三、
民宿の食堂『きつね』で朝食をすませた後、風呂に入らせてもらった。お湯は温泉で、旅の疲れもすっかり癒えた。
「碧斗くん、深世ちゃんに会いにきたんだって?」
誰もいない食堂で涼んでいると、清瀬がフルーツ牛乳を出してきてくれた。民宿の女将としては、いい女将さんだと思う。人としてどうかは分からないけど。
「なんで知ってるんですか」
碧斗はげんなりした。
「神楽からきいたの。巫女様の知り合いには手を出しちゃ駄目って言ってるのにねぇ。それで、深世ちゃんとは友達なの?」
他の人間はいいのかとつっこみたくなるが、面倒なのでやめた。
「友達ではなく、彼女です」
清瀬は大きな目をぱちくりとした後、声を上げて笑い出した。
「まーた、面白いこと言ってこの子ったら!」
「いや、面白いこと言ってないです。本当のことです」
清瀬は笑うのをやめると、今度は心配そうな顔をした。
「かわいそうに。思い込んじゃってるの……?」
碧斗は口をつぐむ。深世とは付き合っていた。四年間も。思い出がたくさんあるのに。急に悲しくなってきて、泣きたくなる。
「深世ちゃんには許婚がいるのよ。とっても素敵な人。あなたよりもずっとね。悪いことは言わないわ。あきらめて帰ったほうがあなたのためよ」
清瀬は優しい口調でいろいろとひどいことを言った。碧斗は心が折れそうになりながらも答える。
「……結婚する、ということは聞きました。でも、俺たちは現在進行形で四年間も付き合っていたんです。急に、何の相談もなく、一方的にメールだけ残して消えてしまうなんて。納得できるはずがないじゃないですか……!」
深世とのかけがえのない日々は、誰にも否定できない。嘘だと思われてもいい。でも、自分だけはそれを疑っては駄目だ。碧斗は毅然とした目を向ける。
「――そう。分かった。そこまで言うなら、あなたを信じるわ」
「清瀬さん……」
「それならなおさら、もうあきらめたほうがいいかもしれない。深世ちゃんは巫女様だし」
「それです。神楽も深世のことを巫女様って呼んでました。巫女様って、一体どういう意味なんですか?」
「本当に何も知らないのね」
吐息まじりに言うと、清瀬はさらに同情の顔を見せた。いたたまれない気持ちになる。
「鬼隠しの巫女はね、村の象徴的存在。大切な村の神事を取り仕切ってるの。村では神事はとっても大切なものなのよ」
「神事って、舞とかそういうものですか」
「ええ。特に、霊力が高い巫女の舞は、人間だけじゃない。雪狐のようなあやかしたちや、花々たちにもいい影響を与えるのよ」
深世が吉野の傷を癒したことを思い出す。とてもきれいだった。触れてはいけないと思わせるほどに。ふだんのふんわりとした雰囲気とはまったく違っていて別人のようだった。
来てほしくなかった、という冷淡な言葉はいまだに刺さったままだったけれど。
「深世って……すごい人だったのか」
深世のことを、何も知らなかった。四年も付き合っていたのに。
「そうよ。深世ちゃんは、特別なの。それでも、会う勇気はある? 会ったとしても、結果は変わらないと思うけれど」
「ありがとう、清瀬さん。それでも、俺は会いに行きます。このままでは、あきらめきれません」
碧斗は清瀬に深世の家まで案内してもらった。よく手入れされた日本庭園の奥に、二階建ての家がある。いや、屋敷といっても過言ではない。重厚な瓦屋根に城のような白壁。玄関には朱色の電灯がついている。和風豪邸だ。
「私にできるのはここまでだよ。がんばってね」
ぽんっと肩を叩くと、清瀬は去った。碧斗は緊張しながらも、インターホンを鳴らした。ほどなくして現れたのは草色の淡い着物に、今紫の袴姿の青年だった。年齢は自分と同じくらい、二十代そこそこだろうか。
(つーか誰? なんで着物なんだ……もしかしてこの人もあやかしか?)
もう誰も信じられない碧斗だった。相手は碧斗を見るなり、胡散臭そうに眉を寄せた。
「あの。一ノ瀬深世さんに会いに来たのですが……」
相手は微動だにせず、黙ったままじっとこちらを凝視している。まるで碧斗を吟味するかのように、上から下へと鋭く視線を走らせる。
怪しまれていることは肌に刺さるほどよく分かった。分かりやすい敵意に、こちらのほうが不快感を抱いてしまうほどだ。要するに感じが悪いのである。とても。
碧斗は気を取り直すと改めて言う。
「深世さんの友達の、天沢碧斗といいます。深世さんと話がしたくて来たのですが、今はご在宅でしょうか」
さわやかに好青年を演じる。対して目の前に壁のごとく立ちはだかる仏頂面の青年は、少しも表情を変えない。深世から兄弟がいるとはきいていなかったけれど、気難しい兄とかなのだろうか。
「深世様はお前とは会わない。即刻去れ」
目の前でぴしゃりと戸が閉まった。一瞬の出来事に、碧斗はしばし呆然と立ち尽くしてしまった。
「ほんとに誰、今の人」
深世様、と呼んでいた。ということは、兄でも弟でも親戚でもない。まさか、深世が結婚を予定している相手――?
