第七章 終わりの土曜日
土曜日は最高だ。
なぜなら、当日が休みだし、次の日も休みだからだ。一週間で最も素晴らしい曜日と言えよう。しかしながら……本日の私は、今週一週間の中で、最も憂鬱そうな顔をしていた。
「どうしてこうなった…………」
後悔しても、もう遅い。
殺風景な私の部屋の隅。物置を兼ねたラック機能も搭載している姿見には、ちょっと、一言では表現できないくらいアレな人が映っていた。
休日に……まして、私服を着る時にスカートを選択することなんて絶対にない私が、なぜか今日はスカート(清楚な白のワンピース)を着ている。しかも、女の子っぽいやつ。
加えて、ニーソックスも完備だ。色は黒。そのせいで、ただでさえジーンズ愛好家で日焼けしない上、引き篭もりがちなせいで病的に白い私の太ももが、コントラストで大変なことになっていた。『スカートの丈:絶対領域:ニーソックスの膝上部分』の比率が『4:1:2.5』になるように調整されているため、絶対領域も完璧だ。
んで、上はそのワンピースに重ねて、ふわふわしたニットカーディガン。髪形も女の子っぽい『ゆるふわ』ヘアー。サイドの髪は編み込みにしてあり……まぁつまり、近年の流行を捉えた完全なるオシャレヘアースタイルになっている。
化粧も一応はしている。化粧水・乳液・美容液といった基礎的なものと、ファンデーションやマスカラを少々。……確かに私は化粧品を所持していたが、実際に使ったことはほとんどない。ちゃんとできているのか激しく不安だ。
ともあれ、それほど外見をキメている女の子である。そこまで聞いたら、さぞかし可愛いオシャレガールなのだろうと思うだろうが……残念。それほどのオシャレ要素を装備しても、顔がこれじゃあ、宝の持ち腐れだ。むしろ、華やかな服と髪形に囲まれている分、普段通りの鬱顔が余計ひどいものになって見えた。
「夕希め……。確かにヘルプを求めたけど、ここまで気合入れなくてもいいのに……」
私は昨日、死神の二つ目の条件を呑んだ。
つまり、昨日の明日である今日に、死神とデートする約束をしてしまったのである。
あんな変態とデートなんて鳥肌ものだったが……私自身の命が懸かっているのだから、仕方ない。向こうに迷惑をかけてしまう上、無理を言っているのだから、代償を払うのも一応は納得できる。
まぁ、「片目を捧げろ」とか「性的な意味で奉仕しろ」とか言われなかっただけマシとも言えよう。そういう意味じゃ、デートなんて安いもんだ。デートって、アレだろ? 男が好きな女に必死に金を貢いで、いい気分にさせる奉仕活動のことだろ?
そんなことを思っていたら、私のそんな考えを見透かしたように――(ていうか、絶対聞いてた)――死神が言ったのだ。
「言っとくけど、淡居ちゃん。明日のデート、気合入れてよね? もし手を抜くようなことをしたら、この話はなかったことにするからっ♪」
笑顔の脅迫。さすが死神。
事ここに至って、ようやく私も事の重大さを把握した。つまり、明日奉仕するのは男ではなく、女である私だということだ。
すぐさま学校の図書室のパソコンで『デート プラン 助けて』と検索したのだが、有益な情報は見つからない。いや、検索には多数記事がヒットしたのだが、何をどうすればいいのか、さっぱりわからない。無理だ。どーせ処女だ。デートなんてしたことない。
そんなわけで、その辺の知識・経験が豊富であろう夕希にヘルプを求めたわけである。
最近知り合った女友達がいきなり「……助けて。デートって何?」と詰め寄ってくるのは、中々にホラーな映像だったと思う。しかも、その相手について訊かれ、「変態。とりあえず、変態。あと、変人。他には、嘘つきで捻くれ者でストーカーで――」などと並べた時には、大丈夫なのかと心配になっても仕方ない。
そんな意味不明で端から見ても危ないと一目でわかる私に、必要以上のことは一切詮索せずに協力してくれた夕希。……天使だ。もう、外見がどうとかの範疇を超えている。夕希はその性格も含めて、異次元からやって来た本物の天使であるに違いない。
初めて行ったオシャレな洋服屋で「……ねぇ、『しまむら』でよくない?」とか「いや、私はスカート苦手で……」とか「だって、服なんて『しまむら』でしか買わねーし!」とか喚き散らす私に親身になって付き合ってくれた。……もう、夕希には一生頭が上がらない気がする。
「…………美空は、素材がいいから大丈夫。磨けば光る」
「いやあの、でも、私的にはジーンズにTシャツが嬉しいと言うか……」
「……確かに美空は、細身のジーンズやジャケットなんかも似合いそう。でも、ダメ。デートにジーンズは、基本的にダメ。特に、初めてのデートでスカートを穿いて行かなかったら、男の子はガッカリする」
「わたしがそうだったから……」と暗い顔でしょんぼりする夕希を見ると、黙って従うしかない私であった。
……なんか、夕希も大変そうだ。元からスペックの高い女の子だと思っていたけど、どうやら違ったらしい。見えないところで相当努力しているようだ。ファッションだけでなく、その後に教えてもらった美容院(髪形に関するあれこれ)や化粧のアドバイスも、もの凄い知識量を誇っていたし。
……しかし。しかしである。
そんな超心強い相方に従い、あれよこれよと服を買い、当日早朝に美容院の予約も入れて、最終的に自宅で化粧までしてしまった私は、すっかり本来のペースを崩してしまっている。
きっと、あれだ。戦場で慣れない武器を敵から奪って使った挙句、自爆するような感じだ。その証拠に、体が痛い。主に胸の辺りが。
「うぅ……スースーする……」
確かに、夕希がこんな格好をすれば可愛いだろう。私も夕希の絶対領域には頬擦りしたいくらいである。しかし、いかんせん、私がその格好をするのはナシだった。服装はビッチなのに、顔と中身は喪女。アンバランスすぎる。死にたい。
だが、着替えようにも、服を脱ぐとせっかく美容院に行った髪形が崩れてしまう。
早朝に美容院でセットしてもらった髪形。普段、水と手櫛しか使わない私からすれば、「な、なんじゃこりゃーっ!?」と叫びたくなるような謎技術によってセットされている。もう軽く魔法の領域だ。これを崩した後、私一人の力で作り直す自信はない。つーか、不可能。ゲロ吐きそう。
そんなこんなで、姿見の前でもう、かなり長い間クルクル回っているのだが……いい加減、時間が迫っていた。何を考えているのかあの死神、駅前での待ち合わせを提案しやがったのだ。いつもドア越しに待機してるんだから、それでいーじゃないかと言うと「いや、デートじゃん?」と頑なに拒まれてしまった。
「うぐぐ……し、仕方ないんだ……。これも私が生きるため……。決めたじゃないか、カッコ悪くても生きるんだって……。頑張れ、私。ファイトだ、私。きっと野生のヒョウも、狩りで汚れた自分の身体を気にしたりしないはず……」
鏡の中で憂鬱そうに青い顔をする私に何度も言い聞かせた後、ドアを開いた。五分くらい遅刻しそうだ。
「……いい、美空? デートでは、早く来て長時間待ってる女の子もポイント高いけど、遅れてくる子は遅れてくる子でポイント高いの。もし遅れたら、「オシャレに時間がかかって……」って言えば、大丈夫」
脳内に夕希の声が響く。明日から、恋愛マスター様って呼ぼうかな。
ちょっと急ぎ足で歩いたものの、やっぱり待ち合わせ場所の駅前に着く頃には、約束の時間をオーバーしてしまった。
それもこれも、この歩きづらい靴のせい。本当なら普段履きのぺったんこスニーカーで行こうと思ったのに、これまた夕希から猛反対されてヒールの高い女の子らしい靴を履いている。
いや、冷静に考えて、この靴おかしいって。なんで踵がこんなバランス悪いの? こんな靴で歩いてる女が信じられん。
ともあれ、無事に待ち合わせ場所に着けたのだから、僥倖だ。一安心。ふう。さて、死神は……っと。いた。噴水の前でいつも通り、ヘラヘラしている。
「――――ぁ、」
私は手と声を上げて歩み寄ろうとした。そこで気付く。
……すっかり頭から抜け落ちていたけど、あいつって、私以外に見えないんだよな?
