五、
「ありがとう、案内してくれて」
優しく微笑みながら、もう用はないと心の中でつぶやく。
「ちょっと待って」
佑は行こうとする碧斗の袖を引く。
「もし、鬼隠しの巫女に何かあったら――」
神妙な面持ちになる佑を見て、碧斗も息を飲んだ。
「殺されるからね」
「それ冗談だよね」
「冗談なんかじゃないよ。巫女様は村にとって大切な存在だから。守っているのは、人とは限らない。絶対に変な気を起こしちゃ駄目だよ」
「う、うん」
自然と、うなずいていた。
「それじゃ、僕はこれで」
碧斗が承知したのを見て、佑は踵を返す。途中振り返って。
「約束だからね! 約束破ったらどうなっても知らないよ! 変な気起こさないでね!」
そして今度こそ見えなくなった。
「変な気なんて起こさないっつーの!」
碧斗は叫ぶが、相手に聞こえたかどうか。
「何だよ殺されるって。この村って治外法権なの?」
この先に深世がいる。だんだんと緊張してきた。さらり。頬を何かがかすめていった。雪かとも思ったが違う。気のせいだろうか。碧斗は不思議な心地のまま歩を進めて、とある人物を認め立ち止まる。
「深世……」
すぐに駆け寄らなかったのは彼女が纏う清麗な空気を強く感じたからだ。
セミロングの黒髪が弱い風に揺れている。ベージュのコート姿といういたって普通の服装だ。昨日のような緋袴姿ではなかった。
深世の前には、太い幹の大木が悠然とそびえていた。樹齢数百年は経っているであろう、凹凸が刻まれた幹。髪をたらしたような細い枝。枝垂れ桜の木だということはすぐに分かった。
どっしりとした幹には注連縄が巡らされていた。雪をかぶっていても、存在感を放っている。
深世は幹に手を触れて、御神木を見上げていた。まるで会話をしているかのようだった。
どこか幻想的に見える光景に、碧斗は声を掛けることも忘れてただ立ち尽くす。
粉雪が舞い始めた。風に、枝から雪が軽く舞い、それはいつしか桃色に染まった。碧斗は目を瞠る。風に舞う粉雪は桜吹雪に代わる。
深世はその光景の中で、ひらりと身を翻す。彼女の足元からも花が舞い上がった。伸ばした指先に花の暖かさを迎えるかのように、瞳を閉じてしなやかにくるりと回る。
腕が華麗に自在に花をまぜる。指先を伝う花びらに、唇をほころばせる深世。
その美しさに碧斗は強く目を奪われた。背中をそらせながら、最後に大きく円を描くように優雅に回ると、深世は大木へ視線を上げて静止した。
風が収まっていくにつれて辺りは冬の様相へと戻っていく。花びらは消えて、粉雪に戻る。碧斗は動けずに、棒のように立ち尽くした。深世と自分との間に、隔てるものは何もないはずなのに、声を掛けられない。清廉な空気がほどけてしまいそうで。
深世は碧斗に気づくと、視線を伏せた。地味にショックだった。
「来ないでって言ったのに」
放たれたのは、やっぱり冷淡な言葉だった。
「……結婚するって本当なのか」
深世は視線をそらすと、こくりとうなずく。
(ああ、否定してほしかった……)
碧斗は泣きたくなるのをこらえつつ、言う。
「もしかして、鬼隠しの巫女だからって、決められた人と無理やり結婚させるんじゃないの?」
「え?」
瞳を上げた深世の両肩に、碧斗は手を置く。
「本当のことを教えてくれ。でないと俺は、一生君のことを引きずることになってしまう。自分自身の幸せを第一に考えた結果、この村で結婚することを決めたのなら、俺もあきらめる。でも、そうでないなら、一緒に帰ろう、深世」
深世は強い視線を碧斗に投げた。
「私が、望んで好きな人と結婚するの」
「え」
時間が止まる。
「今の聞き間違いだよね? もう一度お願いします」
「好きな人と、結婚します」
深世は、満面の笑みさえ浮かべて見せた。気持ちがいいほど躊躇のない言葉の衝撃に、碧斗は雷に打たれたような感覚に陥っていた。心のどこかで、無理やり結婚させられる説が優勢だと思っていた。でも。
