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車。
右も車。左も車。当然、前も後ろも車。見渡す限り一面の車だ。車の流れはさっきまでスイスイと動いていたのが嘘のようにぴったりと止まってしまっている。時折まだ後続の車がいないところにもまるで吸い込まれるかのように、あらかじめ予定されていたかのように車が次々と停車していく。俺−山河義人−はそれを見て小学校の時にクラスで行った工場見学を思い出していた。あれはお菓子の工場だったが、あらかじめ決められたプログラムに従って次々と出来上がるその様子と緩やかに停車せざるを得ない状態に突入していく車を見てぼんやりとそんなことを考えていた。
「渋滞か?」寅さんが言った。
「そうみたいですね。」
「なんでや?」
「なんででしょうねえ。」
「なんかけったいなことが今日はよう起きとんな。さっきの男関係あるんちゃうか?」
さっきの男とは高速道路を歩いていた男のことだ。
高速に入ってしばらくすると端を男が歩いていた。「あれなんや。」寅さんが男を指を差す。
「なんでしょうねえ。」
「ちょお義人止まれや。」
「止まるんですかあ。」面倒ごとには顔を突っ込みたくなかった。
「なんやお前冷たいのお。」関西出身という噂の寅さんはこういう時躊躇なく顔を突っ込む。そして決まって「それが人情いうもんやろ。」と言う。
「わかりました。止まりますよ。」ブレーキを踏み車を減速させる。ちょうど男の横についた。
「兄ちゃんどうしたんか?乗ってくか?」
男は一瞬きょとんとして自分のことを指差しながら「僕ですか?」と言った。
「お前以外誰がいるっちゅうねん。」
「ああ、いえ、しかし。」煮え切らないその様子を見て、ああ、と思った。やはり声をかけないほうがいいタイプだったようだ。なんとなく自分と同じ匂いがする。
「どっちやねん。とりあえずそんなとこいたら危ないで。乗りい?」
「いえ自分は…大丈夫です。」
「なにが大丈夫なん?」
「いえ、それより僕と話さないほうがいいですよ。」
「どうゆうことや。」
「いえ、僕は狙われるんです。これから。」
「狙われるって誰に。」
「悪の組織とかです。おそらく。」
「やっぱり大丈夫やないやん。頭。」
「そうだ名刺あげときますね。」
「なんでこの流れでそうなんねん。」
「僕が有名になってからじゃあ遅いでしょ?」そう言って彼は名刺を差し出した。そこには千田晶と書かれていた。かっこいい名前だ、と思った。
「いや、いらんゆうとるねん。」名刺を投げ捨てる寅さん。それを拾い上げ再び差し出す千田氏。ものすごい精神力だ。
そんな生産性の無い問答を5、6回続けた後男は観念して受け取った寅さんを尻目に「それでは。アディオス!」と言い薄ら笑いを浮かべて去って行った。
「あれもなんだったんやろなあ。」
「なんだったんでしょうねえ。」俺は意味もなくバックミラーの位置をずらした。なんとなく気まずい空気が流れたような気がしたのだ。
「いやーでもあれですよね。春ですから。変な奴も増えますよ。」寅さんが大きなあくびをした。
「しばらく止まってるんやったら俺は寝てるわ。」
「どうぞ。」俺がそう言う前すでに寅さんは後部座席でごろんと寝っ転がっていた。
渋滞はどこから始まったのかわからないほどで一向に動く気配もない。日が落ち始め横からの日射が少し厳しめになってきていた。沈みかけた茜色の夕焼けをぼうっと眺めながらこう思った。帰宅は何時になるのだろう。
「義人。お前どんな時でも家に帰ること考えてるだろ。」大学の同期のS山に昔言われたことだ。その日はたしかサークルの新歓の飲み会かなんかの帰りで二人で〆のラーメン屋に寄った所だった。2代目の中年の店主がやっている古ぼけた店で飲み会が終わるとここに来るのが二人の間のお決まりになっていた。
「お前は講義受けてる時も、コンパの時も、BBQの時もどっか遊びに行ってても、楽しい時もつまんない時にも家に帰ること考えてる感じがする。」
「え、どうだろ。そうなんかな。」
「そうだよ。きっと。だからほら今も無意識に出口に近い方に座ってる。それにいつも時計と時間を気にしてる。いま何時かな。何分立ったのかな、後何分で終わるかなって。いわば究極のインドア体質なんだよな多分。」
「ずいぶんな評価だな。」
「勘違いするなよ。褒めてんだぜ。半分くらい。誰だって家に帰らなきゃいけないだろ。紆余曲折あっても、最終的には。カウボーイだろうが羊飼いだろうが最後には帰る家がある。故郷だとか、家族だとかそれは必ずしも物質的な家じゃ無いけれども。形而上の、精神的な意味での帰るべき家さ。故郷っつてもいいかもな。だけど大学生のほとんどはそれを忘れる。いつでも帰れる場所としての家を忘れて迷子になっちまうんだ。それを忘れて自分探しとか言ってどっか旅に出たり、ボランティアで貧しい国に行ったり、言わば迷走する。迷子になる。人生の荒野の中の迷えるこひつじたちの一丁上がりだ。そんな中でお前は家を忘れない。雹が降ろうが槍が降ろうが是が非でも帰る。義人お前はそれが自然体でできてるんだぜ。」
そう言ってあいつはあの日も終電を逃し我が家に泊まっていったのだ。