ってことは、ここで私が声を上げたりした日には、私、ちょっと頭がおかしい人に見えないか? つーか、今日一日デートスポットを回るわけだけど、それって端から見たら、ぼっちでイタイ喪女の私が、エアデートしてる的な――――
「あ、淡居ちゃーん! 僕はここだよー!」
見ればわかる。つーか、目合ってるだろ。
ええいっ。もう知らん! どうとでもなれ!
私は小走りに死神に近寄ると、できるだけ声を抑えて話しかけた。
「……すいません。遅れました」
「えー? 全然いいよー。超可愛いじゃん、淡居ちゃん! 洋服は頑張ってくれると思ってたけど、まさか化粧して髪形まで整えてくれるなんて! びっくりした。完全に惚れ直したよ! ……ん? ひょっとして、香水もつけてくれてるのかな? なんか、いい匂いする」
「……いぇ、それは整髪料の香りだと……」
私の周りをクルクル回りながら賛辞を送り続ける死神。
私はあまりの羞恥プレイに赤面し、俯いたまま、蚊の鳴くような声で対応した。
「えー? なになに。テレちゃってるの、淡居ちゃん? かーわーいーいー! 普段の、冷めた目をして毒舌を撒き散らしている淡居ちゃんを知ってる僕だからこそ体験できる、極上の萌えシチュだね!」
うっせぇ! 殺すぞ、バーカっ!
「うんうん。そんな普段通りの毒舌も、羞恥に染まる真っ赤な顔で言われるとゾクゾクするよ。ていうか、ムラムラする。さっそくだけど、ホテル行こっか?」
とりあえず、連躯を使って鞄をぶつけておいた。調子に乗りすぎだ。
「いったぁ~っ! ……まぁ、それでこそ淡居ちゃんだ」
デート用の女の子らしい小さな鞄では、大したダメージを与えられない。……ちっ。
虚空に向かって鞄をスイングする私には、周囲から奇異の視線が集中していた。
「……で、どうしますか? 一応ネットで色々と検索はしてきましたけど……」
鞄からメモ帳を取り出す。そのメモ帳にはシャーペンで書かれた文字がビッシリと並んでいた。もはや、ページ全体が真っ黒になる勢いだ。
「へぇー。すごい。ちゃんと用意してきてくれたんだね」
「……私の命が懸かっているのですから、当然です」
「うーん。でも、プランに関しては僕に任せてくれないかな? もっと言うと、僕のしたいことをさせてくれると嬉しい」
たじっ……と、一歩身を引く私。
「……いや、あのね? 冗談で言うことはあっても、さすがにホテル行きを無理強いしたりはしないよ? そろそろ長い付き合いなんだし、そこら辺の最低限の信用くらいはしてほしいんだけど……」
冗談が冗談に聞こえないのだから仕方ない。
ていうか、長い付き合いって言っても、たった一週間だ。そりゃあ、起きている時間のほとんどを一緒に過ごしているわけだから、そういう意味では普通に接する他人よりも、ずっと密度の濃い一週間なのかもしれないけど。
「……わかりました。で、まずはどこへ行くんですか?」
「そうだね。とりあえず、お茶しよっか。デートなら定番でしょ?」
女の子とデートするのがそんなに嬉しいのか、ご機嫌にスキップする死神を追って、駅前近くのカフェを目指した。
そして、カフェに入った。
「えーっと……カプチーノ。あとは……え? あ、はい。コーヒーのブラックで」
「かしこまり……ました……」
店員のお姉さんがイタイものを見るように一瞬だけ営業スマイルを崩す。仕方ない。虚空に向かって話しかけた挙句、一人で二つもドリンクを注文するような変な客が来たら、誰だってそうなる。むしろ、そんな場面に出くわして、なおもスマイルを貫き通す店員の方が信用ならなくて嫌だ。
「僕が先に行って席をとっておくよー」
心中複雑な私とは違い、爽やかな笑顔を残して死神が店の奥へと入って行った。
いや、無理だろ。冷静になれ。お前、私以外の人間には見えねーんだよ。
「お待たせしました」
ドリンクが提供され、会計を済ます。
高い……高すぎる。たったこれだけで千円弱だと? 私の食費一日分以上だ。一体どんだけカロリー詰まってんだ、このコーヒー。
どんなにオシャレをしても、結局私は私だった。今も頭の片隅では、今日のデートにかかった費用を電卓で弾いている。洋服代、美容院代、化粧品代、お茶代。そして交通費に、これからかかる遊びの費用。
デートなんて、金持ちがするもんだ。私みたいに学園から奨学金をもらって、カッツカツの生活を送っている貧乏学生が手を出すようなシロモノじゃあ、ない。
でも、文句は言えないよな……と思う。懸かっているのは私の命だ。命に値段はつけられない。もし今日のデートで全財産を使い果たしても、借金を負うことになっても、命が懸かっているなら、押し黙るしかない。……ふう。ほんと、私の人生は鬼ゲーだ。
そんなことを考えながらドリンクを運ぶ。幸い、店内に客は少ないようだ。店の一番奥にあるソファ席で、飛び跳ねている死神の姿が見えた。
「……お待たせしました」
「わーい。ありがとう、淡居ちゃん。……あちっ」
すぐさまコーヒーに口をつけて慌てる。のん気でいいな、こいつ。
「猫舌なの忘れてたよー。いやー、淡居ちゃんに見蕩れてたら、つい」
「……どうも」
さすがにそろそろ、お世辞トークも慣れてきた。昨日読んだネットのページにも書いてあったしな。『男は、とにかく相手の女の子を褒めろ』、と。
確かに悪い気はしないが、だからって、あからさまなのもどうかと思う。「とりあえず褒めとけー」って、なぁなぁな態度をとるくらいなら、普通にしていてくれた方がいい。
「いやいや、本心だよ。これは本当。今日の淡居ちゃんは超可愛い。マジで。僕が嘘なんてついたことあった?」
むしろ、嘘をつかなかったことなんてあった?