だとしても様づけはおかしい。ぐるぐるとめまぐるしく思考が巡っていく。この予想もしなかった状況をどう収拾すればいいのか。
「そうか。今のは使用人か!」
碧斗はぽんっと手を打つ。これだけの屋敷だ。そういう存在がいてもおかしくはない。
「それとも秘書とか。運転手かも。ボディーガードかもしれない」
勝手に納得しつつ、考える。表がだめなら裏ならどうか。あの仏頂面の使用人は話をきいてくれそうにない。忍び込むしかない。下手したら不法侵入だが致し方ない。
ばれなければ、いいだろう。屋敷の裏に回る。白壁が張り巡らされ、中の様子を見ることができない。
「こうなったら!」
壁をよじ登る。碧斗は誰も見ていないのを確認すると軽くジャンプをして、壁にぶら下がった。次に足を壁にかけようとしたときだった。ふいに視線を感じて、脇へと視線を向ける。こちらをじっと見上げている少年と目が合った。
一瞬時が止まる。
「何してるの」
幼くてあどけない瞳が容赦なく見つめてくる。赤色のマフラーに、紺色のコート、黒いズボン。中学生くらいだろうか。曇りのない、純粋な大きな瞳が不思議そうにこちらを見ている。してはいけないことをしている大人を見ている……。胸がものすごく痛い。
「えーっと」
言い訳の一つも浮かばない。情けないことに頭が真っ白になってしまった。が、とっさに思いついたことを言ってみる。
「運動?」
疑問形になってしまったが仕方がない。苦し紛れの一言であった。
「腕をきたえようと思ってさ」
だんだんぶら下がっているのも苦痛になってきた。少年よ、早く立ち去ってくれ。
「あ、分かった。ストーカーさんか!」
ぽんっと無邪気に少年は手を叩いた。碧斗の手が、壁から離れた。着地に失敗し足首をひねるも素知らぬ顔をした。
「大丈夫? ストーカーのお兄さん」
清々しいほどはっきりとした少年の声が、青い空にこだまする。気を取り直して、碧斗は言う。
「あのさ少年。お兄さんがストーカーに見える? こんなにイケメンなのに」
「人は見た目では判断できないよ。で、お兄さんは誰?」
今目の前にしている少年は、見た目は天使だが、悪魔にも転じるような気がする。神楽の件がトラウマだ。もしやこの少年もあやかしだろうか。もうすべてがあやかしに見えてしまう碧斗だった。
「俺は、天沢碧斗っていいます」
碧斗は歌のお兄さんなみのスマイルをする。
「ふーん」
興味なさげに返事をした後、少年は言う。「僕は橘佑。中学一年。深世さんは今留守だよ」
さらりと深世の名が出るも、動揺を見せまいと咳払いでごまかす。
「へ、へぇ。そうなんだ」
「深世さんに会いたかったんでしょ?」
「ま、まぁ」
明後日の方向を見ながら、碧斗はうなずく。
「だからって不法侵入は駄目だよ」
「……」
中学生に窘められ、何も言えない。
「佑くん。深世が今どこにいるか知ってる? もし知ってたら教えてほしいんだけど」
佑はじっとこちらを見つめた後言った。
「お兄さん、深世さんに振られたの? だからストーカーしてるの?」
直球が飛んでくる。いや、ストーカーではない。断じてない。それに振られてもいない。まだ認めない!
「あのね、佑くん。俺は正真正銘、深世の恋人なんだ。急に仕事をやめて、アパートも引き払ってしまったから、心配になって話をしにきたんだよ」
満面の笑みで語りかける。機嫌を損ねてはいけない。それに、碧斗は大人だ。ここは怒らず、スマートにいきたい。
「なんだ。やっぱり振られたんじゃん。深世さんには許婚がいるんだし」
おしげもない言葉の銃弾を浴びても、平常心と言い聞かせる。佑はまだ中学一年生。ここは大人の余裕を見せなければ。
「とにかく、深世と話がしたい。もし居場所を知ってるなら教えてくれない?」
佑は少し考えた後、言った。
「いいよ。案内してあげる」
ちょろいな、と心の中で高笑いをした。
「でも話をしたら、ちゃんと未練を断ち切るんだよ。早いとこ次に進んだ方がいいよ。引き際が肝心なんだから。ストーカーなんてしてちゃだめだよ」
ぐうの音も出ない。高笑いが一気に引っ込んだ。
「勝手に忍び込もうとしてごめんなさい。だからもう言わないで……」
碧斗は満身創痍だ。
「反省してるならいいよ。じゃあ行こう、ストーカーのお兄さん」
「その呼び方やめて……」
何はともあれ、今度こそ深世とちゃんと話ができるかもしれない。碧斗は力なく佑についていった。




