二、
渡されたメモを開いてみて、思わず二度見してしまった。
「乙和ヶ淵」
何度見ても、短くそう書いてあるのみである。嫌な予感がした。伊冴耶という人は、水の中にでも住んでいるというのだろうか。
「……すっごい嫌」
スマホのナビに従って歩いていると、いつの間にか集落から水辺に出ていた。
雪をかぶった木立に囲まれた池は凍ってはおらず、中心からこんこんと水が湧き出ている。水は底抜けに透き通っていて空よりも濃い青を映していた。水面には霧のような白いもやが漂っている。
どこをどう見ても、池しかない。乙和ヶ淵という古びた立札が出ているので、場所は間違いないのだが。
「あの厨二式神野郎、だましたのか」
だとしたら、なんて幼稚な。禅に文句を言うべく、引き返そうとしたときだった。
辺りに響き始める歌声に、碧斗の動きが止まってしまった。
「嘘だ……」
誰の姿も見えない。あろうことか歌声は……水の中から聞こえてくるのだ。いや、断じて認めない。そんなことがあるわけがない。しかし、この村ではそれがあり得てしまう。頭の中では分かっていても、認めたくなかった。
「え、帰ろうかな……」
嫌だ。水中をのぞくのは、とても嫌な予感がする。
しかし禅から、薬をもらってくるまで帰るなと言われている。
(こういうことか!)
奴は知っていて、伊冴耶のもとへ行けと言ったのだ。
「もしかして、俺のことを殺しにかかってる?」
じゅうぶんあり得る。碧斗は不安を抱えながらも水際に立ち尽くす。
誰もいないのに響く歌声は、確かに怖い。こわいのだが、なぜだろう。恐怖とは違う鳥肌が立っているのに気づく。歌声が、とてもきれいだったからだ。研ぎ澄まされた冷たい空気と合わさって、知らない旋律が滑らかに渡っていく。
目を閉じて耳を澄ます。やっぱり、透き通った水の中から聞こえている気がする。
「本当に……水中から」
うわごとみたいにつぶやいて、身を屈ませる。まだ少し半信半疑で水に手を触れようとした――刹那。
何かが碧斗の首に巻きついた。白くて長い腕だということに気づくまでに時はかからなかった。水の中からこちらを見つめる双眸と目が合う。いるはずのない第三者の両の腕が碧斗の首を抱くようにつかんだまま、水の中へと引きずり込んでいく。抵抗する間もなかった。碧斗は青い青い水の中へと沈んでいった――。
息を止めているのも限界だ。美しい青も感じている余裕はない。もがいてももがいても体は深淵へと沈んでいく。水の冷たさも、体力を奪っていく。美しい歌声も止まっていた。このまま自分は死ぬのだと思った。佑が言っていた。死ぬ運命はそうすぐには変わらないと。自分が死ぬという運命は村に残っても変わらなかったのかもしれない……。
どうせ死ぬ運命なのなら、深世ともっと話をすればよかった。相手から奪い去るくらいのことをしてもよかった。浮かんでくるのは深世のことばかりで。
口から最後の空気を吐き出した時だった。唇に何かが触れた。その瞬間息苦しさが消えて、目を開ける。はっきりと見えた。水にゆるやかに揺れているウェーブがかった長い黒髪。濃紺の双眸は碧斗をとらえ、興味深げにまばたく。整った目鼻立ち、陶器のような白い肌。黒いドレスのようなワンピース。目を疑うほどの美女が、今まさに自分の前に浮いていた。
「俺は、とうとう死んだのか。あなたは、死神ですか?」
なんて美しい。こんなにきれいな死神なら本望だ。
「誰が死神だって? 本当に殺すわよ」
美女には似つかわしくな言葉が吐き出され、碧斗は唖然とする。
「息をしてるでしょ。分からないほどお馬鹿さんなの?」
言われてみれば、碧斗はまだ水の中にいるのだ。言う通り、呼吸ができている。にわかには信じ難い状況だ。
「え、なんで」
「私が口付けてあげたからよ。感じなかった?」
「口づけ……?」
さっきの感触は、美女の唇だったのだと今更気づく。頭がついていけていない。