「……いや、うん。まぁ、僕の信用がゼロだってことは、不本意ながらわかったよ……。ただ、今日の淡居ちゃんを可愛いと思ってるのは本心だ。じゃなきゃ、さすがの僕も、こんなに手放しでハイテンションになったりしないさ」
「……それは、どうも」
「ああ、そうだ。あと、はいこれ」
そう言って死神が私に封筒を渡してきた。……なんだろう? キレイな空のイラストが入った封筒。ラブレターにでも使えそうだ。
そんなことを考えながら気楽に中を開くと、中からはラブレター以上に強烈なものが出てきた。札束だ。それも、十や二十じゃきかない。下手したら、百とかあるんじゃ……。
「…………援交?」
「落ち着いてよ、淡居ちゃん。お金を払って君が買えるなら、いくらでも払うけどさ。今日は、そういうのじゃないだろう?」
「……そうは言っても、こんなお金を積まれる理由が思い当たらないのですが」
「いや、普通にデート資金だよ。苦学生の淡居ちゃんにお金を払わせるほど、僕も鬼じゃないさ。ほんとなら、僕がスマートに会計を済ませたいところなんだけど……この通り、僕は淡居ちゃん以外に視認されないからねー」
そう言いながら死神がコーヒーカップを傾けると、隣の席に座っていた中年男性が、あんぐり、と口を開けて唖然としていた。彼からすれば、コーヒーカップが宙に浮かび、中身が虚空に吸い込まれているように見えるのだろう。
「……すいません。私、手品師なんです。ちょっと手品の練習をしているだけなので、お気になさらず」
「あ、ああ。そうなのかい……」
それでも不審そうにこちらを見るが、もう開き直って行く。
こういうのは気にしたら負けだ。ていうか、面倒だ。
「……それにしても、この額はさすがに多すぎます。普通のデートで使う費用は、多くても一日一~二万円だと伺っておりますが」
「そうだね。普通ならね」
ニヤリ、と死神が笑う。
え。なにその笑み、超怖い。私、どうなるの?
「いや、そんなに怯えなくても……。たださ。僕も今日の二十四時で淡居ちゃんとお別れなんだ。大好きな女の子とお別れなんだよ? だったら、ラストデートくらい豪華に行きたいって思うじゃない」
なんだ、そういうことか……。……。……え? そういうことなの?
今まで冗談とか軽口だと思っていたけど、ひょっとしてこいつ、ほんとに私のこと好きなの?
「だって、女子高生とデートする機会なんて、金輪際無い気がするしさぁー」
「…………」
ああ。なるほど。
私じゃなくて、『女子高生』という看板が重要なわけか。
取りとめもない話をしてカフェを後にした。
なんか、時間を浪費した気がする。デートするにしても、もうちょっと有意義に時間を使った方がいいんじゃないだろうか。
「いやいや。デートというのは、好きな人と一緒に時間を過ごし、感情を重ねることが重要なのさ。そこに効率とか損得は入れない方がいいと思うよ?」
そうなのか。よくわからない。
なんてったって、デート自体、初めてなわけだし……。
「えっ! そうなの!? 淡居ちゃん、初デート!? よっしゃぁあああ! 淡居ちゃんの処女、ゲットだぜぇーーー!!」
「…………っ!!」
公衆の面前で『処女』とか大声で叫びまくる死神に、全力で蹴りを入れる。TPOを弁えろっ!
「うぐぐ……っ。だ、大丈夫だよ、淡居ちゃん……。ほら僕、君以外には見えないし、声も聞こえないから……」
確かにそうだが、私には聞こえるんじゃボケェ!
ていうか、今冷静に考えると、初・男子生徒と登校に続き、初デートまでこいつに蹂躙されてしまったわけか……。ああ、死にたい。ひどいよ、神様。いくら私が嫌いだといっても、恋愛事情のあれこれぐらい、もうちょっと私に融通を効かせてくれてもよくないですか? ファッキン、ゴッド!
「よし、淡居ちゃん! 次は水族館に行こう!」
「…………は?」
何を言っているんだ、こいつは。
ここをどこだと思ってる? 広島の片田舎だぞ? 水族館なんて気の利いたもの、あるわけねーだろ、ファッキン。
「いやいや、だからこそ、そんなにデート資金を渡したんじゃない」
「…………」
え。マジで? ここから水族館に行く気?
「ヘイ、タクシー!」
その声は聞こえないはずなのに、なぜかタクシーが私の前で停まる。運転手さんも、なぜ自分がそうしたのか分からずに、目を白黒させていた。おそらく、この死神が謎パワーでも炸裂させたのだろう。
私は仕方なくタクシーに乗り込んだ。ため息をつきつつ、目的地を告げる。
「…………広島駅まで」
「ここからっ!?」
タクシーの運転手さんが素っ頓狂な声を上げた。その驚きはもっともだと思う。
私だって、片道三時間もタクシーに乗りたくない。
当然だが、三時間もかけてタクシーで広島駅まで行くことはしなかった。
よく考えれば、最寄りの新幹線が停まる駅まで行けばいいわけだ。そこからJRや新幹線を使って県外へ出る。それが一般ルートだ。
そんなわけで、私たち(傍目には私一人だけど)は、最寄駅からJRを乗り継いで福山駅へ向かった。
なぜかと言えば、この死神が「関西の方、行ってみたくない?」と言い出したからだ。私は当然、「なんでじゃねんっ!」と、広島弁と関西弁をミックスしてツッコんだのだが、むしろそのツッコミが気に入ったようで、私たちは関西を目指すことになってしまった。
「どうして、こんなことに……」
時刻はそろそろ正午。やっと新幹線に乗ったところだ。
「まあまあ。いいじゃん、新幹線。気持ちいいでしょ? ほら、淡居ちゃんも駅弁食べなよ」
そう言う死神は、すでに二つ目の弁当を開けていた。よく食うな、こいつ。……あ。そういえば、私と出会ってからの一週間、何も食べてなかったのか。それなら、この食欲も納得だ。ちょっと可哀想なことをしてしまったかもしれない。
私も手元の弁当を開ける。一般的な幕の内弁当だ。まだ温かいご飯の上に鮭が乗ってる。確かに美味しそうだけど……これで千円は、ない。どう考えても、ない。言っとくけど、千円出せば、スーパーで黒毛和牛のステーキ肉が買えるからな?
「淡居ちゃんって、金銭感覚がしっかりしてるよねー。あれだ。恋人もそうだけど、お嫁さんにしたいタイプだ」
そいつはどーも。
まぁ、普段じゃ絶対こんなもの買わないが、今日はこいつの奢りだしな。ありがたく頂戴するとしよう。……ん。中々おいしいな。
「喜んでもらえてよかったよー。デートは男が貢いで、好きな女の子の気分を良くする奉仕活動らしいからね?」
「……それ、引っ張り出さなくてよくないですか?」
うぐぐ……やはり思考を読まれるのは辛い。やり辛い。私のポーカーフェイスが全く意味をなさない。
「……ところで、どこに向かっているのですか?」
「え? 京都」
京都…………!?
