17
「来るなあああ!」エリックが叫んでいる。
「うわわわわあわ」俺はそのままの勢いに任せた。というより身動きが取れなかった。
鈍い音が上がった。エリックと激突したのだ。慣性の法則による等速直線運動に身を任せた俺の体は彼に激突することでやっと止まルことができた。ポーズだけは彼の顔面にライダーキックを決めたような形になっていた。偶然だった。落ちたところにバナナの皮が大量位落ちていたのも。それに乗っかって滑ってこれたのも。滑った方向にDr.エリックがいたことも。全てが偶然によるものだった。俺は立ち上がると息と動悸を整えながらナカガワに駆け寄った。
「あの、ナカガワさん。」軽く頬を叩く。
「んん…?あれ?私…。」
「頭を打ったんです。転んで。」
「うーん…状況は!?」
「もう大丈夫です。全部終わりました。」
「へ?」ナカガワが周りを見渡す。どうやら信じてもらえていないようだ。
「本当だ。」キョトンとしたままだ。
「これを一人で?」
「いや…ええまあ、はい。」
「すごいじゃない!どうやって!?」
「いやまあなんと言えばいいか…偶然です。」
「偶然なんかじゃあないわよ。現にこうなってるんだから。必然よ。運命よ。」彼女はそう言って月極老人のほうを見た。老人は全てが信じられないと言った風に呆然と座り込んでいる。
「さて…Mr.月極。あなたの敗北です。あなたを連行しますがその前に。」彼女は制御盤を親指で指し、言った。
「これの止め方を教えてもらいましょうか。」
老人は俯き、顔を上げた。その目にはわずかに光が戻っていた。濁って揺れているがまぎれもなく光だ。
「もう遅い。」不敵にも口元に笑みを浮かべている。
「どういうこと?」
「わしがこういった不測の事態を思いつかないかと思ったのか。誰かの邪魔が入ったり、部下の裏切りであったり、わしの身にもしものことがあったり。用心深い私がそんなことを想定しなかったとでも思っているのか。」老人の目が変わった。覚悟を決めたかのようだ。
「不測の事態に備えて装置が未完成でもあるスイッチ一つで自動で起動するようにしておいた。残念ながらパワーは半減だが、それでも十分じゃろう。」
「なんですって!」
「でも見たところ何も動いていないようですけど」制御盤は依然としてしんとして止まっている。
「ふふふ。」老人の唇から不気味な笑いが漏れ出す。
「わしはもともと直接スイッチを入れ声を吹き込み装置を操る予定だった。しかしそれが叶わなかった場合、自動操縦に切り替えるためにある行動をプログラミングした。いわばスイッチだ。」老人の目に宿った光が一層強くなる。燃えていると形容した方がいいかもしれない。
「そのスイッチを渡してください。」ナカガワの声が強まる。少し焦っているようにも見える。
「不可能だ。」老人の表情は揺るがない。
「そのスイッチはわしの体のある部分と連動している。もしものことがあった時のためだ。外付けのスイッチは奪われる可能性があるからのう。」
「何ですって!一体どこに!」
「わしの膀胱じゃ。」
「ぼうこ…へ?」ナカガワが固まる。
「そのスイッチとはわしの失禁だ。」
あっけにとられているナカガワを尻目にじょぼじょぼと音がし老人の股間に染みが浮き上がった。染みは瞬く間に二次元的世界を打ち破り立体となり視覚で捉えられる湖の形を成した。すると背にしていた制御盤がいきなり目を覚ましたかのように起動音を発し始めた。
「コード045受信。装置が自動操縦モードに入ります。起動まであと1分。」制御盤からアナウンスがした。お漏らし老人の高笑いが響く。
「ふははははは。装置を!ビジネスパートナーを!人間としての尊厳を!何を失おうと、わしは諦めん!最後に笑うのはわしだ!」終わりだ。今度こそ。俺は何もできない。
「義人くん!」
「はいっ?」ナカガワのその声に震えたつ。
「時間がないわ!私はなんとかあそこのコンピュータで対抗プログラムを探ってみる!あなたはここでこの制御盤見張ってて!変化があったら教えて!」
