一、
畳の匂いがする。木の匂いがする。それらに混じって、かすかに花の香り。いつもと違う空気に、碧斗は目を開ける。こちらを見下ろす何者かと目が合った。
「……!」
壁に背中がつくまで、碧斗は腕の力で後ずさる。
「おはよう。驚かせてしまってごめんね。きれいな寝顔だったから、つい見ちゃって」
うふふ、と見知らぬ女性は言う。
淡い藤色の着物がとても似合っている、大人の女性で、しかも美女だった。艶っぽい雰囲気を醸し出している。年齢は三十代半ばくらいだろうか。紅を引いた唇が、品よく微笑みを作っていた。
「ここはどこ。あなたは誰……」
お決まりの台詞を口にしてしまうくらい、碧斗は混乱していた。先ほどまで雪の中にいて、雪狐とかいう妖怪に弄ばれ……そうだ、深世。深世に、一人で帰ってと言われたのだった。
女性はこらえきれずという様子で、声を上げて笑った。
「やだ、記憶喪失みたいなことを言って。碧斗くんは、面白いわねぇ」
面白いことを言ったつもりはないが、ツボにはまったらしく、相手はしばしの間、くすくすと笑っていた。
(あれ、なんで俺の名前知ってるんだろ)
艶っぽい女性は続ける。
「ここは民宿かまくら、私は女将の清瀬。覚えてね」
辺鄙な村の民宿の女将とは思えないほど、洗練されている物腰と所作だった。
「……民宿かまくら。ひっ」
雪に関する言葉をきくだけで震えてくる。
「まぁ無理もないわね。そういうお客さん、けっこう多いから。温泉マニアとか秘境マニアとかね。わざわざ冬に来るものだから、雪狐につかまって、さんざん化かされてしまうの。かわいそうに」
「雪狐って言わないでください! あぁぁぁ自分で言ってしまったぁぁぁ!」
碧斗は頭を抱えた。
「落ち着いて。少し休んでいて。考えるのはその後で。今、お茶を入れてくるから待っててね」
女将が去った。仕方なく、碧斗は辺りを見回してみる。
古びた天井には、レトロな照明が下がっている。部屋を囲むように設けてある二つの窓には障子が閉められていて、ほんのりと外からの光を集めていた。
部屋はストーブが焚かれているので温かい。
自分は浴衣姿だ。ゆっくりと記憶を探る。
元彼女である一ノ瀬深世に会うために、鬼隠し村に来た。道に迷い、神楽に殺されそうになったが。
「助かった、ということか」
今自分はぴんぴんしている。頬には絆創膏が貼られていた。安堵すると同時に、絶望感が襲ってくる。深世は、本当に結婚する気なのだ……。
「深世……」
泣きそうになっていると、おしげもなく襖が開かれる。碧斗はどきりとして姿勢を正した。
(まったく物音がしなかったけど……この人何者)
雪狐のこともよく知っているみたいだ。
清瀬は温かいお茶を持ってきてくれた。
「ありがとうございます。あの、お聞きしたいのですが、俺はどうやってここに来たんでしょうか」
「私の旦那がね、君を抱えてきたの」
「はぁ、旦那様が……。本当にありがとうございます。命の恩人です」
前言撤回。彼女はいい人だ。
「あの。俺って、雪の中で倒れていたんでしょうか」
「ええ、そうみたいだけど。だって雪狐に襲われたんでしょう?」
「はい……」
それはそれは恐ろしい美少年だった……。
「本当に、息子がご迷惑をおかけしました」
清瀬は頭を下げる。
「へ?」
碧斗はきょとんとした。
「息子って?」
「神楽は、私の息子なの」
言葉を聞いたとたん、碧斗は浴衣のまま部屋を飛び出した。
(こわいこわいこわいこわい……!)
こんなところにいられない。今度は家族ぐるみで何をする気だ。
碧斗が階段を降りると、一階はこぢんまりとした食堂のようになっていた。テーブルと椅子がいくつか置かれている。
そこに、見覚えのある姿があった。神楽が席に座っている!
「ぎゃぁぁぁぁ!」
悪夢だ。碧斗が絶叫しながら引き返そうとすると清瀬が立ちはだかる。
「もう終わりだ! 深世に振られたうえに殺される! あんまりすぎる!」
「ちょっと、落ち着いて。私は人間だから!」
階段を転げ落ちそうになる碧斗に、清瀬は言う。
「人間……」
「そうそう、人間。だから怖がらないで。安心して!」
優しい顔で、ぎゅっと手を握られ、少しずつ心が正常に戻っていく。