コヘレトの言葉(伝道の書)至極の名言より人生の束の間と永遠の今を考える クリスチャンだった亡きおばに捧ぐ (わたしのキリスト教 遍歴・瞑想ノートより)
コヘレトの言葉(伝道の書)至極の名言より人生の束の間と永遠の今を考える
初めに
まず、私は「コヘレトの言葉」という邦訳タイトルが,大嫌いだ、ということを申し述べておきたい、
え?おいおい?まてよ
お前しょっぱなからなにいいだすんだよ?
まあまあそういわずに私の釈明?をお聞きいただきたい。
そもそもコヘレトでは邦訳になっていないという事実です、というか邦訳放棄ですよね
そんな原文のままで良しとして、のほほんとしてる場合じゃないでしょ、
聖書翻訳者は怠慢決め込んでいないでちゃんと日本語に訳しなさいよ、
そもそも、コヘレトとは「固有名詞」ではないです、
ナンシーさんとか、トムさんとか、、そういう、
固有名詞なら原文そのままでいいでしょうが、、、、
その意味は「集会を開くもの」「人を集めて説教(伝道)?する人」という意味の「一般名詞」ですよ。
一般名詞をそのままでは、翻訳放棄で?
原語のまま、といわれてもこまりますよね?
戦前(というかつい先日までは、、)はこの書は「伝道の書」と訳されていました。
翻訳文も、、、
例えば、、、、以前はこうだった、
「伝道者は言う、空の空、空の空なるかな、すべて空なり」
というものだった、
それが、、、
やがて勝手に?
変えられてしまって。。
「コヘレトは言う、なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」
どうでしょうか?????
この違い、違和感、興ざめ感、え?なにこれ?という、、深い失望感、
コヘレト?っていったい誰?どういう意味?
なぜ訳さない?
そもそも「伝道者」が言ってるのは
「世の中ってむなしいよなあ」
ということではないですよ。
この邦訳は明らかに、間違っていますよ。
いまNHKで、やってる、「コヘレトの言葉、6回シリーズ」でも
神学者の、小友教授がおっしゃってるように
「空」と訳されている部分は、、
原語は
この原文は、「ヘベル」でありこれは様々な意味を含む言葉ですが
ここでの使用では「束の間」「時間がつかの間にすぎる」という意味ですよ。
まちがっても?
「人生ってむなしいよなあ」
なんて意味ではないのですよ。
ですから?先の
「コヘレトは言う、なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」という悪訳は
今現在は
もとの「空の空、空の空なるかな、すべて空なり」にもどされているのですね。
だが「コヘレト」は、「伝道者」に戻されていませんね、
「コヘレト」なんて意味不明なままの原語という翻訳放棄よりは
「伝道者」の方が日本人読者には100倍ましでしょうにね。
一体いつになったら?
正当なる
「伝道の書」という訳名に、また、日本語として意味が分かる「伝道者」に戻されるのだろうか?
日本語で読んですぐわからないような翻訳など宗教文献としてダメに決まってるだろう、
コヘレト???
何ですか?この意味不明な単語は?
このようにいつのまにか、ヘベルが「むなしい」に、悪訳されてしまい、
また題名も
勝手に「コヘレトの言葉」などという意味不明の邦訳に改悪されてしまっていたのだ。
これで「コヘレトなんて大嫌いだ」といった私の思いが少しはお分かりいただけただろうか?
さて聖書翻訳論争にかかわっていたら先に進まないのでこれくらいにして先に進みましょうか。
それについてはこちらを参照くださいませ↓
『聖書の翻訳文体について 神の霊言はどう訳されてきたのか?
私のキリスト教瞑想遍歴ノートより』(
さて今回は「伝道の書」から
至極の明言を選んで紹介したいと思います。
それでは旧約聖書の中では
異端の書ともいわれている伝道者の言葉に耳傾けてみましょうか。
そもそも
この伝道の書は
人生ってむなしいよなあ、というあきらめの書ではありません。
その反対に
積極的に
この「ヘベル」(空)であるつかの間の人生をあなたの取り分として神が差配した取り分を生ききりなさい、
という生き方を進める書なのです。
人生の束の間を嘆くな
そして
今あなたが生かされている「永遠の今」をよく考えなさい
そういう意味の知恵の書
それが伝道の書なのである。
☆それでは、ここからは、伝道の書の原文を引用したいと思います、
何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時 泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時 石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時 保つ時、放つ時 裂く時、縫う時 黙する時、語る時 愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。 人が労苦してみたところで何になろう。 わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。 わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と 人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは 神の賜物だ、と。 わたしは知った すべて神の業は永遠に不変であり 付け加えることも除くことも許されない、と。 神は人間が神を畏れ敬うように定められた。 今あることは既にあったこと これからあることも既にあったこと。 追いやられたものを、神は尋ね求められる。 太陽の下、更にわたしは見た。 裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。 わたしはこうつぶやいた。 正義を行う人も悪人も神は裁かれる。 すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。 人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。 人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、 すべてはひとつのところに行く。 すべては塵から成った。 すべては塵に返る。 人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。 人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。 死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。
神はまた、人の心に、永遠を思う思いを授けられた。 (伝道の書)
朝に種を蒔き
夕べに手を休めるな。
うまくいくのはあれなのか、これなのか
あるいは、そのいずれもなのか
あなたは知らないからである。
(11章6節)
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、 (3:4)
伝道者は言う、
空の空、空の空、いっさいは空である。(1:3)
世は去り、世はきたる。
しかし地は永遠に変わらない。(1:4)
先にあったことは、また後にもある、
先になされた事は、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。(1:9)
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕らえるようである。(1:14)
わたしは知っている。すべての神がなさる事は永遠に変わることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。(3-14)
わたしはまた人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせるのである」と。人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。みな一つの所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。(3:18-20)
また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互いにねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕らえるようである。(4:4)
人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある。
見よ、わたしが見たところの善かつ美なる事は、神から賜った短い一生の間、食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である。これがその分だからである。(5:17-18)
言葉が多ければむなしい事も多い。人になんの益があるか。(6:11)
物事の理は遠く、また、はなはだ深い。だれがこれを見いだすことができよう。わたしは、心を転じて、物を知り、事を探り、知恵と道理を求めようとし、また悪の愚かなこと、愚痴の狂気であることを知ろうとした。(7:24-15)
見よ、わたしが得た事は、ただこれだけである。すなわち、神は人を正しい者に造られたけれども、人は多くの計略を考え出した事である。(7:29)
地の上に空なことが行われている。(8:14)
あなたは身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざをしらない。(11:5)
ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。(12:7)
多くの書を作ればきりがない
多く学べば、、疲れるだけである
生きてる犬は、死んだ獅子よりも尊い、
太陽のもとあなたに与えられたつかの間の人生を楽しむが良い
それがあなたに与えられた取り分だからだ、
と、、まあいろいろとあるのだが
実は「伝道の書」は
わずか15ページしかないのだ、
だからこんな抜粋分ではなくて
ぜひ全文をお読みくださることをお勧めして
今回は
終わりにしたいと思います
最後に
願わくば
どうか
みな様のみもとに
神のご加護がありますように、
心よりお祈り申し上げます。




