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「だからな、わしは言ってやったんだよ。お前は隠れキリシタンかぁ〜ってな。そしたら顔真っ赤にして怒って怒ってのお。」乾いた笑いが狭い居酒屋の中に響いた。俺と寅さんはガード下にある昔ながらの居酒屋に来ていた。仕事終わりにどうしてもと頼まれ連れてこられたのであった。今日の様子から察するにキャバクラ通いが奥さんにバレて帰るのが怖いのだろう。半ば仕方なくついてきた店ではあったが料理もレモンサワーもなかなか美味しい。串焼きの秘伝のたれは平成19年の創業以来ほとんど変えていない歴史の味と壁に銘打ってあった。
あの事件から一月が立っていた。あの後現場に駆けつけた警察や黒スーツにナカガワが指示を出し俺は車に乗せられて帰路についた。ナカガワを見たのはそれが最後だった。運転手の黒スーツに質問をしようとしたが失礼に当たらないようにとかあれこれ文章を考えていたら家についていた。「口外はしないように。」と念を押され車は去って行った。家につくと疲れていたのかそのまま寝てしまった。翌日何かしら連絡があるかもとそわそわして1日を過ごしたがこれきりだった。月極老人や博士やゴリラがどうなったかもわからないしナカガワとも連絡が取れない。と言うより連絡をしようにもどこにすればいいのかわからない。
事件のことはニュースにもなっていなかった。一時期銀のうんこタワーが壊れる動画がネット上に上がったが怪獣映画のプロモーションだという情報が流布し収束した。今やこの事件について一番真実に近いことが書いてあるのは陰謀論やオカルトの記事をまとめたサイトの「ツイッターに謎のトレンド”貧乳”は宇宙人からのメッセージ?」という記事1つのみだ。「貧乳」の爪痕については翌日に知ったことだ。唐突にS山から連絡が届き各地で貧乳という言葉を受信した人がいたということを知った。ニュースキャスターやロックバンドのMCなどが貧乳と口走ったようでSNSなどで話題になりその他にも多くの貧乳という言葉を口走った人が発見された。どういう経緯かわからないがプロポーズが成功したという与太話まであるくらいだ。また韓国や中国の一部でもそれが届き今や「HINNYU」が東アジア共通語になり得るという話まであるくらいだ。まあ全てネットの話しなのでどこまでが真実かはわからないが。
そう真実だったのかわからない。実は全て夢だったのではないかと思う時もある。夢を無くした寂しいアラサーサラリーマンの一晩の夢。美女のスパイと巨大な悪に立ち向かう滑稽無糖な物語。全て僕の妄想だったのではないかと。おそらく誰に話したって信じないだろう。だとしたら誰がこれを真実であったということができるであろうか。しかしこれは紛れもない真実なのだ。俺の中では真実だ。誰がなんと言おうとそこだけは変わらないものだ。
「なんや義人。話し聞いとるか。」
「あ、いえ!はい。いや、ここの串焼き美味しいすね!」
「なんややっぱ聞いとらんやんか。まあ確かにうまいけどな。」寅さんはコップに入った焼酎をクイッと飲み干すと言った。
「なんか義人。お前なんかあったんか。」
「へ?どういうことですか?」少しどきっとする。
「いやな。なんかえらいスッキリした顔するようなってん。吹っ切れたちゅうか。自信をもったっちゅうか。なんちゅうか。」なんだ。そんなことか拍子抜けしてしまい思わず笑みを零してしまう。
「いやちょっとね。」
「なんや、なんかあるんやったら話してみい?」
「いやちょっと世界を救ってきまして。」
なにおお前は…と寅さんが言いかけたところに茶髪の若者が間に入ってきた。肩からアコースティックギターを下げている。
「流しいかがっすかあ。」
「珍しいやっちゃな。今時。」
「ありがとうございます!」
「別に褒めてるわけやないんやで。兄ちゃんなんでもやれんのか?」
「はい!演れるやつならなんでもやれます!」
「それはみんなそうやろが!ほれ義人。」寅さんが頭を掻きながら言った。
「へ?俺ですか?」
「わしが選ぶと全部昭和演歌とかになっちまうからこの兄ちゃんじゃわからんやろ。」
「一応『春よ来い』なら弾けますよ。」
「演歌ちゃうやろ!平成の曲やし!」
う〜む。迷いどころだ。何かいい曲はあったか。流しの若者は「なんでもいいですよお。」と言っている。それが一番困るのだが。「何でもええで。」だからそれが一番…。
「何でもいいんですよね。」寅さんに聞く。
「何でもええで。」寅さんは残った日本酒を飲もうと、とっくりをひっくり返して中を覗いている
「本当に何でもいいんですよね。」今度は流しに向かって聞く。
「はい。何でも演ります。」
「ベト7 。」
「ベト…すみません。もう一回。」
「ベト7です。ヴェートーベン交響曲第7番。」若者はぽかんとしている。寅さんが向かいで吹き出しそうになっていた。
「それは…ちょっとごめんなさい。専門外です。」
「知らないか。じゃあ…。」




