祭は全裸に限る
複数の漢どもによる乱闘。それは本来全裸で行われるべきものである。裸の雄同士が互いの尻と尻、互いのいちもつといちもつを容赦なくぶつけ合い、汗やら唾液やら我慢できない我慢汁やらに塗れて脳から得体のしれない汁を垂れ流し、それがさらに漢どもを加速する。それが祭。
が、戦後教育に歪められたアカの教師と、米国の陰謀により我が国の伝統を全否定した日本国憲法は、それを「猥褻」と断罪した。
しかしこの断罪は矛盾にまみれている。そう、我らの全裸を猥褻と断罪する者は、自らが我らの姿に情欲の炎を燃やしていると白状しているも同然だからである。
考えてみてほしい。幼児向けのトイレトレーニングの絵本に出てくる主人公のちんこや尻を「猥褻だ」と断罪する者がいるだろうか? 便器にちょこんと鎮座するうんことお尻を拭いた紙を指して「スカトロだ」と非難する者がいるであろうか。
そう、ガチホモを猥褻だと否定する者たち、彼らこそが我らの崇高さに魂をからめとられた者たちであり、彼らは我らを「猥褻」と思い込むことによりかろうじて自我を保っているだけの小物でしかないのだ。
そうした彼らが抱える内なる矛盾を深い懐で受け止めた我らは、妥協点として六尺褌を用意した。が、これが後の最重要アイテムに成長するであろうとは、当時のガチホモどもは我も含め、誰も予想していなかったのである。