「なんか最近、京都に新しく水族館できたみたいなんだよ。そこに行ってみたいと思って」
「…………」
いやそりゃ、テレビのCMやネットなんかで見た場所に「行ってみたいなー」と思うことは、私にもある。あるけど……だからって、実際に行くようなことはしない。だって、お金無いし。あったとしても、時間無いし。
「お金ならあるよ? それに、福山駅~京都駅って、実はそんなに遠くないんだ。今は新幹線の『のぞみ』に乗っているから、一時間二十分で着くよ」
「え!? マジで!?」
「う、うん……。素が出るほどびっくりしたの……?」
そ、そうなのかー。全然知らなかった。親の転勤で日本中をフラフラしていたけど、基本的にその場所から移動することはなかったから、各都道府県の距離感がどんなものなのか、イマイチわかってない。
まさか原爆ドームと金閣寺が一時間半の距離だったなんて……。
「あ、いや、福山駅からだから、広島市の原爆ドームはもうちょっと時間かかるけど……って、聞いてないよね、淡居ちゃん?」
世界って、すごい。いや、科学ってすげー。いいぞ、科学。頑張れ、科学。その調子で、私の呪われた運命を変えるマシンとか、作ってプリーズ!
「それにしても、一時間も新幹線に乗りっぱなしなのはキツいよね。もちろん僕は、淡居ちゃんと静かに見つめ合っているのも好きだけど、今日という時間は限られているからね。ってことで、淡居ちゃん。――カラオケしよっか」
「…………はい?」
「こっち、こっち」
そう言って死神は、隣の号車へと私を促す。
何をするつもりなんだ? この新幹線には食堂車すらないんだぞ? そもそも、カラオケできる新幹線なんて聞いたことない。
そんな風に思いながら、何気なく号車の仕切り扉を跨ぐと――一瞬にして私は、カラオケルームに入ってしまった。
「……………………」
「あは。驚いた? ほら、カラオケってデートの定番じゃん。移動時間も無駄にしたくないしね」
扉を閉めたら、向こう側の新幹線の景色が消える。
おい。マジでどうなってんだ? いや、どうせいつもの謎パワーなんだろうけど。
「淡居ちゃん、歌うの好き?」
「……どっちでもありません」
「おっ。久々に無関心系女子の発言来たねー!」
適当な会話で場を繋げつつ、死神がカラオケ機材とデンモク(リモコン)のリンク処理を行った。私はとりあえず、ソファに腰を下ろす。
「それじゃあ、一番、僕! 歌います!」
画面に映し出されたのはAK○のPVだ。
マジかよ……。お前、デートでA○Bって……。
「いやいや、むしろカラオケじゃ定番なんだよ? みんなで盛り上がれるし。……あ、そっか。淡居ちゃん、友達とカラオケとか行かなそうだもんねー」
よし、決めた。今度の休みは夕希と一緒にカラオケに行こう。
もう友達がいないなんて言わせない。ヒトカラに行く勇気がなくて、お店の前を右往左往する必要もない。堂々とカラオケしてやる。
「ひゃっほーいっ! このためだけに、この曲をチョイスしたぜぇー!」
テンションの上がっている死神が見つめる画面には、アイドルのあられもない姿があった。……水着。水着である。しかも、水に入っていない。じゃあ、なぜ水着なんだ。落ち着け、お前ら。水に入らないなら、そんな格好する必要なんてねーし。そもそも陸上でそんな格好したら、下着で外歩いてるのと変わらねーぞ? 頭おかしーんじゃねーのか?
「うっひゃぁあああ! このバスト! 最っ高! テンション上がってキターーーー!」
――――ブチッ。
「ああああっ!! どうして急に強制終了なんてするのさ、淡居ちゃん!!」
「……私が歌います」
別に怒ってない。つーか、怒る理由もない。
あれだ。そう。これはマナー違反的なあれなのだ。女の子とデート中に、別の女に視線を奪われるとか、やっちゃダメだろ。特に、胸の大きな女に目移りするとか、絶対にやっちゃダメだろ。いや、別に私はこの変態が誰を見てても関係ないし、そもそもこいつが女ったらしなのも、重々承知しているんだけどっ!
「~~~~♪」
「おおっ? 淡居ちゃん、上手いじゃん! こりゃ驚いたー」
ふふん。見くびるなよ? 確かに私は無趣味だが、音楽は割と聴くのだ。だって、勉強中のBGMに最適だし。勉強の邪魔にもならないからな。
「……しかし、選曲がなんというか……ボカロとか、淡居ちゃんらしいというか……」
なんだよ。ボカロ最高じゃないか。その辺の、顔だけで売ってる意味不明なJ‐POPより、よっぽど良曲が多い。この曲だって『優しい人にならなくちゃ』って歌詞がめちゃくちゃいいし。
「うーん。まぁ、いっか。それより淡居ちゃん、もっとテンション上げてこーぜ! 具体的には、ソファの上で飛び跳ねながら歌ってみよう! そして僕にパンチラをプリーズ!」
私はソファの上で跳び上がった。
そして、膝蹴りを死神にプレゼントした。
「いやー、楽しかったねー」
カラオケで数曲歌った後、もとの新幹線に戻ろうとして扉を開くと……その先はボウリング場だった。その後、ボウリングにビリヤードに卓球、ダーツと……おおよそ、普段の私からは考えられないほど体力を使って遊んだのだ。
「……大丈夫、淡居ちゃん?」
「…………だいじょぶ、DEATH」
端的に行って、はしゃぎ過ぎた。休みたい。
一通り遊んで新幹線に戻ると、ちょうど京都駅に到着したところだった。……助かった。もしこのまま新幹線に乗っていたら、初デートでリバースという、また新たな黒歴史を刻むことになっていただろう。
「ウィーアー・イン・京都ーーー!!」
死神がバンザイして叫ぶ。おい、ちょっと静かにしろ。お前の隣で可愛い彼女が、気分悪そうにしてるんだぞ。気遣いとかないのか、気遣いとか。
「はい。ポカリだよ、淡居ちゃん」
「…………え?」
また心中を読まれたのかと思ったが、そんなことはないはず。距離が離れていた上に、周囲は人でいっぱいだ。ただ心の声が『聞こえる』だけのこいつには、距離さえとっとけば、私の心も届かない。
だから、これは普通にこいつの好意なわけで……。
「……あ、ありがとうございます……」
「ん? どうかした?」
ヤバい。それ以上は考えるな。あれだ。呪文を唱えるんだ。エロイムエッサイム、ホントニコマッタンガー、ラステルマスキルマギステル……。
「いや、何を隠しているのか知らないけど、今は気分悪いんだから、やめときなよ……」
そうは言っても、心を覗かれるわけにはいかない私である。
ああ、でも、ほんとに気分悪いから、余計なこと考えられない。これはこれで僥倖、なのかなぁ……。
「……その調子じゃ、市バスを使うのはキツそうだね。ちょっとここで待ってて」
そう言って死神が駆け出していく。
うーあー。ダメだ。少し休もう。
ポカリ飲んで、目を閉じて、深呼吸……。ふう。少しは、まともになってきたかな……。
「お待たせー、淡居ちゃん!」
五分も経たないうちに死神が帰ってくる。なんか、黒い車に乗って。
「…………え」
「あれ? ベンツは趣味じゃなかった? やっぱり、フェラーリの方がよかったかな?」
いやいや。いやいやいやいや。
ない。ないよ。私たち、高校生ですよ? 高校生なのに、ベンツやフェラーリでドライブとか、頭おかしいって。
「ああ、大丈夫。僕は十九歳だし、ちゃんと免許も持ってるからさ。それに、大好きな淡居ちゃんを乗せるんだよ? 事故に遭わせるような危険運転はしないよ」
うーん……まぁ、そう言うなら、きっと大丈夫なんだろう。でも、私が言いたいのは、そういうことじゃなくて……。
「ほら、乗って。水族館のあとは金閣寺に行こう。せっかく京都まで来たんだしね!」
京都水族館は……なんていうか、水族館だった。
当たり前だけど、キレイな魚がうようよしていた。……うようよって、キレイな表現じゃない?
