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お約束。
例えばパンをくわえた美少女と街角でばったりぶつかったり。
その美少女が転校生として朝礼で紹介されたり。
例えばバナナの皮を踏んで転んで頭をぶつけたり。
君はそんな場面に遭遇した経験がおありだろうか?
僕?僕はある。というか今まさにその状況に巻き込まれていた。
さっきまで僕は高速道路を走っていた。最低速度ギリギリでノロノロと。何か考えて走る時には速い速度より遅い速度で走った方が思考が捗るのだ。他の車もそんなに多くなかったし。世界の行く末かなんかについて考えていると突然目の前に何者かが飛び出て来た。へっ?と思いながらも急ブレーキをかけた。そんなに速度は出ていなかったからよくあるききぃーっていう大きな音ってよりはきぃきぃっていう間抜けな音を立てて緩やかに停止した。見るとそこに何者かが両手を広げて立っていた。こういう時どう声をかけるのが正解なんだろう。「危ないじゃないか!」じゃなんだかチンピラっぽく見えそうだし「大丈夫ですか。」なんてのは女々しいしお門違いだ。なんてことを考えながら相手を見た。そこには美女がいた。モデルのようなスタイル。小さな顔に似合うショートヘアでなんというか中学生が習うような英会話で言えばゴージャスって感じの美女だ。彼女は悠々とこちらに近づきなれた手つきで車の窓ガラスを叩いた。見れば見るほど美しい。街を歩けば100人が100人振り返りそのうち100人が声をかけそうな暴力的なまでの美しさ。ハリウッド映画とかに中華系の美女役として出てきそうな。なんてことを考えているともう一度ガラスをコンコンと叩いた。そちらを見る。何やら少し焦っている様子だ。そんな姿も美しい。きっとどんな表情でもこの人は美しいのだろう。例えるならば…コンコン。ガラスを叩く音。いやさっきまでとは明らかに叩き方が乱暴でコンコンというよりはゴンゴンって感じだ。
「開けなさいよ!」その美女が言った。その言葉で反射的に僕はウインドを下げる。
「あんた!さっきから何回コンコンしてると思うの!開けるでしょ!普通!叩かれたら!」
「え、え〜っと大丈夫ですか。」
「そのセリフそっくりそのまま返すわよ!」そういうと彼女は咳払いをして胸の内側から手帳のようなものを取り出した。
「CIAです。協力をお願いします。この車を拝借いたします。」
「え…なんでですか。」
「理由は今は言えないけれど必ずお返しいたしますので。」そういうと彼女は後ろを振り向いた。何者かを発見したようだ。
「早く!お願い!」必死だ。やはりそんな姿も美しい。こんな時はなんていうべきか「早く乗りなお嬢さん。」なんてキザすぎるだろうか。いやしかしそのくらいのセリフがこの物語にはふさわしい気がする。言おうとしたその時僕は気がつくとものすごい力で車から降ろされていた。
「ありがとう!恩に着るわ!」そう言うと彼女は走り去って行った。
そしてその車を追うように黒塗りのワゴン車も僕の目の前を走って行った。
あまりの出来事と情報量の多さにしばらくポカンとしていたけれども我に返り思った。
お約束。これはまさにお約束なのでは。車で走っていたら刑事が飛び出して来て「犯人逮捕のためにご協力を。」なんて言われて車を奪われる。よくある展開だ。そうこれはお約束だ。車を奪われた運転手は不可抗力的に隠された大きな陰謀に巻き込まれてしまう。つまり僕は主人公だ。そうに違いないのだ。多分。
会社用の携帯に電話がかかってきた。みると課長からだった。きっと帰りが遅いから電話をしてきたのだろう。
「どこをほっつき歩いてんだ!千田!」と怒りの剣幕だ。
「課長、すみません。」
「やけに素直じゃねえか。それでどこにいるんだ。」
「ちょっと世界を救いに行ってきます。」
はあ何をふざけたことを…などと課長が言っていたが携帯を切った。僕はもうきっと平安に過ごすことはできない。連絡を取っていたらきっとその人たちに組織の者の手がまわって危険にさらしてしまう。さらば平穏!もうネクタイは不要だ。僕は首からぶらぶらと垂れ下がったそれをを引っこ抜き地面に投げ捨て高速道路の出口へと向かった。出口とはいうが過酷な地獄への入り口でもある出口に。僕の名前は千田晶。この物語はきっと僕の物語だ。
捨てられたネクタイの横をぶろろろろと間抜けな音をあげて一台の車が通り過ぎて行った。法定速度で走るその車。車が走るということは大概の場合運転手がいるということだ。運転手は山河義人。(29 独身)会社員で地元の大学を卒業後すぐに働き始める。彼女いない歴29年。女運がないわけではないのだが二人きりになると意識しすぎて緊張してしまう。趣味は漫画に映画鑑賞。話すより聞くタイプだが語り始めると止まらないオタク気質。しかし自分より語れる人がいると萎縮して譲ってしまう。おまけに知っている事を言われても知らなかったふりをする。酒は嗜む程度。回りは早くどんな状況でもいきなり寝る。新人時代に忘年会でいきなり倒れて寝始めたのはいまでも会社の飲み会のたびに彼を物語るエピソードとして語り継がれている。この男こそがこの物語の主人公である。