Part 3
「そういえば、あなた最近やつれてない?」
玲がオレの顔色を見て、不意に呟く。
「そうかな?」
「気のせいかしら?」
「心当たりがあるとするならば、10デイズアニバーサリー鯖を食べたことかな?」
「何よそれ」
ふざけたつもりだったのだが、冗談のつもりだったのだが、ジョークのつもりだったのだが、アメリカンジョークのつもりだったのだが、一世一代の鉄板ジョークのつもりだったのだが、彼女は一切笑わない。だがしかし、忘却クロッパーを乗り越えた今のオレならば、そんな彼女を受け止め過ぎるほどに受け止めることができるのだ。
「いや、なんでもないです……。そして何もないです」
それでも彼女の氷の瞳には、凍てつく瞳には、凍りつく瞳には、敵いそうもないので、勝てそうもないので、勝てる見込みがないので、大人しく撤退する。退散する。
「そう。何もないならそれに越したことはないわ」
そう言って玲はスタスタと、それはもうスタスタと学校へ向けて歩き出してしまった。歩みを進めてしまった。そんな彼女の背中を追いかけるようにして歩く。
「そうだ。なら、放課後に元気の出るものを食べに行くわよ」
「?」
玲は何かを思い立ったように、何かを思い出したかのように、何かを思い付いたように、オレに提案を投げかけてきた。
「はて、元気の出るものとは?」
「元気の出るものは元気の出るものよ」
「それってデートのお誘い?」
「そうよ? 嫌なの? 嫌なわけ?」
「いや、いやいやいや、超嬉しい。じゃあ、どこ行くか考えとくよ」
「はあ?」
今数秒前までのカップルの温かな、ホッコリするような、心温まるような、平和な会話はどこへ消えてしまったのだろう。
突如として、突然として、突発として、唐突として、彼女の声色が変わるではないか。変わるカワルかわる。
「え?」
「何言ってるの?」
こちらとしては、「はあ?」と言われたこちらとしては、言われてしまったこちらとしては、こちらとしましては、そのセリフは、その言葉は、そのフレーズは、その「何言ってるの?」は、どう考えてもオレの物であった。どう見てもオレの物であった。
「えっと、何とはなんですか??」
「あなたが行く場所を考える必要なんてないのよ?」
「え、そうなの?」
「そうよ。あなたってつくづく無駄な努力が好きよね」
彼女の言う無駄な努力という言葉には、きっと今の今の話だけのことではないのだろう。きっときっと『忘却クロッパー』の一件のことも含まれているのだろう。組み込まれているのだろう。考慮されているのだろう。
「ということは、もう場所は決まってる??」
「もちろん決まっているわよ」
「どこ?」
「それは放課後になってのお楽しみよ。楽しみにしてなさいな」
忘却クロッパーなるものが解決してからの玲は明るくなったと思う。明るくなったというよりは、元に戻ったということなのかもしれない。元に戻ったというだけのことなのかもしれない。そもそも明るかった彼女が忘却クロッパーによって、心を閉し、鎖し、トザシ、とざしていただけのことで、今の彼女こそが、今目の前にいる彼女こそが、本来の、本当の、本物の、彼女、絵凪玲なんだと思う。
「わかった。楽しみにしておくよ」
「ふふ」
そんなわけで、こんなわけで、どんなわけで、あんなわけで、そういうわけで、こういうわけで、どういうわけで、ああいうわけで、まだ朝だというのに、まだ朝にも関わらず、デートの予定が立ったオレは、今の今から、楽しみで、楽しみ過ぎて、楽しみであることすらも楽しみで、授業どころではなくなっているなんてことは、もはや報告するまでもないだろう。
「お前、いつにも増して上の空って感じだなー」
黄滝が
「そうか?」
「そうだと思うんだが、違うのか?」
「んー、どうだろうな」
「あんまりノホホンとしてると、また愛しの神月先生にアイアンクローされるんじゃないか?」
「それは面倒だな……」
神月先生の馬鹿力は冗談を抜きにして、ジョークを抜きにして、アメリカンジョークを抜きにして、一世一代の鉄板ジョークを抜きにして、本当に痛いのである。それはつまりどういうことか、つまるところどういうことなのか、食らいたくないということだ。
神月先生の握力はどう考えても、何度食らっても、何回掴まれても、どう足掻いても、ゴリラよりもゴリラであり、ゴリラ以上にゴリラなのだ。ということはどういうことか? 言うまでもなく神月先生はゴリラなのである。ゴリラということなのである。ゴリラゴリラなのである。ゴリゴリラなのである。
「誰がゴリラなんだぁあ!!!」
扉を全力でこじ開け、叫び声もとい雄叫びと共に、神月先生が教室にやってきた。
「美崎くぅん、誰がゴリラなんだ?」
黄滝の冗談は、ジョークは、現実のものとなり、冗談は予言となってしまった。冗談は予知となってしまった。単なる予言となってしまった。単なる予知となってしまった。
「い、痛いです……先生………」
「美崎くぅん、最近浮かれ過ぎてるんじゃないのかな? ん? どうなんだ?」
「い、嫌だなぁ……。う、浮かれてなんかいませんよ……」