さておき、私は水族館に来るのも、これまた人生初だったのだ。全然期待なんてしてなかったけど――だって、魚になんて興味ない――キレイな水の中を泳ぐ魚の姿は意外なほど神秘的で、テンション上がった。
中でも楽しかったのは、イルカショーだ。イルカ見て喜ぶとか、下手したら小学生レベルかもしれないが、そもそも小学生の時から一度もこういう遊びを体験していない私である。だから、はしゃいでしまったのも仕方ない。仕方ないよな、うん。
「いやー、可愛かったねー、イルカ」
「はい! すっごく!」
ああ……。世界にはあんなに可愛い生き物がいるんだな。世界って、広い。
「でも、危なかったよねー。淡居ちゃん、イルカにまでモテるんだもの」
「反対に、死神さんは嫌われてるみたいでしたけどねー」
私のイルカへの恋慕が伝わったのか、イルカショーをしていたイルカの数匹が、私の方へ勢い良く近づいてきたのだ。最前列にいたので、下手したらあと一息でキスできそうな間合いにまで距離が縮まったのだが……隣の死神が私とイルカの間に入ると、イルカは残念そうに去っていった。
「やっぱり、イルカにも自分に害をなす変態はわかるんですねー」
「どういう意味だよっ! 僕はこれでも、森羅万象全ての生物に好かれる自信があるんだけどっ!」
「ええー。〝死〟を司る神なのに、それは無理でしょー」
そんな風に水族館の余韻を引き摺りながら、私たちは死神が運転する黒塗りベンツで金閣寺を目指していた。
京都は基本的に徒歩とバスで観光をするのがメジャーらしい。だからかは知らないけど、なんとなく、道路を走っている車のマナーが悪い気がする。にもかかわらず、涼しい顔でベンツを転がす死神は……その、あれだ。悔しいけど、ちょっとだけカッコよかった。
死神……。死神かぁー……。
「そういえば、とっても今さらなんですけど、死神さんの名前って、なんて言うんですか?」
「……ほんとに今さらだよ、淡居ちゃん。名前って普通、一番最初に訊くべき個人情報だよね? ってことは、淡居ちゃんは今、初めて僕に興味を持ったってこと?」
苦々しげに死神が呟く。まあ、そういうことだ。なに、不満なの?
「いや、不満じゃないけどさぁ……」
「無関心を信条に生きている私が関心を持ったんですよ? 言うならば、死神が人を殺さないくらいのびっくり現象です。感謝してください」
「あはは。そうだね。それじゃあ、感謝しておくよ」
そう言って、死神が華麗にハンドルを切る。……うーん。やっぱり、死神って呼ぶのは、なんか、こう、アレだ。だから、名前は知っておきたい。
「あー……。僕の名前ってさ。ちょっと、アレな感じなんだ」
「アレとは?」
「……珍しいんだよ。そして、少し変わってる。だから、恥ずかしいんだ」
「なるほど。最近流行のキラキラネームというやつですね? 大丈夫です。私は決して笑いません。人の名前なんですよ? それに、親が勝手につけたものです。それをバカにするなんて、真っ当な人間のする所業とは思えません」
私は腕を組み、憤慨したように頷く。
うむ。そうだ。私はそれが唯一の幸運であったかのように普通の、むしろちょっと羨ましく思われそうな〝美空〟という名前だが、たとえ他の人がどんな名前だったとしても、バカにしたりしない。そんなことする奴は、サイテーだ。
「……淡居ちゃんがそこまで言ってくれるなら、信じるよ。僕の苗字は〝たびじ〟。名前は、〝おわり〟だ。苗字の方は漢字で『人生』、名前の方は開始・終了の『終了』と書く」
「人生終了…………?」
たびじ、おわり。じんせい、しゅうりょう。
「……うぷ。うぷぷぷぷぷっ」
「……ねぇ、淡居ちゃん。君、笑わないって言ったよね? 真っ当な人間のする所業とは思えないって、言ったよねぇ?」
「笑ってません。……ぷぷっ。いえ、笑ってませんよ? ……うぷぷ。笑ってませんってば、人生さん」
「〝じんせい〟じゃなくて、〝たびじ〟! ああ、もう! だから僕は名前を言うのが嫌だったんだっ!」
悪態をつきながらも、運転は相変わらず丁寧。よかった。事故の心配はなさそうだ。
ああ……しかし、こいつにそんな弱みがあったなんて。今後は「人生さーん!」とか「終了さーん!」とか呼んでやろう。そうしよう。それがいい。
「淡居ちゃん……何か邪悪なこと考えてない……?」
「いえ、そんなことは考えていませんよ、終了さん」
「〝しゅうりょう〟じゃなくて、〝おわり〟!」
「……失礼。人間終わりさん」
「確かに僕は死神だけど、人として終わっているつもりはないっ!」
いつもとは違い、珍しく私が会話の主導権を握ったまま、ドライブは続いた。
そして、金閣寺に着いた。
「おおー! 見てください、人生さん! 金閣寺ですよ! ほんとにまっ金金です!」
「いや、だから……って、もう訂正するのも疲れたよ……」
死神改め、人生終了さんが肩を落とす。じんせいしゅーりょー。……うぷぷっ。
「でも、いい名前だと思います!」
「どこがだよっ! 明らかに楽しんでるよねぇ、淡居ちゃん!!」
「そんなことありませんよ、終了さん。ほら、よく考えると深いじゃないですか。せっかく生まれた赤ん坊に『人生終了』と名付けたんですよ? きっと、この世の無常観とか、人生を終えるときに感じる気持ちを大切にして欲しいとか、そんな願いが込められているんじゃないですかね? ……うぷぷっ」
「……ネタを言うつもりなら、最後まで貫き通してほしいな。含み笑いで台無しだよ」
「失礼。持病の笑い症が」
あら、大変。このままじゃ笑い死にしてしまうわ。
「うがーっ! こうなったらもう、ヤケクソだーーー!!」
「ちょっ!? ちょっと人生さん、どこに!? 迷子になったんですか!? 人生に、迷子になったんですか!?」
人生さんは私のそんな言葉を無視して、ザブザブと金閣寺周辺の池へと飛び込む。
いや待て。それきっと、普通にアウトだと思うぞ? ほら、みんな見て――あ、いや、そうか。他の人には、不自然に波立つ池の波紋としか見えないのか。
「見てろ、淡居ちゃん! こんな変な名前の僕でも、男気でカバーできるところを見せてやるぜ! さしあたって、まずはあの金閣寺に貼りつけられている金箔を、君にプレゼントして見せるよ!!」
なんか、終了さんの変なスイッチが入っていた。
ていうか、切実にやめてほしい。それしたら、絶対私、捕まっちゃう。そんなことをされたら評価が改善するどころか、さらに好感度ダウンしてしまうぞ。
