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 その日から、何が変わったという事もない。


 イザールの日常は、前のように、プルケリマのためだけにあった。


 彼はまず、プルケリマを生き返らせようと考えた。彼女の遺体を魔法鞄に押し込んで、様々な魔女の家の戸を叩いた。魔女たちはプルケリマの死を悲しんだけれど、イザールの望む答えはくれなかった。


 それでもイザールは、諦めなかった。


 魔女を訪ねて歩き続けたその果てで、彼に方法を授けたのは鳥の魔女だった。小さな彼女は難しい顔をしてから『おすすめはしない』と言いつつ、本をくれた。


 そこにあるとおりに事を進めるうち、プルケリマの美しい体は溶け始めた。魔法鞄がいかに保存に優れていても、永遠ではないのだ。イザールは彼女の心臓と、その美しい青の目だけは『永遠のガラス瓶』で保存して、残りは己の血潮に変えた。


「生き返らせるには、体がいる。それもただの体では駄目だ。美しい、至高の体を」


 その日から、イザールの日常は甘い香りから鉄錆の匂いへと、決定的に変わったのである。


。。。


「それで、どうなったの」


 幼い声と重なるようにパトカーのサイレンが響いている。


「イザールは、魔女を生き返らせることができたの」


 問いかけているくせに、答えを知っているような顔。年端もいかない少女が乗せるには、酷く麗しい、見る者を狂わせるような笑みだ。


 魂の奥から香るような甘い香りが男の鼻腔を擽っている。男は傍に置いていた拳銃を持ち上げながら物語を続けてやった。


・・・


「どうなったか、か。あの後、猫は人間を殺して殺して、殺しつくした。美しい人間の皮をはぎ、白魚の指を切り取り、愛しい魔女の器を完成させたよ。そしてそこに、魔女の心臓と、美しい青薔薇の瞳を――そう、ちょうどあなたの目のような青を、埋め込んだ。生き返った魔女は猫の事を覚えていなかった。けれど、猫はそれでよかったんだ。彼女の世話をして、小さな手を引いて歩いて、人を殺して――」


 ・・・


 躊躇など、ひとかけらもしなかった。村人の全てを殺した時も、今も。


「ごめんなさい、許して……」


 どんな人間も、そう言った。みんな、まずは何が起きたかわからない顔で、ただただイザールに謝罪の言葉を吐きだすのである。もはや彼にとってそれは、ただの鳴き声に過ぎなかった。


「なんでこんなこと……なんであたしがこんな目に……。こ、この、悪魔っ。人でなしっ。この――」


 今、目の前にいる人間も、何もわからずに、ただ鳴いている。


 彼は躊躇の一つもせずに、その鳴き声を聞き終えることもなく、目の前の人間を殺した。


 降りかかる血の生臭いこと。その熱さの鬱陶しいこと。この上なかった。


 真っ白な髪を赤で染めたイザールは、顔にかかった血だけ拭って、素早く作業に取り掛かる。ただの物に変わった死体の、目をつけていた部位を近くでじっくり観察して、審議する。


 これは彼女に、本当にふさわしいのか。傷はどれくらいあるのか。

 ――今の物と交換して、何日くらい持ちそうなのか。


「本当なら、もっと美しくなければならないが――間に合わせにするなら、まあ、及第点だろう」


 成人した人間の腕ではない、というのも気にくわなかったが、それでもイザールは自分を無理やり納得させ、プルケリマの待つ郊外の廃墟へと向かった。


 プルケリマは、大人しく待っていた。その青薔薇の瞳が以前と変わらない色でイザールを見ていた。


「ただいま」


 イザールがそう言うと、普段なら、黙ってニコニコしているか舌足らずな歪んだ声で「おかえり」と返してくれるプルケリマが、その日は、ふわり、と微笑んで彼を手招きしたのである。


 その手招きに静かに侍ったイザールへ、プルケリマはゆっくりと口を開いた。


 ・・・


 ある時、魔女は「何かお話、してちょうだい」と歪んだ声で言った。


 猫は、魔女と暮らした日々を面白おかしく話してやった。そしたら、魔女は、昔そうしたみたいに猫を撫でた。そこで俺は――猫は、気が付いた。魔女は、ずっと記憶がない振りをしていたんだ。

 彼女は言った。これじゃあお前の魂は地獄に行ってしまうわよ、と。こんなことして馬鹿ね、と。

 

