18
一目惚れだった。
中学、高校と男子校で男だらけの環境に慣れていたせいか大学や職場でも自然とそういう場に身を置くこととなった。彼女が現れたのは突然だった。新入社員として同じ部署に入ってきた彼女が挨拶をしたときにはもう俺の心は彼女に傾いていた。すらりとした足。ストレートで茶がかった髪。どこかラテン系を彷彿とさせる鼻筋。太すぎず細すぎないウエスト。顔の割に小さな胸。何が決め手だったのかはわからない。全てだったのかもしれない。一目惚れは遺伝子のサインという話もあるしそこはあまり重要ではない。2回目のデートで告白をしたのは他部署のやり手が彼女を狙っているという噂があったからだ。正直敵わないと思った。ルックスも業績も雰囲気も女の子へのアプローチの仕方も。だからせめて先に。先手を打つことしかできなかった。あいつとくっついてしまったら想いを打ち明けることすら憚られてしまうから。当たって砕けろくらいの気持ちだった。考えさせてほしい。それが彼女の答えだった。俺は目の前が真っ黒になったのを覚えている。フラれた。やんわりとフラれた。そう思ったのだ。急いた。ちくしょう。まだ早かったんだ。頭がくらくらしてどんな返事をしたかも覚えていない。恋をするものは地獄に身を置く事となるとはよく言ったものである。そこから三日間俺は何も手につかなかった。何をしていてもぎこちなくそわそわとしてしまう。心の奥深くではフラれたと感じているのに、表面上ではまだ保留にされただけだ。希望はある。という楽観的観測を持っていたのである。思うにパンドラの箱に残った希望というものはそういうものなのであろう。希望こそが人類を苦しめ執着させる恐るべきものだったのだ。ああ。断定しよう。人は希望があるゆえに迷い、嘆き、悩みのまま床に伏すのだ。彼女から連絡が来たとき、しかしそのような思いは全て打ち消された。それと同時に少し悲しさすら覚えた。ああ。俺は本当に彼女のことが好きなのだ。彼女は俺にとって闇を打ち消す光。また灯火だ。それが掻き消されてしまうかもしれない。俺は恐ろしさに震えた。電話先の彼女はそんなことを感じさせない口ぶりだった。普段のような取り止めのない会話。おしゃべり。普段だったらそれで終わりだった。彼女が何も喋らなくなった。俺も黙った。無言だ。二人の間に言葉は無い。ただ聞こえるのはお互いの息遣いだけだ。言葉はない。音という音もない。しかしそこには確かに二人が存在した。俺と彼女のみが存在する二人だけの宇宙。そのとき俺は初めて彼女に出会ったと感じたのだ。しばらくの無言の後彼女が口を開いた。「今から会いに行っていいですか。」
それから1年。二人でたくさんのところに行きたくさんの思い出を共有した。1周年には東京湾が一望できるのが売りのホテルの夜景が見えるレストランを予約した。ドレスコードが必要なフレンチの名店だ。予約したと伝えたときに彼女は驚き「私テーブルマナーとかわかんないよ。」とはにかんだ。「僕もだ。」と答えた。
「どれも美味しくてびっくりしちゃう。」口周りを拭きながら彼女が言った。
「フランス料理なんて私初めて食べたわ。とっても素敵。」「僕もだ。」
「もうお腹いっぱいで幸せだなあ。」
「まだ最後のメニューがきてないよ。」
「えーもう食べられないよ。」
「フランス料理は最後はデザートで締めるって決まっているんだ。」
「甘いデザートなら別腹ね。」
デザートが運ばれてくる。ウェイターが目配せをした。
「こちら二種のベリーのズコットでございます。」
「うわあ。素敵。ケーキかしら?」
「ズコットさ。イタリアの富豪メディチ家のカトリーヌドメディシス がフランスに嫁いだ際に伝えたと言われてるフランス料理の伝統的なデザートだよ。」予約の電話をした時に聞いた受け売りだ。
「すごい。よくそんなこと知ってるねえ。」
「まあね。なんならそのチョコレートのプレートに書いてある文字も読めるよ。」