「あの、マジですか」
「マジです」
きっぱりと返されてしまう。
「あの、さ。俺たちって付き合ってたんだよね?」
まさか自分の勘違いということはないだろうが、一応訊いてみる。
「うん。私たち、付き合ってたよ。碧斗が告白してくれたときは、とってもうれしかった。今も……大好き」
「分かんない分かんない! じゃあなんで他の奴と結婚するんだよ」
「実はね、初恋の人が私の婚約者になったの。中学生の頃からずっと憧れていた人。だから私、彼と結婚します」
「……」
もはや言葉が見つからない。幸せそうに頬を染めている深世は、本当に深世なのか。確かに、彼女は少し天然で、次の瞬間には違うことを考えているような不思議な部分もあったが、まさか他の男のもとへふらっとなびいてしまうなんて信じたくない。
いろいろとショックだ。ショックすぎて気を失いそうである。
「ってことはさ、俺よりもその初恋相手であり、婚約者になった男のほうが好きだってことかな」
もはや気絶寸前である。
「うん……ごめんなさい」
気絶どころか息が止まりそうだ……。
「碧斗、本当にごめんなさい。ここまで来てくれたのに。でもね、碧斗のことも好きなんだよ。ただ彼の方が魅力的だったってだけなの!」
小動物のような可愛らしい目で、少しだけ気の強さを思わせる目で、深世は言うのだ。 堂々と、彼の方が好きなのだと。
「ごめんなさい。私のことはあきらめて」
はっきりと、迷いなく、深世は告げる。残酷なほどさっぱりと、きれいな瞳で。傷口をさらにえぐられる。傷口に塩を塗られる。死にかけてまでここまでたどり着いた。ストーカー呼ばわりされながら、ここまで来た。なのに!
泣きっ面に蜂状態だ。信じられない。信じられないことばかりで碧斗は混乱していた。
「そんな簡単に言うなよ……」
納得できるわけがない。彼女が幸せならいいと頭では思っていても、はいそうですかと、受け入れられない。
「簡単じゃないよ。私だって悩んだんだよ。誰にも相談できなかった。碧斗にだって話せなかった。一人でずっと悩んでた」
深世の瞳が涙ぐむのを見て、碧斗は口をつぐむ。泣きたいのはこっちである。
「でも、私にとって、村にとって鬼隠しの巫女はとっても大切な存在なの。小さい頃からの憧れだった。……巫女の結婚相手も決まってるの。舞の音を、素敵に奏でることができる人。それがたまたま、私の初恋の人だったんだよ」
深世ははにかみながら言うと、御神木を顧みた。
「今日ね、やっと御神木が返事をしてくれたの。私の舞に答えてくれたの」
雪が花びらに変わったあの瞬間のことを言っているのだろう。花吹雪の中で凛と立つ深世は、まるで花に祝福されているようだった。
あんなに美しい光景を今まで見たことがあっただろうか。鬼隠しの巫女にふさわしい相手は自分ではないということだ……。
碧斗は生まれて初めて、本気で人を好きになった。でも、深世はそうではなかったのだ。言葉を失ったままの碧斗に、深世は静かに告げる。
「……巫女と結ばれる相手は決められているの。碧斗のことも大好きよ。でも、あなたとは一緒にいられない。ごめんなさい」
こうもはっきりとした意志を見せる彼女に、これ以上何が言えるだろうか。動揺でまともな言葉も、本当に言いたかったことも言えない。
「私のことは、忘れて。どうか幸せになって」
深世はゆっくりと背を向けると、道を引き返そうとする。終わってしまうのか。こんなにあっけなく。深世の意志ならば潔く身を引こうと思っていたのに、深世を前にしたらあきらめがつかなくなってしまった。
まるで花のごとく舞う深世。かと思えば、自分のことも好きだが、初恋の人のほうが好きだと、堂々と言ってのける深世。
それでも嫌いになれない。むしろ前よりもさらに好きになってしまっている。一体自分は何なのだ。どんな趣味をしているのだ。分からない。分からないけど、深世のことが好きなのだ。大好きなのだ――!