「え、あ、はい!わかりました!」俺がそう言う前に既に彼女は動き始めていた。
「ふはははは無駄だ。無駄。このプログラムを組んだのは誰だと思っているのだ!天才マッドサイエンティストDr.ペッパーと謳われたエリック博士だ。そんな簡単に敗れるものではない!」
「起動まで50秒。」
「ふはははは世界が変わるまであと50秒。」
「ちょっとうるさい!気が散る!黙れ!」
老人は笑い続けている。完全に腰が抜けているようで動くそぶりは見えない。俺は制御盤を見てみる。計器やスイッチが並んでいるがどれひとつとしてわからない。なんとなく用途がわかるのはマイクとドクロの描いてある厳重で赤く一際大きなボタンだ。これだけは押してはいけないだろう。それ以外をいじってみる。カチカチと動くが手応えはない。
「起動まで40秒。」
「ナカガワさん。」
「何!?」
「あと40秒です。」
「聞こえてるから!その報告いらない!」
ナカガワはものすごい速さでキーボードを叩いている。その表情には焦りが見える。あと40秒ほどで全てが変わるかどうかの瀬戸際なのだから当然といえば当然か。何かをしなくてはと言う思いに駆り立てられ俺も多くのスイッチをいじってみる。
「起動まであと30秒。」
「見つけた!」ナカガワが言った。
「いい?義人くん。時間がないからそのまま聞いて。今そこに入っている音声データを見つけたの。おそらくこの国を彼の理想郷に帰るための演説のデータよ。これを完全に削除するのは間に合わない!だから上書きする!そこにマイクがあるでしょ?私が合図したら何か大声で喋って!」
「は、はい!何かって…何を喋ればいいですかね?」
「そんなのなんだっていいわよ!取り止めのないこと!世界平和とか!」
「わかりました。」
「ふふふ。」月極が薄ら笑いを浮かべている。
「果たしてそんなにうまくいくかな。」
「もう少し…できた!お願い義人くん!」
「はい。えっと世界平和ー!!」
俺は叫んだ。力を込めて。
「あと20秒。」
「そんな。書き換え…無効!?なんで!?」
「ふははははははは。」老人が笑った。
「この装置はそんなに万能なものではない。この装置は簡単にいえば人が持っているイメージをそのまま音に変換して聞いた者の脳にそのイメージの種を植えるのだ。つまり発信者がきちんとしたイメージを持ちそれを言語化しなければ成立しない。わしとて単語のみでわしのもつイメージの共有などできぬ。聞くがお前は世界平和に対してどんなヴィジョンを持っている?まして世界平和などと言う抽象的な言葉で人に伝えられると思ったか!」お漏らし老人は勝ち誇ったかのように高らかに笑い声を上げた。
「あと10秒。9、8…」
「お前のような若造に人の心を揺さぶれる思いがあるか!詰まる所これは想いの差だ!お前の想いより私の想いの方が強い。ただそれだけ。シンプルな答えだ。お前はわしに最初から負けていたのだ!」お漏らしは再び勝ち誇った笑いを上げた。
「そんな…。」
「想いの差…。」その言葉に引っかかりを感じた。あそこで勝ち誇っているお漏らし老人。彼は確かに強い想いを持っているのだろう。その思いが行動となり形となって結果として彼は彼の湖を創ったのだ。つまりそれを超える想いを俺が持っていれば、彼の尿を漏らしてでも成し遂げようという想いをも超えることができれば。おそらく今俺が思い浮かべているものは多くの人が同じ、ないしは似かよったイメージを持っているものだろう。その点はおそらくクリアできる。あとは俺の思いがあそこの老人の野望を超えられているかどうかだ。一か八かだ。諸刃の剣だ。結果はわからない。しかしやらなければそれすらわからない。俺は覚悟を決めてマイクの前に再びたった。それを見た老人が刹那、笑うのを止めた。ナカガワが顔を上げる。俺は息を吸い込む。あと3秒。今しかない。力の限り叫べ!
「貧乳ー!!」