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「何かお話、してちょうだい」とねだられるのを待って、そして未練がましく過去のよすがにすがるから、彼はいつまで経っても彼女の手を放すことができなかったのだ。


 *****


 だがそれは、決して、悪いことではなかった。


 ・・・


「お話。お話か。そうだな、それじゃあ、こんな話はどうだ。二人が出会ったのは、暗い森の小道だった。斜陽が森の暗さをますます際立たせる小道だった。魔女のために、魔女自身が繰る土くれ人形によって整えられたその道は、いつだって彼女の顔のように綺麗に保たれていて、落ち葉の一つもない。そんな小道に、その日は黒いボロ雑巾が落ちていたんだ」


 。。。



「まあ……小汚いものが落ちている」


 魔女の小さな呟きに、彼の意識は浮上した。


 その声が美麗だったからなのか。それとも、声に魔力があったのか。今となっては、わからない。

 けれど、この穢れを知らない水晶のような声は、安寧へと落ちゆく彼を、確かに此岸へと呼び戻したのである。


「嫌ね。わたしの道が穢れるわ」


 言葉とともに、浮遊感。

 ぐったり横たわっていた彼を持ち上げたのは魔女の横に侍る土くれ人形だった。彼は、体を包む土の腕のその硬さと共に、己の魂に死神の鎌がかかっていることも感じていた。


 ああやっと死ぬのか、とも、まだ死にたくない、とも思いながら喘ぐしかない彼の運命が変わったのは――


「あら、これ……、まだ生きているの」


 ――その静かな静かな一言が吐き出された、まさにその瞬間だった。


 どうでもよさそうな、それでいて、弾むような声で魔女は口ずさむ。


「わたしの道に、落ちていたんだもの」


 ぐったり動けない彼の顔を、魔女は扱い方を知らない子供のように掬い上げた。

 魔女の手のひらから匂い発つ香りは、天上の花蜜の一滴のようだった。


「だったら――わたしの物ね」


 まやかしのように甘い香りと声に包まれながら、彼は静かに目を閉じた。


 ***


 確かに、命は救われた。でもそれが()()にとって本当に良いことだったのかは、今となっては、さあ、わからない。

 だって、彼が檻に入れられたのは恐らくこの時なのだから。

 物語は、ここから始まったのだから。


 ***


「ちょっと、イザール。わたしの使い魔さぁん。お薬の時間よ。いらっしゃい」


 鼓膜を撫でる甘い声に舌打ちしたくなりながら駆け出したって、優しい匂いに掴まる方が速いことがわかっている。

 それでも彼が駆け出すことをやめられないのは、彼女の手にある薬に原因がある。全身から甘い匂いをさせているくせに、魔女がその手に持つ薬は苦くて苦くてたまらないのだ。イザールはそれを、よく知っているのである。


「はい、捕まえた。まったく困った使い魔さんだこと」


 魔女に抱えられて彼女の自室へと押し込まれるのは、イザールにとってはもう日常茶飯事になっていた。毎日毎日何回も苦い薬を飲むのが嫌で隠れていたって、魔女はすぐにイザールを見つけだしてしまう。


「さ、お口を開けなさいな」


 さり、と揺れたプラチナブロンドは、埃一つない床を撫でていて、ほんのり垂れた目は、イザールを静かに見つめていた。その青の美しさに、毎度のことながら見惚れてから彼はようやく口を開いた。そして、そこに注ぎ込まれた苦い薬を飲み下した。

 魔女は嬉しそうだった。


「偉いわねぇ、素直に飲み込んで。最初はたくさん暴れたけれど、最近は良い子じゃない。苦みに慣れたのかしら。それとも、体を作り替え終えたのかしら」


 手荒れを知らない白魚の指がイザールの頭を撫ぜていく。そのまま手遊びに好き勝手されるのを知りながら、イザールはじっとしていた。

 けれど、魔女の指はいつものようにイザールを弄り回す事はしなかった。

 魔女はまるで彼の体の中を探るように目を細めている。イザールはその青の視線を身に受けながら、背筋を伸ばした。すると、魔女はふわりと微笑んだ。


「ふうん、体のほうが変わったみたいね。これなら次の集会の時には連れまわして、みんなに見せびらかせそう」


 顎の形をなぞるように、ゆっくりゆっくり、魔女の指が滑っていく。イザールはこそばゆさを我慢しながら、静かに静かに魔女を見上げていた。彼の金の目に映る魔女のかんばせは、絵画のように美しい。


