五、
「吉野さん、大丈夫?」
神楽がいなくなり、碧斗はすぐに彼女のもとへ近寄った。
「……! あなたは、動けるのですか?」
吉野が驚いて目を見開く。
「うん。酔ってないからね」
一杯を飲んだだけで、酔ったふりをしていた。神楽は少量で酔ったと思っているらしいけれど。だいたいこんな無謀な勝負、真面目に受けるなんて馬鹿な真似はできない。
演劇で鍛えた演技力が少しでも役に立った。
(あいつ、油断していたからな)
碧斗は心の中でほくそ笑んだ後、ハンカチで吉野の切れた口を拭った。吉野は無言でうつむいている。
それにしても、こんないたいけな少女を殴るなんて、美少年の風上にも置けない奴だ。
「吉野さん、俺と一緒に逃げよう」
吉野は顔を上げて驚いた顔をする。
「こんな仕打ちを受けてまで、従う必要ないよ」
「……いいえ。私は行けません。私は奉公狐。主に仕えて死んでいくのが役目なのです」
「なんで? 同じ雪狐じゃないの?」
「雪狐様は、高貴で霊力の高い狐です。私は、力も弱い格下狐。雪狐様には逆らえないのです」
「だけど、さっきは俺のことを助けようとしてくれたよね。ありがとう」
「いえ……」
吉野は首を振ってうつむく。
「旦那様からの言いつけでしたから。神楽様は、いつも不機嫌で苛々されているんです。そのせいなのか、人間たちを無駄に騙したり、弄んだりすることが多くて、旦那様も手を焼いています」
吉野は強く碧斗を見つめる。
「どうか、あなただけで逃げてください。このままでは、殺されてしまいます。もしくは、回復も難しいくらいに、心を傷つけられて打ち捨てられてしまうかもしれません」
「え、こわ」
碧斗は怯むも、果敢に言う。
「俺だけが逃げたら、吉野さんがひどい目に遭うよ。俺はそんなの嫌だ」
「……でも」
吉野は悲しそうに目を伏せた。
「吉野さんは、神楽のところにいたいの?」
「……私は……私はただ、神楽様に、幸せになってほしくて。心から笑ってほしくて。あのままではあまりに、神楽様が不憫で」
吉野の頬にはらりと涙が落ちた。なんて優しい子だろうか。ひどい仕打ちや扱いを受けてもなお、神楽のことを思っているのだ。
「こんなに心配してもらっているのに、あいつはまだまだ子どもだな」
碧斗は言うと、吉野に手を差し伸べた。
「だったら、なおさら。一度離れてみるのも手なんじゃないか。君のありがたみが分かるかもしれないしさ」
「私が……神楽様から離れる……?」
「そ。いい薬になるかもしれない。でも、君次第だけど」
彼女が神楽のことを思っていて、そばにいたいというのなら無理強いはできない。
考えたこともなかったのか、吉野は言葉もなく驚いてるようだった。
やがて、吉野はためらいつつも、碧斗の手を取った。
「よし。じゃあ決まりだな! 神楽おぼっちゃんに分からせてやろう。吉野さんがいないと寂しいってことに気づかせてやろう!」
吉野が少しだけ微笑んだような気がした。
碧斗は拝殿の扉を開ける。吹雪は続いている。それでも、行かなければならない。碧斗はまだ深世に会えていない。彼女に会うまでは、死ねない。
碧斗は吉野と手を繋いで雪の中へ向かっていく。吹き付ける風が体力を奪っていく。
「村の方向はあちらです。村に近づければ、この風雨はやみます」
「ありがとう」
吉野に示された方向へひたすら歩く。雪に足が埋もれて思うようには進まないが、確実に前進はしている。
「吉野さんは、大丈夫?」
吹雪の中、小袖だけでは寒そうだ。
「はい、私は平気です」
吉野は一瞬で狐の姿に変わる。赤毛のとても美しい狐だった。
「先導します。ついてきてください」
そうだった。彼女は狐だったのだ。碧斗は彼女の後を追う。やがて雪と風がやんだ。まだ黒い雲に覆われて薄暗いけれど、だいぶ歩きやすくなった。雪も浅くなる。
「もうすぐです」
遠目に集落が見えてきた。
ほっと安堵する。やっと深世に会える。
しかし、その時だった。雪つぶてが、碧斗の背中に当たる。
振り向くと、神楽がこちらを睨みつけて立っていた。