「そうかな? 私にはお前が調子に乗っているように見えるぞ?」
浮かれているではなかったのかと。もはや浮かれている、浮かれ過ぎているではなく、調子に乗っているということになってしまったようだ。なってしまっているようだ。なっしまったのだった。
「す、すいません……でした……」
「クソがっ」
それはまるでチンピラのように、輩のように、吐き捨てられた。この人は本当に教師なのだろうかと疑問に思うことがある。思うことがあるではない。疑問にしか思わない。本当に教師なのか、疑わしいところだ。
いや、かつてはそんなこともあっただろう。それこそ、これこそ、あれこそ、どれこそ、あの頃、その頃、この頃、どの頃、竹刀や教科書の角、巨大な三角定規、何から何まで、何から何に至るまで、教師が持つものは、教師が手にしたものは、凶器と化していたのは隠し切れない事実であったことは言うまでもない。わざわざ話す必要もない歴史の授業だろう。
凶器を教師が持つから凶器だったのか、凶器でないものを教師が持つから凶器だったのか、そもそも教師そのものが狂気だったのか、歩く凶器だったのか、それはもうただの狂気である。
しかしだ。だがしかしだ。それは、これは、あれは、どれは、今や昔。今や過去の話。過去の産物。過去の過去。
今のご時世、教師が生徒を殴ろうものなら、体罰という言葉が背後霊のようについてまわる、金魚の糞のようについてまわる、腰巾着のようについてまわる、そんな時代だ。
教師にとっては生きづらい世の中になったということなのだろう。
それに比べて神月先生はどうだろうか? 今なお現役、現役バリバリ、現役パリパリ、現役ビリビリ、現役ヒリヒリ。今なお歩く凶器ではないか。今なお歩く狂気ではないか。
オレの頭はこの1年と2ヶ月でどれほど握り潰されたことだろうか。オレが乙女モードによる回復力を持っていなかったとしたら、今頃、246回は死んでいるのではないだろうか。だろうかではない死んでいるのだ。246回は死んでいるのだ。
そんなことはあったが、こんなことはあったが、どんなことはあったが、あんなことはあったが、放課後のデートのことを考えれば、思えば、思い出せば、こんな痛み、痛みですらなかった。
そしてあっという間に、はっという間に、わっという間に、いっという間に、放課後になっていたりした。
「お待たせ。待ったかしら?」
「うん、すげぇ待った」
校門での待ち合わせに、オレよりもあとに来た玲に対して、間髪入れずにそう言うと、そう返すと、彼女はオレの頬をつまんだ。つねった。ひねった。つねってひねった。合わせ技一本。
「痛あ!」
「そこは今来たところって言いなさいよ」
「い、今来たところです………」
前言撤回である。今日という1日はアイアンクローから始まり頬のつねりと終わる、その心は1日痛みしか感じていないということです。一つもかかってなければ、何も上手くない。このまま一緒に食べるご飯まで美味くないのは避けたいところである。
「よろしい。それじゃあ、行くわよ」
彼女は黒く黒い髪を靡かせながら、歩みを進めた。
「それでどこに行くんだ?」
「それは着いてからのお楽しみよ」
「随分とお楽しみが多いんだな」
「お楽しみは多ければ多いほどお楽しみなのよ。知らないのかしら?」
「知りません」
「それは人生損しているわよ」
何故だろう。全然損していると思えないのは何故だろう。何故なのだろう。
「そう……なのか……」
「そうよ。悔い改めなさいな」
「そうするよ……」
忘却クロッパーが解決してから早数日が経ったわけで、彼女もこの通り、やや荒削りではあるものの、彼女の氷も少しずつ解凍できているわけで、温暖化できているわけで、これを機に少しだけ、ほんの少しだけ気になっていることを尋ねてみることにした。
「そういえば、玲って友達いるのか?」
「何よ、急に」
「いや、なんて言うか、掣踆ペーシェントのおかげで……おかげでって言うもの変だけど、友達とかいなくなってたんだろ? だから、気になってさ」
「そういうことなら、心配要らないわ」
「そうなの?」
「そうなのよ」
そう話す彼女の顔からは何も読み取ることはできない。こういう場合、顔に何かしらのヒントが浮かび上がってきそうなものなのだが、彼女の顔から何も浮かび上がってこない。氷は浮かび上がってくれるのだが………。
「私はこう見えても人を見る目があるのよ?」
「ほう、と言いますと?」
「今回の一件で、悪気はなくとも、その人の本性が、本質が、見えてしまったのだもの。包み隠さず見えてしまったのだもの。そう簡単に割り切れるほど、私はまだ大人ではないし、簡単に割り切れるのが大人だというのなら、私はまだ大人じゃなくていいわ」
儚く、切なく、今にも壊れてしまいそうなそんな言葉。そんな言葉なのだが、その言葉には彼女の覚悟と、彼女なりに掣踆ペーシェントと向き合ってきたなりの強さが窺えた気がした。
「そっか。そういうことか」
「そういうことよ。そろそろ着くわね」
「おっ、マジか。もうお腹ペコペコだぜ」
「あなたは私を裏切らないでね……」
彼女はオレの背中を見据えて。そう呟いたのだった。




