月夜の手紙
時は南北朝時代。
南朝、吉野の空はきりっと凍てつき、月がなお光る。
春を待つ桜が見守る中、四條畷での合戦を前にした楠木正行と、その弟正時が静かな時間に身を浸していた。
特別な出陣前の特別な夜であった。
南朝兵士の他、農民、野武士、山伏、中には以前は北朝側にいた者も正行に惚れ込み集まった。智将であり更にどんな情況になろうとも公家を決して裏切らない忠義心と、川に溺れた敵兵も助ける分け隔て無い振る舞いに、人の心は南だの北だのを飛び越えていた事が伺える。
弟正時もまた正行をよく支え、常に陰となりつつも細部によく目が行き届く男であり、正行の人格者たらんところはこの正時の下支えがあってこそと人々は思慕している。
そこへ、つっと一通の手紙が弟正時へと渡された。
吉田兼好から正時へ内密の手紙であった。
『あなたが逢うべきお方が居ます。いかなる時も風のように来られたし。』
張り詰めていたものがぐわりと揺らぐ。
吉田の手紙には誰とは書かれていなかったが、相手はカヨと察する。確信と言ってもいい。
だが正行の心中を思うと____
出陣式の前、正行へ後村上天皇から女官の弁内侍との婚儀の勧めがあった。正行も密かに焦がれていた御方であったが「四條畷の合戦は、あの方に辛い思いをさせてしまうかも知れません。」とその申し出を固辞してしまった。
後村上天皇と楠木兄弟は幼少の頃より共に育ち、中でも後村上天皇と正行の友情は強固にあった。それ故の享受であったが、固辞もまたそれ故であり、断腸の思いであるのは明らかだった。
その全ての思いを受け取った後村上天皇は出陣式の際、御簾を上げ、更に片手を振り上げ「汝は股肱の臣、決して死ぬな。」と鼓舞したが、声には僅かに涙が滲み、重ねて滅多に見る事のない天皇が片手を上げるという所作には、正行も堪えきれず目頭を熱くした。
これまでも寡兵ながら大軍を討ち破りここまできたが、今度の戦、高師直は幕府軍の殆どを集結させた6万の大軍。対して正行の兵はわずか3千。これは智将正行であっても厳しいものがあり、出陣は討死しに行くようなものだという声も小さくなかった。
正行のその苦悩を誰より理解しているのが正時だ。この折で逢い引きなぞ誰が出来ようか。
だが理性はそう言っているが、目は手紙から離れない。
「正時、少し逍遥でもして来たらどうだ。」
月を眺めたままの正行が不意に言葉を掛けた。
「兄上、しかし。」
「近頃散歩というのが流行りと聞く。いい月夜ではないか。」
「なれど。」
「心置きなく戦う為にはその方が良い。折角の月を逃すな。」
「兄上……」
手紙が大切な糸の様に思え、無意識に固く握る。手の汗が紙を湿らす。急ぎそのまま風の如くそっと吉田邸へ忍び込む。
そこには予想違わず茶屋の娘カヨがひとり不安げに座っていたが、「カヨ。」と名を呼んだ刹那、膝を上げ、その顔はみるみる泣き顔へと変わった。
「正時様!」
愛しさに感極まり思わず抱き寄せる。
涙を拭ってやるがカヨの涙は赤ん坊の様に止めどなく溢れ、予想外の泣きっ面に返って笑いが込み上げてくる。日頃は勝ち気なカヨの初めて見る泣き顔が、今宵は心を開いてくれてる様に思え目を細める。
一方、腕の中のカヨは責める様に胸をどん、どん、と叩き、まだ涙を滲ませる。
流石茶屋の娘。今度の戦をよく分かっている。
戦を避ける為、和睦を何度も申し入れた。
しかし高師直は楠木軍を討たねばならぬと息巻き、後村上天皇を除いた公家方は「天は我等の味方をしておる」と戦えと譲らない。これ迄の勝利は案を捻り算段し挑んだもので、運で勝った訳ではない。それを天の御加護と言われ戦を押し付けられては、最早敵方がどちらか分からない。
いや、このような事を言っても詮無い。我々の進む道は一本、これ以外無くなってしまったのだ。
「必ず、お戻り下さい。必ず。」
「…あぁ、戻って来る。」
カヨから目を逸らす為、更に強く抱き寄せる。
流石に苦しくなったか、カヨはぐいっと腕から抜け、今度は笑顔を向けた。
「そうだ、正時様。おまんじゅうをお持ちしたのです。」
「おぉ!それは有り難い!カヨのまんじゅうが一番美味いんだ。」
「お父ちゃん仕込みですから。」
「戦から戻ったら一番にこのまんじゅうを食いに戻ろう。」
「約束ですよ。」
「約束だ。」
しかし始めは善戦したものの、多勢を率いた高師直はやはり強く、極限まで戦ったが敗北は避けられなかった。そして敵に斬られる位なら兄弟で差し違えようというその選択は、奇しくも父正成の最期と同じであった。
尊氏は正成が湊川で自決した際、首実検のみ行い、後に母の元へ送り届けてくれた過去がある。あれはあれで辛いものがあったが多少なりとも楠木家へ敬意の念は持ち合わせていると見え、よって我等の事も晒し首にはしないだろうと踏んだのだ。
「父上と一緒だな。」
「そうですね。」
「正時、来世は何処に行くのか決めておるか?」
「勿論です。」
「それならば、お前と同じ世界に行きたいと考えているのだが、何処へ行く?」
「私は極楽浄土などには参りません。まんじゅうを戴きに茶屋へ行かねばならぬ故……鼠にでもなりますかな。」
「はっはっは!そうか!それは良いな!
私も天よりは地の世界が性に合っている気がするのだ。また何処かで会おうぞ。」
戦が終わり、やはり尊氏は晒し首にしなかった。楠木家の忠義心の強さは尊氏が一番理解しており、そして楠木を誰より欲していたのも尊氏だ。無論、敬意は軽いものではなかった。
知らせを聞いた弁内侍は、密かに正行より「形代にして欲しい」と渡された短刀にて髪を落とし尼となり、後日その髪と短刀を自決の場所へ埋めたという。
一方茶屋には鼠ではなく白蛇が現れ、まんじゅうを一つ銜え逃げて行った。
こんな寒い季節に蛇なぞ居るはずがない。
カヨは慌て追いかけたが人気のない枯れた草むらで白蛇は消え、事の顛末を察知したカヨはその場で泣き崩れた。うずくまり肩を震わせ嗚咽は続いたが、やがて懐の辺りを押さえ、深く息を吸いながらぐっと顔を上げ、そして茶屋へと戻った。カヨの懐には、字が滲み、深く皺の残るあの手紙があった。
白蛇はそれを樹の上からすべて見届け、樹を降り、カヨの涙で濡れた枯れ草をちろちろ舐め、そしてゆっくり目を閉じた。
吉野の桜はまだ咲かぬ。