「聞いてください、人生さん! 実は、金閣寺の金箔を剥ぐよりも、池の鯉を売った方がいい値段がつくんですよーっ!」
「な、なんだってぇーーーーー!?」
ちなみに、これは本当だ。金閣寺の池で泳いでいる鯉は、相当の希少種らしい。小学校時代の社会科教諭が言っていた。授業なんて全然興味ないが、そういう無駄知識なら自然と頭に残ってしまうものである。
「よーし、わかったぁっ! それなら僕が、淡居ちゃんのために鯉をゲットしてみせるぜぇー!! そして、淡居ちゃんの恋もゲットしてみせるぜぇーーー!!」
「バカなことやってないで、帰ってきてくださーいっ! あなたの人生はすでに終了してまーす!!」
ぎゃふん、と遠くで人生さんが池に沈んだ。私はそれを見て大声で笑う。笑いすぎて涙出てきた。
虚空に向かって大声で叫ぶ私を、周囲の観光客が奇異の目で見つめる。知ったことか。旅の恥はかき捨て、だ。
それに、楽しすぎて、もう他人の目なんて気にならなかった。
「あー。楽しかったー」
一時はどうなることかと思ったが、結局、人生さんは複雑に泳ぎ回る鯉を捕まえることができず、ずぶ濡れで戻ってきた。
「いや、違うんだよ……? もうちょっと頑張れば余裕でゲットできるんだけど……ほら、次の予定もあるし……」と涙ぐむ人生さんをお茶屋さんに連れて行き、京都らしい草団子で一服しつつ服を乾かした。その後、私たちは再び車に乗って駅まで戻ってきていた。
「ねー。楽しかったですねー、人生終了さん!」
「うぅ……これなら、まだ死神と呼ばれていた方がよかった気がするよ……」
おっと、と言って、人生さんが強引な運転で割り込んできたタクシーを避ける。京都駅周辺のタクシーは、特に運転が粗いようだ。
「次は何するんですか?」
「そうだね。次はデートの定番、映画を観ようか!」
「へー。いいですねー! ……あ。でも、暗闇でえっちぃことするのはナシですよ?」
「バレたかー。……仕方ない。それじゃあ、普通に映画を観よう」
「うーん。人生さんは、もう少し女心を勉強した方がいいと思います。スペック的にはそこまで下の下ってわけでもないんですから」
「ほんとに!? 淡居ちゃんの中で僕ってランキング何位?」
「二位です」
「ええっ、マジで!? てっきり、最下位なのだとばかり――」
「えらくマジです。ただし私は、センパイの他で認識している男性は人生さんしかいないため、事実上の最下位です」
「…………ぎゃふん」
どうでもいいが、リアルでぎゃふんって言う人いるんだなー。まぁそれも、人生さんらしい。
駅を迂回するように車を走らせ、京都駅南側にあるイオンモールに入る。そこの駐車場に、人生さんがバックで車を駐車した。……うぐっ。テンプレで悔しいが、バックする時、助手席に手を回すのはドキッとした。ズルい、これ。まるで肩抱かれてるみたいな気がするし。
って、あわわわ。違う、違う。そうじゃなくてっ。てくまくまやこん、ぱるぷんて、まだんて、そーらーびーむ、れりーず!
「ほい。着いたよ、淡居ちゃん」
幸い、運転に集中してて、こちらの心中までは聞こえてなかったみたいだ。ありがたい。
「映画を観るんじゃなかったんですか?」
「うん。ここの最上階に映画館があるんだ」
そうなのかー。しかし、よく知ってるな。京都に来たことでもあるんだろうか?
「いや、ないよ。僕も昨日、必死に調べたんだ。好きな女の子に貢いで、いい気分になってもらうためにね」
「……それはもう、忘れてください……」
ショッピングモールの上にある映画館だから、てっきり、こじんまりとしたものだと思っていたのだが……いい意味で予想を裏切られた。館内は結構広い。
「なに観るー? 淡居ちゃん?」
「そうですねー」
おおっ。なんか、色んなのやってる。えーっと、あのリストのやつが上映されてるんだよな? えーっと、えーっと……。
「ひょっとして、映画も初めてかな?」
「はい、そうです。さすがにどんなものかは知っていますけど」
「…………そっか」
ん? 茶化してこない?
ひょっとしてこいつ、私の幼少の頃の家庭環境を嘆いて――――
「ふう。ここまでたくさんの『初めて』を捧げられたんじゃ、仕方ない。責任とって、僕は君のものになるよ」
いや、こいつはただのアホだ。
「人生オワタさん、あれにしましょう」
「待って! 僕の名前で僕の人間性を否定するのはやめてっ!」
私の隣で色んな意味で終了している人が騒ぐ。ダメだぞ。館内では静かにしなくちゃ。
「高校生二枚、ください」
「はい。かしこまりました」
カウンターでチケットを二枚購入し、受け取る。
うん。映画はいい。カフェと違って、一人でチケットを二枚買っても怪しまれない。たぶんこの店員さんは、私が後で友達か彼氏と合流するとでも思っているのだろう。
…………彼氏。彼氏かぁー。
「お帰り、淡居ちゃんっ! ちゃんと買えたっ?」
「……いや、こいつはないわー」
「……うん。何を考えていたのかは知らないけど、とりあえず失礼じゃないかな?」
でもまぁ、いっか。今日くらい。
デート費用も全部出してくれてるし。それにまぁ……楽しくなくはない、しな……。
「せっかく僕の姿は見えないんだし、淡居ちゃんのチケット代だけでよかったのに」
「でも、それじゃあ、座席がないでしょう」
「大丈夫だ、問題ない。……淡居ちゃんを抱っこして、一つの座席に座るよ」
「……さて。それじゃあ、次はどこへ行きますか?」
「ああっ! 冗談だよっ、淡居ちゃん! 冗談だから、戻ってきて!」
まったく……。このセクハラ発言さえ無ければ、そこそこまともなのに……。
「ていうか、え、これ観るの?」
「……いけませんか?」
ちょっと恥ずかしくなって横を向く。私が選んだのはアニメで、魔法少女ものだ。
ネットの評判しか知らないけど、有名なアニメ制作会社の監督さんが書き下ろしたオリジナルストーリーで人気を博したらしい。特に、三話で黄色の魔法少女が食べられちゃうという、斬新なストーリー構成が人気だ。
「いや、いいけど……これってテレビ版のリメイクだよ?」
「……私、テレビを持っていないので」
「ええっ! そうなの!?」
家具……というか、私の所有物は必要最低限以下にまで絞り込まれている。単純にお金がないから、という理由もあるが、昔から親の転勤と引越しが多かったせいで、物を所有しない習慣が根付いていた。
