12
一度だけS山に勝った記憶がある。いや勝ったというほどのものでもないが俺が勝ったと思っているという出来事が。
「絶対に巨乳だ。」
「いいや貧乳だ。」
その言い争いは至極単純。男であるならば避けては通れない道理の道。つまり巨乳派か貧乳派かという一つのテーゼだ。
「わかっている。大事なのは大きさではない。」S山が言った。
「しかしだ。世界を隈なく見てみろ。圧倒的に巨乳派だ。大衆が望む物こそが優れていると相場は決まっている。需要曲線と供給曲線を考えてみろ。求める人が増えれば増えるほど必要に迫られてその分そのコンテンツは多く溢れていく。それが真実だ。つまり存在そのもによってすでに肯定され、それ自体が自ら答えを出していると言えるのだ。つまり巨乳最高。QED。」
「それは違う。」俺は反撃をする。
「その理論は否定しないよ。」理詰めの様な話のすり替え。S山お得意の手法だ。よくわからない理論で相手を煙に巻いて言いたいことを言えない様にする。反論をしてもうまく話をすり替えて、さも反論を受け切ったかの様に振る舞って勝ち誇る。それに勝つためには…。
「大衆的に巨乳が圧倒的なのは否めないだろう。」それを逆手にとればいい。
「けれどもそれを大衆心理ってだけで片付けてしまうのはいささか早計だと言わざるを得ない。」つまるところこの勝負は相手を引かせたほうが勝ちだ。
「早計も何も決めるのは一人一人だろ。それが全てだ。その結果が社会に反映されて形而下の世界を形作ってるんだろ。つまり…。」
「例えばモナリザ。ヴェートーベン交響曲第7番。それにコピ・ルアク。」俺はS山の表情を見ながら話を遮り一つ一つの単語を丁寧に発した。当の彼は不意を突かれた表情だが未だその顔の中に自信を内包している。自分の優位は揺るがないという傲慢なる自信がどこからか滲み出ている。焦るな、まだ焦るな。俺は気づかれないように素早く深く息を飲み込む。踏み外さないように丁寧にいけ。焦った先に勝利は無い。
「どれも美術、美食と各分野で美しいとされているものだ。誰だって知ってる。誰だって美しいと言うことだろう。突き詰めようとすれば科学的だったり黄金比とか様々な理由で裏打ちすることはできるのだろう。だけれどもこの地球上で一体何人の人間がそれの真の価値を推し量る事ができるだろうか。俺たちは、ほとんどの一般的感覚の持ち主は誰かが言った美しさというものをそのまま享受せざるを得ない。それは言わば廉価の美しさだ。しかしそれも受け取る側に受け取るだけの知性が備わっているかどうかによって決まってしまう。相撲を見てそこに力士の戦う漢達の熱きドラマをみるかただ裸のデブが抱き合ってるってみるかは人それぞれの教養によるものだろう。話を戻そう。なるほど、大衆に認められるというのは重要なファクターだ。しかし人というものは大きいものに興味を引かれる傾向にある。高い山…日本で言えば富士山。世界でいえばエベレストを知っていても一番低い山のことなんてほとんど誰も知らないし興味も引かれないだろう。つまりそういうことだ。つまり僕らは本能的に小さなものより大きなものが好きなのだ。巨乳が大衆に受け入れられるというのはつまり自明の理なんだ。そして最初に言った通り大衆受けがいいイコール美しさとは限らない。」S山がぽかんと口を開けている。今だ!今しかない!畳み掛けろ!
「つまりそこに哲学を挟み込まなければ盲目的な巨乳崇拝は教養なき原始人の理論に過ぎない。理性で物事を見るとき、巨乳と貧乳を同じ平野に並ばせたとき、より優れた美を持っているのはどちらかという話なんだ。そのとき語らなければいけないのは魅力だ。貧乳の魅力というのは俺が言語化して語ることができるのは一部にしかすぎないけれどもその滑らかなフォルムに圧倒的な機能性。詰め込みと恥じらいの美学だ。恥じらいに関しては今さら俺が語る必要も無いだろう。それほどに明白な一つの事象であり存在だ。ガラパゴスの発想だという指摘を受けるのを恐れずに言えば理性的な目でみたとき、形而上学的な意味で貧乳こそが至高なんだよ。」
「お、おう…そうか。」そう言ってS山は黙ってしまった。その時俺は初めてS山に勝ったと思った。実際に勝ったという訳ではない、もちろん自分でも何を言っているのかもよくわからない。屁理屈の詰め合わせだ。破綻した理論だ。しかしそこにはただ勝利があった。弱者の勝利の実感が。勝てない相手に策と企てを、つまり弱さを持って強者に報いる弱肉強食の掟を打ち破る弱者の勝利が。
「何考えてるの?もうすぐ着くわよ。」
「え、あ。」彼女の一言で妄想の世界から現実へと一気に引き戻され動転した。階数を見るとすでに20まで達している。
「ちょっと勝利のイメージを。」
「勝利のイメージ?」
「勝ったときのことを繰り返し思い出してるんです。そのときの感覚を思い出して少しでも勝率を上げたいと思って。」「なるほど。イメージトレーニングね。」彼女は納得した様子であった。少しお互いに沈黙した後、彼女が言った。
「BGMはやっぱりセプテンバー?」
「いえ、ベト7です。」
「ベト7?」
「ヴェートーベン交響曲第7番。」
彼女は一瞬堪えてから「やっぱり君面白いや。」とお腹を抱えてけらけらと笑い始めた。
「何でそこでヴェートーヴェンに行き着くのかすっごく気になるけど、もうそうも言ってられないわね。」彼女が傍に身を寄せる。俺も反対側に身を寄せた。
「着いたわ。」
25階でこざいます。エレベータ内に無機質な音声が響き扉が開いた。