)
車もない、携帯もない、財布もない。ここにはマリアの味方は誰も居ない。
でもこの別荘を抜け出せる機会があるなら、人に助けを求められる可能性が出てくる。
「ああ、そうそう。これが一番重要だった。給料は払うよ」
誘拐犯が取り出したのは、マリアのスマホだった。
ぽん、と彼が開いたのは、マリアがバイト代を振り込まれているはずの銀行のネット口座。
そこには、記憶に新しい金額が並んでいる。
見覚えがあるはずだ。ついさっき、マリアが銀行で確認した貯金の残高なのだから。
誘拐犯はマリアに画面を見せたまま、五万円を打ち込んでマリアの口座に入金してしまった。
送金ではない。入金だ。
「今、君の口座に前金として五万円振り込んだ。仕事が全部終わったら、マリアに支払う報酬はこれだけ払おうかな」
誘拐犯が手の平を広げてマリアに見せた。
「安くはないと思うよ。君の給料三か月分ぐらいかな」
マリアはネットで口座を作った覚えはない。
誘拐犯はさっきまで車中でやけに静かだと思えば、こういうことをしていたようだ。
「大学やバイト先には僕が話をつけてあげる。――さぁ、マリア。考えて」
凶悪な悪人がマリアを見下ろして笑っている。
「ここまできたら、ビジネスをしようじゃないか。何の利益も得られず、誘拐されたと騒いで警察に駆け込んで三文スポーツ紙に頭のおかしい孤児だと書かれるか、夏休みに少しスリリングなバイトをして大金を手に入れるか」
夏の日差しに男の金の瞳がきらりと嘲笑っていた。
その、水底に太陽を閉じ込めたような目をマリアはじっと見つめた。
(わざとだ)
どういうわけだか、この誘拐犯はマリアを怒らせたいようだった。
だからこんな風にわざとらしく、分かり易く嫌な言葉を使っている。
――いったいどういう理屈か。マリアがそんな風に思うと頭にのぼった血が下がっていくのを感じた。
冷静に考えても、マリアが一人で逃げ出せるわけもない。
夏とはいえすでに日は地平に向かって傾き出している。山を下りたところで無事でいられる保障はない。
「……もし、私がここで逃げ出したら、どうするの?」
誘拐犯はマリアの質問に笑って答えた。
「よく桜の樹の下に埋まっているらしいけれど……マリア、君はバラは好きかな?」
この家の庭にはバラが咲き誇っていた。よく手入れがされているのだろう。
誘拐犯の言葉はマリアの頬を手も使わずにひやりと撫でていく。
「マリアにバラ。いいモチーフだね。教会のステンドグラスみたいだよ」
よく考えて、と銀髪の極悪人が言う。
「君は、バラは好きかい?」
「……嫌いよ」
声が震えていたかもしれない。
――彼は、バラの話をしているのではない。
世間話のように、バラの下に埋まる死体になるかと聞いているのだ。
冷や汗の吹き出すマリアを他所に、誘拐犯は朗らかに笑って彼女の手を無理矢理取った。
「そうか、それは良かった。僕もバラは大嫌いだ。気が合うね」
少女漫画ならバラを背負って出て来てもおかしくないほどのキラキラした誘拐犯は、マリアの指先に落とすように微笑んだ。
「可愛い助手が出来て嬉しいよ。僕はアッシュ。仕事の時は先生でも教授でも所長でも好きに呼んで」
「これからよろしく」とアッシュ(灰)と名乗った彼は、薄曇りさえ感じられない金色の瞳を細めた。
「……アッシュって、本名ですか?」
「さぁ、どうだろう」
マリアの不審でさえ、アッシュは楽しいようだ。
――こうして、屈辱と欺瞞に満ちた契約は成ったのである。