一、
バスを降り、歩き始めてどのくらい経っただろうか。冷たい空気が肌を刺していくのにも慣れてきた。
先を見遣ると、アスファルトの道がゆるやかなカーブを描いている。二車線の道路だが、今のところ車一台ともすれ違っていない。ガードレールの脇には川が流れ、二匹の鴨が仲睦まじげに泳いでいた。碧斗はうらめしげにちらと見た後、すぐに視線をそらす。
土手には黒ずんだ木々が無造作に並んでいる。民家は一軒も見えない。
「こんなところに村なんてあるのかよ」
舌打ちをしながら、寂しい道路をとぼとぼ歩く。鈍色の空が重くのしかかってくるようだったし、辺りは灰色がかってみえるほど薄暗い。人の姿はもちろん皆無だ。異様なまでの静けさが、見知らぬ地への不安を煽る。途中何度か引き返そうと思ったが、すんでのところで思いとどまった。
碧斗を動かしているのは、まさに執念である。
『結婚するので実家に帰ります』
意味が分からない。彼女に事情を問いただすまでは引き下がれない。
碧斗の彼女の名は、一ノ瀬深世だ。
少し天然で、笑顔がとびきりに可愛いのだった。
出会いは大学時代にさかのぼる。
大学構内には桜の木が植えられていて、そのうちの一本だけが枯れ木のままだった。
深世は、たった一人、その木を見上げていたのだ。髪を高く結い上げ、きりっと上がった目じり。当時、碧斗は大学二年生だった。彼女のきれいな横顔を見た瞬間、時が止まった。大げさではなく本当に、彼女の姿だけが、華やかに浮かび上がって碧斗の視界を独占した。
簡単に言えば、ひとめぼれである。
「何、見てるの?」
碧斗は初対面の彼女に親しげに声をかけ、同じように見上げる。枯れ木が不釣り合いな青空に、蜘蛛の巣のように伸びていた。
「あれ」
深世は急に見知らぬ学生から話しかけられても驚かずに、枝を指さした。
「ん、なに?」
目を凝らしてみても、枯れた枝があるばかりである。
「あの枝。つぼみが出てる」
「あーほんとだね」
言われなければわざわざ気づかないくらいの、小さなつぼみだ。周りの木は満開なのに、この一本だけが枯れ木でかなり浮いている。
「この木、近々伐採されるらしいよ」
言ってしまってから、空気読めない発言をしてしまったと後悔する。でも、彼女は気分を悪くした様子はなく、悲しそうな顔をする。
「そうなんだ。かわいそうに」
碧斗は目を瞠る。彼女の声に合わさるようにして、ゆっくりとつぼみが花開いたのだ。
「え、え? ねぇ、今の見た?」
彼女を見遣った時には、姿はなかった。すでに構内の方へ歩いていく後ろ姿。春風が揺れて、花が舞う。ロングスカートが柔らかくふわりと揺れて、碧斗はしばし立ちすくむ。
(呆けている場合か! 見失ってしまう!)
演劇サークルに所属してるので、顔は広いとはいえ彼女一人を捜すのは困難だ。
「待って!」
彼女はくるりと振り向いた。とても軽やかに、可憐に。碧斗はこの時思った。運命かもしれない、と。
思い出して、碧斗は本気で泣きそうになった。
(どうして、結婚するなんて……。ほとんど何も告げずに消えてしまうなんて。ひどすぎだろ)
付き合い始めて四年。すこぶる順調だったはずなのに。
深世のアパートに行ってみても、すでに引き払われた後だった。つい数日前まで会っていたのに。
(あんまりだよ、深世……)
会社勤めではなく、駆け出しの役者である碧斗に嫌気がさしたのだろうか。
大学を卒業してから、碧斗はとある劇団に所属し、演技修行や殺陣修行で忙しい日々を送っていた。生活費が足りない分は、なんとかバイトでしのいでいる。
深世はそんな碧斗をいつも応援してくれていた。穏やかに、優美に微笑んでそばにいてくれた。いつか大舞台に立って主役を張りたいという夢。深世は一緒に歩んでくれると思っていたのに。
(待てよ、嫌になってしまう要素結構あるじゃん!)
夢物語を語り、理想だけ高くて、定職にもつかず……etc。
ネガティブが湧き出てくるのを、碧斗は止めた。厳重に蓋をする。
(深世……どうしてなんだ……)
未練たらたらだ。分かっていても、みっともなくても、それでもちゃんと理由だけは聞きたい。このまま終わってしまうなんて嫌だ。
碧斗は本気で泣きたくなった。
――会いたい。思っていたよりも、自分は深世のことを好きだったらしい。会えなくなるのが、こんなに寂しいことだったなんて。