2.過酷な日課
薄暗い部屋の中、冷えた空気が肌を刺す。
眠りから覚めたヴァイオレットの耳に、怒声が叩きつけられた。
「何をのんびりしてるんだい、ヴァイオレット!さっさと起きて洗濯に取りかからないか!」
「……今起きます」
粗末な毛布を跳ねのけ、震える足で立ち上がった。
記憶の中の「私」――ヴァイオレットに染みついた労働の習慣が、身体を無意識に動かす。
マギーの刺すような視線が、背後から私を追い立てた。
育ての親と呼ぶには程遠い。
むしろ、マギーは私の監視者であり、搾取者でしかない。
「朝っぱらから何をぼけーっとしてるんだか。水汲みも終わってないって?ほら、さっさと井戸に行っといで!」
命じられるまま、重い水瓶を手にして薄暗い廊下を歩く。
靴の底は穴が開いていて、床板の冷たさが足裏に伝わる。
ふと、心の中に美咲としての自分が冷笑する声を聞いた。
(まるで強制労働だな。)
井戸にたどり着き、水瓶を水で満たす。
冷たい水が飛沫を上げて手にかかるたび、骨に染みるような寒さが身を刺した。
現実感のないこの世界で唯一リアルに感じられるのが、この痛みだった。
戻ったヴァイオレットを待っていたのは、山のような洗濯物とマギーの舌打ちだった。
「その汚れ物、一つ残らず綺麗にしなきゃ、今日のご飯はなしだよ。」
「わかりました……」
黙って腰を下ろし、手を洗濯桶に突っ込む。
冷たい水に浸かった指がしびれるような感覚を覚えた。
粗末な石鹸と手のひらで布をこする。
知らない誰かの汚したシーツに腹が立つが、それ以上に私を苛立たせるのは、マギーの鋭い目だった。
(なんとかしてこの生活から抜け出さなきゃ。)
洗濯の手を止めずに考える。
美咲としての記憶――そして、ヴァイオレットの記憶が混ざり合い、ぼんやりとした計画が浮かび上がった。
朝食兼昼食は黒パンと水だけだった。
手は洗濯物を擦るたびにさらに荒れ、裂け目から血が滲む。
そんなヴァイオレットを見て、マギーは鼻で笑った。
「何よ、その顔。可哀そうぶったって、ここじゃ誰もお前なんか助けちゃくれないよ」
「……ええ、わかってます」
視線を伏せる。
けれどその胸には、反抗心が静かに燃えていた。
美咲としての自我が、私を支えている。
(ここを抜け出すにはどうする?スキルがなくても生きていける道を探すしかない。まずは情報だ。聖杯の儀が近いと聞いたけど、何か利用できるものはないのか?)
「ほら、仕事に戻りな!」
マギーの怒鳴り声で思考が中断される。
ヴァイオレットは再び洗濯桶に向かい、手を動かし続けた。
だが、頭の中では必死に次の一手を練っていた。
このままでは終わらない。
この世界での自分の価値を引き上げ、自由を得る方法を考えなければならない。
日が傾き、ようやく仕事が一段落した頃、体は鉛のように重くなっていた。
鏡を見ずとも、疲れ切った顔になっているのがわかる。
だが、鏡すらない。
台所で屑野菜を漁り、静かに自分の寝床に戻った。
わずかな灯りの下、硬い藁布団に腰を下ろし、ため息をつく。
(情報を集めないと。スキルを発現させる聖杯の儀、その詳細を知らなければ、動きようがない。)
ヴァイオレットの記憶は断片的だ。
だが、美咲としての知識を駆使すれば、抜け道を探せるはず。
自分のステータスを確認するべく、そっと意識を集中した。
これもこの世界のシステムらしきもので、ゲームのメニュー画面を開くような感覚で表示される。
目の前に薄ぼんやりとした光の画面が浮かび上がった。
名前:ヴァイオレット・グレンダリング
職業:下級使用人
レベル:1
HP:20 / 20
MP:5 / 5
STR(筋力):5
CON(体力):4
INT(知力):6
DEX(敏捷力):3
LUC(運):1
スキル:なし
「……笑うしかない」
現実の厳しさを突きつけられた気分だった。
スキルは当然ながら「なし」。
レベル1で能力値も最低限だ。
特に「LUC(運)」が1というのがひどい。
この世界での運命の過酷さを象徴しているように思えた。
さらに、思い出す。
まだ教会で「聖杯の儀」を受けていないため、「スキル」の項目が空白なのは当然のことだ。
この世界では、14歳になる年の立秋の日に聖杯の儀によってスキルを授かる。それがこの世界で生きていく上での力となる。
(でも、聖杯の儀で何を得るかが問題よね……。)
ヴァイオレットの記憶によれば、この儀式で授かったスキル「創造」によってグレンダリング公爵家に引き取られることになる。
その結果、シナリオ通りにいけば、彼女は公爵夫人や異母弟ティリアンに虐げられ、最終的には処刑される運命が待っている。
(その未来を避けるためには、聖杯の儀を回避するか、何とかして別の道を見つけるしかない。)
聖杯の儀を受けなければスキルを得ることはできないが、逆に儀式を受けずに生き延びる道があるなら、それが最善策だ。
だが、それは容易ではない。
スキルを持たない者はこの世界での社会的地位が著しく低く、まともな職に就くことも難しい。
使用人以上の生活を望むのなら、何らかのスキルを得なければならない。
(……まずは、今の状況をどうにかしないと。)
目の前の問題は、今の生活を抜け出すことだ。
この劣悪な環境にいる限り、未来を変えるどころか、そもそも聖杯の儀まで生き延びられるかすら怪しい。
固いベッドの上で考え込む私の耳に、マギーの鼾が聞こえてくる。
私はそっと起き上がり、薄暗い部屋の隅で膝を抱えながら、
再びヴァイオレットの記憶を整理した。
彼女は洗濯を主な仕事としていたが、実際には家中の雑務を押し付けられていた。
マギーの庇護もなく、孤児であり、ヒエラルキーが最低だからだろう。
体力も限界に近い中で、毎日最低限の食事しか与えられず、休息もほとんど取れない。
死んでいないのが不思議なくらいだ。
(……抜け出すには、資金が必要ね。)
お金さえあれば、この屋敷を出てどこか別の町で新しい生活を始められる。
だが、ヴァイオレットが貯金を持っているわけもない。
使用人たちの間で共有されるわずかな情報や、手に入る物資の中から何とか手がかりを探すしかない。
(でも、『創造』のスキルがあれば、お金がなくても何とかなるかも……)
目標は決まった。
まずは少しずつ、自分の未来を変えるための準備を始めるしかない。
この劣悪な環境の中で何を得られるか、何を利用できるか、慎重に見極める必要がある。
「絶対にこの生活を抜け出してやる……そして、この世界で自分の人生を取り戻す。」
ベッドの上で小さく誓いを立てた。
その決意が私の胸に小さな光を灯した。
夜が明けた時、私はまた洗濯桶の前に立っているだろう。
それでも、その手は昨日よりもわずかに力強く、明日への道を切り開くための第一歩を踏み出している。
お読みいただきありがとうございます!
面白ければブックマークや、広告下の「☆☆☆☆☆」から評価をいただけると幸いです。
作者のモチベが上がりますので、ぜひよろしくお願いいたします!