 だから俺は――だったら、そうならないように、と。彼女にあることを願った。彼女は、俺の提案に嬉しそうに微笑んで頷いてくれたよ。


 。。。


「――こんなことして、馬鹿ね」

「そう言ってくれるのを待っていた」

「自由に生きればよかったのに」

「あなたのいない世界になど、生きる意味はない」

「仕方のない子ねぇ。……でも、それを拒めないわたしも同罪よねぇ。じゃあ、また、同じように――」


 慌ただしい足音とサイレンをBGMに、少女は自分を誘拐した男の耳に口を寄せる。


「――一緒に、地獄へ」


 男は身動ぎして大振りのナイフを取り出し少女に渡した。そして、手に持った銃の銃口を小さな頭のこめかみへ。


「ああ。魂が溶け合うその日まで――何度だって」


 ドアを蹴破る音と、銃声と、それからナイフが心臓を抉る音は、同時に混ざって空気に溶けた。

 男は、先にこと切れた少女の甘く暖かな赤に抱かれて、静かに静かに、目を閉じた。


 。。。


 音響信号機の音に、少年はゆっくりと目を開いて再び歩き出した。この国の人間にしては珍しい明るい茶色の瞳が、陽光を受けて一種キラリと金に輝いた。


 雑踏の中を行く少年の耳には、もはやただの耳栓になっているイヤホンが収まっている。


 大人、という区切りの仲間入りをするには、あと二歩ほど階段を上る必要のある彼は、彼女のためにしなやかに鍛えあげた体を黒い制服で包み、猫のように人混みをすり抜けながら、駅へと入っていった。目的地は、植物園だった。