あと、テレビは時間の無駄だしな。私的に、ネットサーフィンよりも時間を浪費してしまった感が強い。……まぁ、ネットサーフィンもほとんどしないんだけど。
「……そっか。まぁ、僕は淡居ちゃんと一緒に観れるなら、なんでもいいんだけどね」
ふ、ふん。じゃあ余計なこと言わず、大人しくついて来いってんだ。
ちょうど開演時間五分前だったので、そのままチケットを店員さんに手渡して劇場に入る。ああ。これが映画館というものか。なんだろう。ワクワクする。
「淡居ちゃんは、あれだよね。小さな頃にこういうことを体験していない分、遊びに関しては何もかも新鮮で、全力で楽しめるのがいいところだ」
「……その初めてのほとんどを、人生を終えてしまった人と浪費しているのですから、悲しい話です」
「うぐっ……! やっぱり僕の名前を教えたのは失敗だったか……」
ざまーみろ。これで口撃戦も随分楽になった。困ったら名前で返せばいい。
さあ、映画が始まるぞー。私たちはポップコーンもジュースも、何も買ってない。当然だ。集中して映画観るのに、そんなもの飲み食いしてられるか。
そして、映画が始まった。
「……ひどい。いくらなんでも、ひどい……」
「あはは……まさか小火騒ぎで、三十分もしないうちに追い出されるとはねぇ……」
別に大事ではなかったのだが、館内の一つの劇場でスプリンクラーが作動したらしい。それで、念のために避難となったわけだ……。チケットや料金に関するフォローはそれなりにあったものの、原因が特定されるまで館内が立ち入り禁止になってしまった。
「初めてだったのに……。生まれて初めての映画館だったのに……」
「ま、まぁこれから何度でも来ればいいさ。映画館なら福山駅周辺や広島駅周辺にもあるだろうし」
うぅ……私の人生初の映画……。
黄色い魔法少女が食べられるシーン、見たかったな……。
「うん……そのモノローグは聞きたくなかったよ……。ていうか淡居ちゃん、結構グロ趣味だよね?」
そんなことはない。私は恋に恋する乙女である。きゃるーん。
今回の映画だって、一番興味があったのはピンクと黒の百合ん百合んである。
「レズなの!? やっぱり淡居ちゃんってレズなの!?」
「……そんなわけないでしょう。過去に好きだった人がセンパイ……男性だったことは、あなたもご存知のはずでは?」
「あ、ああ……そうだったね……」
もっとも、最愛のセンパイに先立たれてしまったせいで、今現在この地上で一番好きな人は夕希だけど。
「あ……僕、夕希ちゃんにも負けてるんだ……」
「当然でしょう。夕希は天使ですよ? 死神が勝てるはずありません」
「死神稼業、やめよっかな……」
淋しげに呟く死神の心を表すように、運転するベンツも減速した。わっ。ちょっ、危ないだろ! ここ、高速道路だぞ!?
「……で、今はどこに向かっているんですか?」
「うん? 今はちゃんと、広島県のある東に向かっているよ。でも、せっかくだから、途中で大阪に寄ろうと思っているんだ。ちょうど大阪駅のすぐ近くに、いい感じの観覧車があるんだよ」
観覧車!
それは、あの丸っこい部屋に乗って、高いところまでグルングルンするあれですか!?
「いや、そうだけど……。すごい乗り気だね」
「当然ながら、遊園地も行ったことないので」
「そっかぁ。それなら、そっちを先に行けばよかったなぁ……。もうすぐ日も暮れちゃうし、そろそろ次がラストだと思ってるんだ。さすがに遊園地はキツいよ」
そうか……。コーヒーカップとメリーゴーランドに乗れないのは残念だが、それでも、観覧車に乗れるならよしとする。なんていったって、観覧車だ。遊園地のお姫様と呼ばれるほどの乗り物である。もちろん、王子様はジェットコースター。
「そんな話は初耳だけどね」
「私の中では常識です」
「なるほど。僕の中で淡居ちゃんが、僕の彼女であることが常識なように……か」
「常識は疑えって言いますよね」
「疑った結果、同じ結論に達するなら、それはもう真実だと思うんだ」
「……人生がオワってる人は、ちょっと……」
「ねえ! それ、いつまで引っ張るの!?」
よしよし。いい感じだ。切り札は我にあり。
そんなくだらないことを言い合いながら、車を走らせる。もう夕日は沈み始め、辺りは薄暗くなってきていた。今日も、もうすぐ終わりだ。
土曜日。
一週間で一番大切な曜日。
楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。ほんと、神様は理不尽だ。アインシュタインも、どうせなら相対性理論の対策法ぐらい思いついてから、死んでくれれば良かったのに。
でも、だから人は一生懸命生きれるのかもなー、なんて、らしくないことを思った。
「うおーーーーっ!!」
そんなわけで、観覧車。
人生さんの言った通り、大阪駅のすぐ近くには『HEP FIVE』という建物があり、そこの最上階に観覧車があった。
ちょうど夕暮れ時のロマンチックタイムなだけあって、周囲はカップルだらけだったが……もう、気にしない。むしろ、積極的に人生さんに話しかけた。他人の目なんか気にしても仕方ない。私は私だ。これが私の人生なんだ。
搭乗する時も「お一人ですか?」と訊かれ、「いえ、二人です!」と元気よく答えた。目を白黒させるスタッフさんを無視して、先に乗り込んだ人生さんに手を引かれ、お姫様扱いされて観覧車に乗り込んだ。きっとスタッフさんからは、私が凄腕のパントマイマーに見えたに違いない。
ビルの七階からスタートする大きな観覧車。一周するのにかかる時間は約十五分。高層ビルのさらに上から眺める大阪の街は、ビルがまるでジオラマみたいに小さく見えて、窓から漏れる光が幻想的な夜景を作り出している。端的に言って、とてもキレイだった。
「いやー、キレイだねー」
正面に座った人生さんが、窓の外なんか全然見ずにそんなことを言う。
「ちゃんと外を見てから言ってください。それとも、高所恐怖症なんですか~?」
ニヤニヤしながらからかうと、予想外のカウンターパンチが飛んで来た。
「いいや。僕は、淡居ちゃんがキレイだって言ったんだぜ」
「……………………」
な、なんてクサイ台詞を言うやつなのだろう!
ず、ズルい! そんなテンプレートな軽口使って! その卑怯な口先で、いったい今まで、何人の女を弄んできたんだっ!?