「え、うそお。この文字?これ英語?フランス語?しかも筆記体だよ?」
こほんと小さく咳払いをしてここにくるまでに何度も練習したフレーズを彼女に向かって一直線に放った。
「フェドゥモワロムル…プリスウールー デュモンド。」周りが静まり返る。ウェイターが周りの席の客にあらかじめ言っておいてくれたのだろう。
「ふぇどぅ?なんて?どういう意味?」
「私を世界で一番幸せな男にしてくださいって意味だ。」
「へえ…へ?」
「僕と結婚してください。」その時。時が止まった。クロノスもカイロスも。二人が囲む食卓の宇宙の時だけが静止していた。そこには二人以外誰もいないような気がした。お皿の上の料理もワインもテーブルも椅子すら何もない場所でただ二人だけが存在しているかのようだった。
「なんで…。」彼女の目からキラリと光るものが飛び出した。「なんで私なの。」泣いている。予想外のリアクションに俺はうろたえてしまいそうになる。
「なんか夢見たい。ねえ。なんで私なの?」
「君だからだよ。俺には君しかいないんだ。」
「根拠になってないよ。もっと具体的に言って。」涙を零しながらも彼女は微笑んだ。
「君のことが好きだ。君の朗らかな表情が好きだ。君のご飯を美味しそうに食べる時の顔が好きだ。君の台所に立つ姿が好きだ。君と観る映画が好きだ。君が好きな漫画とか小説とかの話をしている時の顔が好きだ。君のさりげない優しさが好きだ。君の偏見を持たないところが好きだ。それから…。」
「もういいよ。」
「君とごろごろする休日が好きだ。」
「恥ずかしいからもういいって!」
「いや、最後まで言わせてくれ。」
「ありがとう!でも大丈夫だから…もう!」
「君の全部が好きだ。君のまっすぐな髪も黒い瞳も厚めの口も白い足も長い指もそれから君の貧乳も!」もう一度時が止まった。今度は別の意味で。
ウェイターが口を開けて愕然としている。静かに動向を見守っていた他の客たちも同様だ。そして何より俺が愕然としていた。貧乳?俺はそんなこと言うつもりはなかった。なんだかいきなり頭の中にその言葉が浮かんできてその単語が口をついて出たのだ。まるで誰かが横でその言葉を口にしたかのようだった。
「貧乳…?」彼女が言った。完全に涙は止まりでキョトンとしている。まずい。彼女は確かに胸が小さめでそのことを気にしている衒いがあった。俺は確かに彼女のそう言ったところも好きだったが普段から口にすることは避けていたのだ。なんでだ。ちくしょう。なんで今あんな言葉が浮かんでなおかつ口から出てしまったのか。冷や汗が垂れる。ここまでうまくやってきていたのに。なんとか弁解の言葉を考えるがそっちはさっぱり浮かんでこない。
「今貧乳って…?」有頂天だったさっきまでとは一転。気分は死刑囚だった。さっきまで聞き入っていた店内のBGMは耳を素通りし頭の片隅にはドナドナが流れていた。悲しそうな目をして売られていく子牛。処刑を待つだけの身。俺は判決文を言い渡されるまで身動き一つできない。
「私も…。」地獄の閻魔か最後の審判のキリストか。今や裁判官と化した彼女が口を開いた。
「貧乳って。私も今なぜかその言葉が浮かんだの!」へ?
「なんだかわかんないけどいきなりその言葉。あなたが言う前によ。なぜか。その言葉が。でも普段とは違った。ほら、私あんまり胸が大きくないでしょ。ちょっとそれコンプレックスだったの。でもなぜかさっきのは嫌な感じがしなかった。なんか普段とは違って暖かい感じがしたの。これって貴方だからなのかなって、これって愛なのかなって。そう感じたの。」彼女が立ち上がり小さく咳払いをしてから右手をこちらに伸ばして言った。
「私からも。フランス語はわからないけど。私を世界で一番幸せな女にしてください。」にっこりと彼女が笑った。俺は跪いて左手で彼女の手をとった。どこからか拍手が上がった。それが波紋のように広がって店内をそして俺と彼女を瞬く間に包んだ。