 電車に揺られ、少年は微睡むように目を閉じる。そうすると蘇るのは、過去の記憶だ。途方もないくらい、昔の記憶だ。でも決して忘れられない記憶だ。


 一番初めの毛並みは、黒だった。己を包んでいたのは、黒と、甘い香りだった。――途中、白と鉄錆の匂いに変わったけれど。でも、原初は、黒だった。


 その次は、金色だった。彼女に出会う前から金色で、出会った後も金色だった。己を包んでいたのは、埃と、泥と、血反吐と――それから最期は、彼女の甘い匂いだった。


 そして今度は――


「次は、――駅。――駅。お降りの際、お忘れ物なさいませんよう、ご注意ください――」


 ――原初と同じ、黒。


 しかも、境遇まで同じだった。なぞるように同じだった。森で捨てられ、拾われた。そして、名前を付けられた――彼女とは違う人間に。


 少年が己の事を正しく把握したのはその時だった。新しく貰った名前は、もはや彼にとってはただの識別コードでしかなく、彼は今でも――イザールだった。


 電車が止まる。イザールは立ち上がって、足早に鉄の箱を飛び出した。改札を抜け、人混みを泳ぎ、アスファルトを歩き、そうしてやっと、植物園へとたどり着くことができた。


 慣れた手つきで入場券を買って、彼は湿気と温い空気に満たされた園内へと入っていく。

 休日だというのに、人は疎らだ。その疎らな人すらも、イザールが奥へ奥へと歩を進めるたびに減っていく。一人で過去に耽りたい彼にとっては、好都合だった。


 奥に行くにつれ、薄暗くなっていく。上を見れば、葉が茂って陽光を遮っていた。


 ――良く、似ていた。


 ここは、イザールとプルケリマが住んでいた森に、よく似ていた。胸を締め付ける郷愁と慕情。それから――胸を焼く焦燥。


 あなたはいま、どこに。


 言葉に出さずに唇で呟いたって答えは返ってこないから、イザールは溜め息を殺して歩みを早めるしかないのだ。


 周囲の様相が変わってきた。植物園、というよりは整えられたガーデンと呼ぶのが相応しいこのエリアは、ここの園長の趣味でこうなっているらしい。

 黙って歩きながら、彼はイヤホンを外して乱雑にポケットに突っ込んだ。そうしながら周囲に視線を巡らせて辿るのは、かつての記憶の残り香である。


 ――ウィッチクラフト。魔女の知恵。


 パセリ、セージ、ローズマリー、それからタイム。


 ――森に住む器用な人。麗しき庭師。森を歩く聖者。


 ヤドリギ、ヒイラギ、キイチゴ、それから――と彼はほんの少しだけ顎をあげた。


「ウィッチ・ヘーゼル」


 魔女のハシバミ。


 かつて、静かな幸せの満ちた家に、寄り添うように生えていた。細い黄色の花を咲かせる木だ。その葉は乾燥させればハーブに変わる。


 ――フラッシュバックする。


 冬と春のあわいに咲く黄色。見上げる魔女の、寒さに色づく頬。

 夏の香りの中でも涼し気な顔。非対称の葉を摘む指。白く、細い指。

 秋の空の下、微笑む瞳。そよぐ白金。咲き誇る青薔薇。黒猫を映す、青薔薇。


『イザール』


 薄い唇から紡がれる名前。優しいその声。


 あいたい。あなたに、あいたい。


 イザールの心を、吐き出すことのできない熱が締めつける。


「――ああ……」


 プルケリマ、とイザールが縋るように祈るように呟きかけた時だった。さり、と落ち葉を踏む音が後ろから聞こえた。

 口を噤んだイザールが振り向くより先に、胸を甘く突く花蜜の香りが漂った。


 イザールは、期待に震える脳で、まさか、と思った。


「――何かお話、してちょうだい」


 大人と子供の間の声が、そう言った。

 イザールはもう我慢できずに振り返り、飛び掛かる勢いでその人を抱きしめた。

 潤む視界のその端で、煌くプラチナブロンドが揺れる。


「自由に、生きればよかったのに」

「何度だって言う。あなたのいない世界になど、生きる意味はない」

「馬鹿ね。本当に馬鹿ね。いるとも知れない相手を探して――わたしもお前も、本当に馬鹿ね」


 静かな震える声がそう言うから、イザールは「あなたは馬鹿なんかじゃない」と言おうと彼女を抱きしめる力を、ほんの少しだけ緩めた。そして、自分よりも小さな彼女の顔を見た。


 麗しいかんばせに乗った青薔薇が、寸分たりとも変わらない青薔薇が、ほんのり潤んでイザールを見ている。


 もう、言葉すら出なかった。


「……うふふ、こんなに大きくなっても甘えたねぇ」


 濡れた囁き声を聞きながら、イザールは、昔そうしていたように、少女の首元に擦り寄った。甘い香りだ。前と何ら変わらない、優しく甘い香り。


 しゃくりあげそうになるのを必死で抑えながら涙を零すことしかできないイザールの耳元で、少女が「ねぇ」と言った。


「イザール」


 魂が震えたようだった。湧き上がる激情を堪えきれず、イザールは少女を強く強く抱きしめる。そうしていたら、彼女が再び囁いた。


「名前を」


 震える声だった。


「名前を、呼んでちょうだい」

「――……プルケリマ」


 震える舌で噛み締めるように囁やけば、イザールの耳を安堵の吐息が撫でていく。


「プルケリマ」

「ああ……イザール」


 あいたかった。


 二人の言葉が重なって、体温も同じになっていく。イザールは思う。抱きしめたこのまま、溶けて一つになれたら――と。


 抱き合う二人を互いの心から現実へと引き戻したのは、植物園の職員の声だった。

 青春ねぇ、と微笑んでから、職員は時計を指差した。いつの間にか、閉園時間になっていた。


 植物園を出たイザールとプルケリマは、手を繋いで歩きながらぽつぽつと話をした。


 思い出話から始まった会話は、流れるようだった。あの時はああだった、この時はこうだった、そして今は――と続いた会話でわかったのは、プルケリマとイザールは同じ高校の生徒であると言うことだった。


 歳が一つ違うだけなのに初めて会う理由は、プルケリマがイギリスから転校してきたばかりだから。

 まだ校舎に入ったこともないと言う彼女に、イザールは案内役を買って出た。明日学校で会う約束をして、二人はそれぞれ帰路に着いた。


 そうして二人は、前世での波乱が嘘のように楽しい学生生活を送り、キャンパスライフを送り、そして結婚した。授かった子供は二人。プルケリマとそっくりな男の子と、イザールとそっくりな女の子だった。


 子供を育て上げ、笑顔で孫を抱いた二人は、ある日の朝、同じベッドの上で皺だらけの手を睦まじく繋いだまま、静かに、同時に息を引き取った。

 二人を看取ったのは、息子でも娘でも、孫でもない。


 家に寄り添うようにして生えていたウィッチ・ヘーゼルの黄色の花だった。


 ***


 それでも、その二人の願いはまだ叶わない。


 ***

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