「鳥の魔女が素敵な使い魔を見せびらかすの、羨ましかったのよ。わたしだって、長い寿命の一小節分くらいは、綺麗な物を傍に置きたいもの」


 ねえ。という吐息の混じった声のなんと蠱惑的なこと。金に縁どられた青薔薇のなんと麗しいこと。

 魔女に負けじ、とイザールも背筋を伸ばす。


 イザールの命を気まぐれに掬い上げてくれたこの美しい魔女が、イザールを綺麗と言うのならば。傍に置いてくれるのならば。


 どんな時でも凛と。


 魔女が当たり前のように麗しいように、イザールはどんな時だって当たり前のように凛として、彼女を飾っていなければならない。それが、イザールの義務であり、特権なのだ。

 自分の命は、魔女のためだけにあるのだ、とイザールは誇りを持っている。


 だから。


 例えば魔女が薬を譲りに、靴を汚して村へと向かう時だって。大勢の人間の視線を感じながら、凛と魔女の隣に侍るのだ。


 例えば、見知らぬ子どもが魔女の家を訪ねてきた時だって。背筋を伸ばし、その子供の母のための薬づくりを手伝うのだ。


 例えば、その子供を森の外まで送った時に、いくつもの視線を感じたって。気にしたそぶりを見せずに歩くのだ。


 ――そして、例え、魔女とイザールの住まう家が火に巻かれたって。今まで薬を届けて助けてきた人間たちに牙を剥かれたって。

 魔女の傷一つない体に槍で穴を開けられたって。

 凛と。

 凛としていなければ――


「も、もう死んだか」


 ――ならなかった、のに。


 イザールは叫んだ。己を守る魔女の結界を引っ掻きながら、泣き叫んだ。

 

「いやわからん。相手は魔女だ」


 イザールの声は外へ届かないのに、外からの声は明瞭に聞こえる。男たちの言葉は、イザールの心を抉って握り潰していく。


「じゃあ、もう一突き……」

「でも、あんまりなことをすれば、呪われるかも」

「ど、どうせ放っておいても死ぬ。もう村に帰ろう」

「あの子には感謝しないといけない。おかげで恐ろしい魔女を殺せたんだから。これで、薬を売りに来る魔女を恐れる日々は終わった。見返りに何を求められるのか、恐れる日々は終わったんだ」


 男たちの背中が遠くなっていく。イザールはボロボロの心を誤魔化すように結界に爪を立てる。必死に、結界を破ろうとする。何度も爪を立て、見る間にボロボロになった指先からは血が流れ始めた。

 結界が雪のように解けたのは、丁度、その時だった。


「……イザール」


 魔女の掠れた声に、イザールは駆け寄った。白金の髪と赤い液体の上、揺蕩うような魔女は、まるでオフィーリアだった。

 重たそうに持ち上がった細腕が求めるから、イザールはそこに己の頭を差し出す。その手から滴る血の赤は、イザールの真っ黒な夜色の毛皮に落ちて、溶けて見えなくなった。


「にゃー……」

「うふふ……泣かないのよ、イザール」


 ボロボロに乱れた白いドレスを血が犯していく。鉄錆の匂いが、天上の花蜜の甘さを覆い隠していく。

 そのたび、魔女の首に死神の鎌が近付いているようだった。


「にゃぁ……」

「ええ、死ぬわ。流石に、いくら魔女でも死ぬときは死ぬのよ。それが今だというのは……少し、残念、ね」


 ふぅ、と息を吐く魔女は、その端正な花のかんばせを名残惜しそうに静かに崩して、柔らかく口を開いた。


「プルケリマ」


 それがわたしのなまえ。


 細ってきた声に、イザールは大きな三角の両耳に全神経を集中させる。


「あなたには、いつか、名前を呼んでほしかったわ……――」


 それがあなたの願いなら、と。


 イザールは必死で言葉をひねり出そうとする。にゃあにゃあと鳴き声しか吐けない喉はいつしか焼けるように熱くなった。

 青薔薇が、枯れる。


 その瞬間だ。


「――ぷル、け、リマ……!」


 歪な声だった。だが確かに、それは鳴き声ではなかった。

 その声が届いたのかは定かではないが、魔女は――プルケリマは、静かに微笑みながら、末期の息を吐きだして目を閉じた。


 イザールは泣き続けた。

 流れる涙は、いつしか黒に染まっていた。それと同時に、イザールの見事だった黒い毛皮から色が抜けていった。


 喪服を着たような朔の夜が明けた頃には、血だまりの中で泣いていた黒猫は、毛皮の色を真っ白に変えていた。

 涙すら枯れたイザールは、フラフラと魔女の――愛しいプルケリマの血まみれの頬を舐めていた。綺麗にしてやろうと思ったのだ。血化粧の赤は彼女の白い肌に映えるけれど、でも、イザールはそんな彼女を見たくなかったのだ。


 そうやっていたら、彼の聡い耳は近付く小さな足音を感じ取った。


「う……ぁ……」


 聞き覚えのある声だ。

 見れば、そこにはあの時の、病気の母のためにと二人のもとを訪ねてきた子供が立っていた。


「ま、魔女が死んだって……本当だったんだ」


 子供は何の警戒もせずに、イザールとプルケリマの方へと歩いて来ていた。その目にあったのは、ほんの少しの恐怖と、それから、好奇心だった。


 ***


 もしもそれが、後悔と悔悟であれば、その子供も命を全うできただろうに。


 ***


 イザールがハッと気が付いた時には、血だまりが増えていた。

 口内には生臭い鉄錆の匂い。

 それから、視界がずいぶん高くなっていた。


『化け物になったね。人間を食った。そして、魔女の血を飲んだ』


 しゃがれた声は、森の奥の古城に潜むレッドキャップという妖精のものだった。


『お前、もう、逃げられないよ。その命が終わったって、魔女から逃げられないよ』


 イザールは邪悪な妖精を睨み、吐き捨てる。


「彼女に縛られるなら本望だ」


 発声に適した舌は、流暢にイザールの気持ちを外へと出してくれた。

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