臨界帯域
「常に多数派な人が羨ましい」
スマホに視線を落としたまま、誰に聞かせるでもなく、隣の席にいる彼女はそう言った。
休み時間、学校中に声が溢れている中で、たまたま耳に入ってしまった言葉に、僕は思わず頷いてしまった。
「いま、頷いた?」
隣から掛けられた声に肩が跳ねる。恐る恐る隣を向くと、化粧っ気はなく見えるのに、力強い目がこちらを見ていた。
「う、うん」
彼女とは一度も話を交わした事がない。正直、怖かった。彼女は美人で、黒髪で、とにかく目力がある。
目立つのに、いつも一人で、誰も寄せ付けない。次第に、誰も寄り付かなくなったけど。
席替えで隣の席になった時は、ひどく絶望した。いや、それは彼女でなくとも、そうだったのかもしれない。
「そう。……じゃあ、君は少数派って自覚があるんだ?」
「多分、そう。少数派だと、思ってる」
友達がいない。趣味がない。主義もない。主張もない。その辺りを漂っている、埃と変わらない。
自分の事を埃に例えられる様になったのは、つい最近の事だ。何も誇らしくはない。
「私は異性が嫌い。同姓も嫌い。優しい人も優しくない人も嫌い。馬鹿も嫌いだし、賢い人も嫌い。甘いものが好き。辛いものは嫌い」
「味の好みだけは多数派なんじゃないかな」
「それが少数派」
僕は彼女の言っている事を理解できなかった。
だけど、少し考えてみて漸く、味の好みだけは多数派である事が、少数派であるのだと言っている事を理解した。
「でも、嫌いなものが多いっていうのは、ただの我儘なんじゃないかな」
「そうかもしれない。でも、だったら我慢したり、好きになる努力をしろって言うんでしょ? 私が間違っているから。……何の苦労もしないで多数派にいる人達が羨ましい」
「……そうだね」
僕はただ、馴染めなかった人間だ。興味のなかった事に興味を持とうとして、失敗してきた人間だ。
色々な事に、ついていけなかった。
面白いとも楽しいとも思えず、入った輪から何度も抜け出してきた。
自分が間違っていると思った事はない。
けど、何かを面白いと思えたり、楽しいと思えたりする事は、確かに羨ましいと思った事がある。
「正しいものを振りかざして、間違っているものを殴って、それが正しいからって殴り返されない。本当に、羨ましい」
「……思想が強いんだね」
聞いているうちに、やっぱり僕とは違うなと思った。彼女は僕が小さい悩みを抱えるのと同じ帯域で、もっと大きなものと戦っているのだ。
そして、間違っているのは、彼女なのだ。
「君は弱いね。弱っちいよ。私は弱い人も嫌い。強い人も嫌いだけど」
「要するに、極端なものが嫌いなんじゃない?」
「……そうかも」
彼女は納得した様子でスマホを操作すると、画面を落とし暗転させた。
「SNSのアカウント消して、アプリもアンインストールした。これで極端なものが見えなくなった」
「それは、極端だね」
僕は自分のスマホでアプリを開く。フォローしている人数が、一人減っていた。
「僕は、嫌いじゃなかったよ」
「何が?」
「ううん。何でもない」
彼女の方も向かずに返事をして、スマホを仕舞うとチャイムが鳴る。
周りの全てが敵であるかの様に振る舞っていたあのアカウントは、もう消えてしまった。何の面白味も楽しみもない僕が、唯一それらを感じられていたものを、僕は自ら消してしまったのだ。
少数派で、間違っている事だったから。
きっと、極端なものから目を背ける様になった彼女は、これから穏やかになっていくだろう。そうして、いずれ、嫌いなものも減っていくのだと思う。
僕はそれで良いと思った。そう思うのが、多数派だろうから。
そして、隣の彼女と話す事も、二度となかった。