拾:婚約破棄
寮に戻って夕食を済ませた直後、寮母であるマダム・ローシャが慌てた様子で駆けてきた。
「ローシャさん、どうしたんですか?」
「スカーレット様! 大変です! セレラトス侯爵様がいらして……!」
「えっ、お父様がっ?」
メジケスコーレ魔法学園は全寮制で、寮は当然男女別であり、異性立ち入り厳禁となっている。
そのため実家からの迎えなどがある場合は、寮の手前にある集会棟を使用する規則がある。
慌てて集会棟の面会室へ行くと、そこには間違いなく私の父であるセレラトス侯爵と、コルトがいた。
彼は鎮痛な面持ちで視線を落としている。
「……お父様、一体何事ですか?」
警戒しつつ尋ねると、父は私を見て優しく微笑んだ。
「スカーレット、久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
「そんな挨拶をするためにわざわざ学園にいらした訳ではないでしょう?」
「勿論だ。近頃この学園で起きた魔物脱走事件、そしてその犯人と動機……その他にも、報告が上がってきていてね。それを理由に、お前とコルト殿下の婚約を白紙にすることにした」
「……え?」
心底驚いた。
私とコルトの婚約は、私たちが幼い頃に、両親によって決められていたことだったから。
だから、私とコルトの結婚は父が強く望んでいることであり、よほどのことがなければ婚約破棄などしないと思っていた。
「……王太子妃に、国母になることこそがお前の幸せだと信じて疑わなかったが、よもやコルト殿下が、お前に他の女子生徒を虐めるよう進言するなんて……」
「そのことを、どうして……」
シャルロットが私から虐められたがっていたこと、そこまで言うなら虐めてやったらよいとコルトが言ったこと、それを何故父が知っているのか。
「侯爵ともなれば色々なツテがある。それだけのことだ」
その一言で片付けると、父はコルトを一瞥した。
「……ということで、良いですね。殿下。国王陛下には私から報告しておきますので」
「ま、待ってくれ! 僕はスカーレット以外と結婚するつもりなんて……!」
「ならば何故、妙な女子生徒に付き纏われて困っている娘を、殿下は放っておかれたのですか? いざという時に守ろうともしない男の元へ娘を嫁がせたいと思う父親など、この世には存在しませんよ」
父が冷たく言い放ち、立ち上がった。
私の父、セレラトス侯爵は現宰相で、現時点では国王に次ぐ権力者だ。王太子といえど、婚約破棄に足る理由がある上で父がノーと言えば、それを覆すことはできないだろう。
その手があったか、と内心感嘆する私をよそに、父は私も共に部屋を出るように促した。
「お父様、本当に良いのですか? 私が王太子妃となることは、お父様の悲願でもあるのかと……」
玄関までの廊下を歩きながら尋ねると、父は静かに首を横に張った。
「いいや。お前の幸せ以外の悲願などあるものか。平和なこの国の王太子妃であれば幸せかと思ったが、私の考えが甘かった……愚かな父を許してくれ」
本当にすまなそうに眉を下げる父。
「お父様を責めたりするつもりはありません。しかし、王太子との婚約破棄となると、次の嫁ぎ先はそうそう決まらないのではないかと……」
私自身は一生独身でも構わないが、セレラトス家のことを考えたら跡取りは必須だ。
私が爵位を継ぎ、養子を迎えるにしても、伴侶はいた方がいい。
「ああ、そのことなら心配いらない。お前を妻にと望む者は腐るほどいるからな」
父は意味深長にそう笑うが、具体的に誰とは言わなかった。
集会棟の出口に停まっていた馬車に乗り込んだ父を見送って、私も寮へ戻ろうと身を翻したその時。
「コルト殿下との婚約、白紙になったんですね」
少し含みのある言い方でそう言われ、私は驚いて振り返った。
そこにはグレイヴが立っていた。
「盗み聞き?」
「すみません、そんなつもりはなかったんですが、宰相閣下とスカーレット様が話されている声が聞こえてしまいまして」
彼は少し戯けたように肩を竦め、それからすっと私の前に片膝をついた。
「グレイヴ様?」
「どうか俺のことはグレイヴとお呼びください」
「えっと……グレイヴ、これはどういうつもり?」
「スカーレット様、此度の婚約解消、もしスカーレット様が望まれたことでないのなら、俺がこんなことを言うのは失礼だと承知してきますが、俺にとっては僥倖そのもの……」
私とコルトの婚約解消が、グレイヴにとってはいいことだったということだろうか。
解せない思いで首を傾げると、彼は真摯な眼差しで私を見上げた。
「スカーレット様、お慕い申し上げております」
「……え?」
前世の最推しキャラであるグレイヴが、悪役令嬢である私を好きだと言ったのか。
「もしも叶うなら、貴方の伴侶となりたい。それが叶わぬまでも、貴方を守る騎士でありたいと願っています」
私を見上げる緋色の眼は、どこまでも真っ直ぐだ。
月明かりの下で煌めいて、まるで宝石のよう。
「……き、急にそんなことを言われても……」
嬉しさよりも驚きと戸惑いが勝り、思わず呟くと、彼は僅かに苦笑した。
「貴方から見たら突然でしょう。しかし、俺にとって貴方は、初めてお会いした時から特別でした」
「初めて会った時……?」
記憶を手繰る。
彼との初対面は、私が前世の記憶を取り戻す前、コルトとの婚約が決まったすぐ後だった。
登城した時に、父親に連れられて城内にいた彼と挨拶を交わしたのだ。
「……貴族は誰もが、俺のこの目を、魔物のようだと忌み嫌い蔑んできました……しかし、貴方だけは、俺の目を見て、笑顔で挨拶してくれたんです」
ああ、そういえばこの世界には一部の地域では、赤目は魔物の証だという迷信が根付いているのだったか。
このグロリア王国の中にもそんなことを言う貴族は少なからずいるようだが、当時から私は割と現実的で、髪や瞳の色で差別するような思考は待ち合わせていなかった。
まぁ、その辺は私の両親の教育方針によるものかもしれないけれど。
「スカーレット様にしてみれば、たったそれだけのことだと思うでしょう。でも、それだけが、俺にとっては何よりも救いでした。貴方を生涯お守りしたいと思い、改めて騎士を志すことに誇りが持てたのです」
推しキャラにそこまで言われて、嬉しくない訳がない。
でも、ダメだ。
私は悪役令嬢のスカーレット・セレラトス。攻略対象のキャラであるグレイヴと結ばれるなんてシナリオは存在しない。
だが、ふと思う。
そもそも、この世界は本当にあのゲームの世界なんだろうか。
だとしたら、あまりにもシナリオから逸脱しすぎではないか。
ヒロインを虐めない悪役令嬢。
虐められたがるヒロインと、メイン攻略キャラの王太子。
第二王子を次期国王にしたい派閥による画策と、ミュラーとフランクの裏切り。
そして、王太子の有責による婚約破棄。
その全てが、ゲームのシナリオには存在しない事柄だ。
「……もちろん、今すぐにスカーレット様からお返事いただけるとは思っておりません。ただ、貴方の次の婚約者が決まるまでは、俺も全力で、貴方を口説きますので、どうぞお覚悟を」
最後に、ゲームのスチルにもあったような不敵な笑みを浮かべ、私の手の甲にさっと唇を落とすと、彼は軽やかな足取りでその場を去ってしまった。
残された私は、ただ呆然と、彼の後ろ姿を見送るしかできなかった。