「言っておくけど、僕は結構一途なんだ。僕が恋した女の子は一人だけ。愛した女も一人だけ。ずっとずっと、僕は君だけしか見えていないよ、淡居ちゃん」
「………………ぁ、ぅ」
あ、あわわ。あぶぶぶぶ。ち、ちがっ。違うの。これは違う。ほら、あれだ。昨日調べたネットの情報にもあった。高い所はお互いに気分が良くなるし、身も心も舞い上がっちゃって、告白の成功率が高くなるんだって。だから、そう。きっと私も、今、そんな状態なんだ。あれだ。吊り橋効果だ。きっと。
そして、丁度私たちを乗せたゴンドラが頂点に達した時。
突然、ゴンドラが停止し、室内の電気が消え、真っ暗になった。
「きゃあっ!?」
突然消灯した上、軽い振動を伴ってゴンドラが止まる。中途半端に立ち上がって外を見ていた私はバランスを崩し、反対側の席に倒れこんでしまった。
そう――こいつの、腕の中に。
「――――っ」
「……大丈夫、淡居ちゃん? たぶん、ちょっとしたトラブルだろうぜ。きっとすぐに復旧するよ。もし何かあっても、僕が守るから心配しないで」
ズルい。ずるいずるいずるいズルイ。
普段はセクハラ発言ばっかりするくせに。こんな絶好のチャンスで、そんな真面目な態度をとるのはズル過ぎる。
トクン、トクン……と、やけにうるさい自分の鼓動が耳を打つ。
ええいっ、静まれ、私の心臓。なに考えてるんだ、私。落ち着けよ、淡居美空。お前は全てに無関心。空気みたいな存在で、感情は常にまっ平ら。こんなトラブルが起こったくらいで簡単に揺らぐはずがない。
それに、お前はセンパイ一筋のはずだろう? そりゃ、確かに将来的には、もっと素敵な人を捉まえて幸せな家庭を築くのが夢だけど……だからって、目の前のこんな男にほいほいと貞操を差し出すほど、お前はビッチじゃなかったはずだ。落ち着け、淡居。冷静になれ、美空。お前はもっと、クールで毒舌でやる気ない感じの――――
「……ねぇ、淡居ちゃん」
「ひゃっ、ひゃいっ!」
ひゃいってなんだ、ひゃいって。
停電した観覧車で二人っきり。しかも男の腕の中って、十年前の少女マンガかよ。今時こんなの流行らねーぜ? ヘイ! その辺わかっているのかいっ?
「今日は、ありがとね。すっごく楽しかったよ」
そ、そうだ。呪文を唱えるんだ。てくまくまやこん、ぴーりかぴりらら、ぱるぷんて、れりーず……。
「……ほんとに。だってさ、初めて笑ってくれたよね」
「……………………え?」
言われて、気付いた。確かに私は、笑っていたのだ。
今も。いつも不機嫌そうな鬱顔をしているはずの私の顔が、だらしなく弛んでいる。
「やっぱりさ。女の子は笑顔が一番だ。淡居ちゃんの笑顔は本当に最高だったよ。……最後に見れて、よかった」
「……………………」
最後。
そうだ。今日の二十四時を最後に、この死神は私の元を去っていく。
それは当然のことだ。自然なことだ。一週間前、初めてこいつに付き纏われた時から、ずっと私が望んでいたことだ。
だけど……どうしてだろう。
今は、胸が痛い。
どうして。
なんでっ。
「……あ。復旧したみたいだね?」
「…………」
その声を聞いても、しばらく動けなかった。
ゴンドラが僅かに振動して動き出した頃、私はノロノロと立ち上がり、対面の席へと戻った。
「すっかり遅くなっちゃったねー。いやー、ごめん。もっとペース配分を考えるべきだったよー」
「…………」
私は死神が運転する車の助手席で、コンビニのサンドイッチを齧っていた。
本当なら、帰りも新幹線を利用した方が楽だ。時間だって、のぞみを使うのが一番早い。効率的だ。にもかかわらず私の口は、非論理的なことに「……ドライブして、帰りたいです」と動いてしまった。
「ほんとなら、ちょっといいとこのレストランも予約してあったんだけどねー」
「……いえ、充分です。今日は、ありがとうございました。楽しかったです」
せっかく笑っていたのに。今ではすっかり元の鬱顔に戻っている。
でも、よかったと思う。もし、あの観覧車の後で、いい雰囲気のディナーでもしていたら……きっと、私の中の何かが弾けてしまっていた。だから、これでいい。
「……おっ。そろそろだよ」
永遠に続けばいいと思っていた夜のドライブも、もう終わってしまうようだ。大阪から高速道路を使ってバイパスを通り、下道を走って……かなりの距離があったはずなのに、もうすぐ私のマンションに着いてしまう。
なにか、言わないといけない気がした。
でも、なにを言えばいいのか、わからない。
……どうかしている。きっと、疲れているんだ。初めてのデートで舞い上がって、はしゃぎ過ぎてしまった。また明日、いつも通りに目を覚ませば、いつもの私に戻っているはず。……そんなことを考えて、私はほんのちょっぴり、切ない気持ちになった。
なぜそんな気持ちになってしまったのかは解らない。私はずっと、変わらない毎日を願い、その通りの日々を生きてきたはずなのに……。
マンションに着いた。死神が駐車場へと車を停める。映画館の時と同じバック駐車だったのに、もう何も感じない。何も思わない。ただ、心の奥が痒いような、焦燥感だけが燻っている。
「着いたよ、淡居ちゃん。今日はほんとに、ありがとね」
「……………………」
優しげな微笑みを浮かべる死神の方は見ないまま、正面に視線を固定して深呼吸する。
すー、はー。すー、はー。……よし。
「…………上がって、いきませんか?」
「…………え?」
「……私の家。もちろん、えっちぃ意味じゃないです。勘違いしないでください。ただ……最後の夜まで、この寒空の下に放り出すのは、さすがに気が引けます」
頬は赤くなっていないだろうか。視線は、変に揺らいでないだろうか。
頭の中は、大丈夫。ごちゃごちゃしてて、自分でも何がしたいのかなんて、わかってない。だからきっと、心の声を聞いても、私の本心はわからないはずだ。……私にだって、わからないんだから。
「……それじゃあ、お邪魔させてもらおうかな」
肩が震えた。……バレなかっただろうか。
「へー。なんか、淡居ちゃんらしい部屋だね」
「……すみません、なにもなくて。そこの椅子にでも座ってください」
「ううん。いいよ、床で。乙女の椅子やベッドに座るのは、さすがに気が引ける」
自分の部屋に他人を上げるなんて、初めてのことだ。まして、男なんて。……いや、一回だけこいつが勝手に入ってきたことがあったか?
てっきり、部屋に入ったら即行襲ってくると思っていたのだが、思いの外、死神は紳士だった。私ともきっちり一定距離を保ち、不用意に近づこうともしない。
「…………シャワーを浴びてきます」
「…………え」
「かっ、勘違いしないでくださいっ! 体が冷えているんです! このままじゃ風邪を引いてしまいます!」
「あ、うん。えっと……」
続けて何か言おうとする死神を無視して、私はセパレートの扉を閉め、バスルームに飛び込む。部屋の間取りが1Kでよかった。もしワンルームだったら、完全に丸見えだったな……。
「――って、なに考えてるんだ、私はっ」
お、落ち着け。わかってるのか、美空! 男を部屋に上げてシャワーを浴びるなんて、動物園の虎の前に裸で出て行くようなもんだぞ!? 犬の前のドッグフード、猫の前のキャットフードと同じようなもんなんだぞ!? え!? その辺、ちゃんとわかってんのかっ!?
「~~~~~っ!!」
混乱する思考を洗い流すようにシャワーを浴びる。せっかく整えた髪形とも、これでお別れだ。でも、いいのかもしれない。ちょっと疲れた。やっぱり私は、普段通りの私の方が落ち着く。
なにをしたいんだろう、私は。
先に誤解を解いておくが、間違ってもあの死神と……その、え、えっちなことをしたいとか、そんなことはない! 断じてないっ!!
だって、ありえないしっ! センパイならともかく、あの死神と!? 夕希ならともかく、人生終了さんと!? ない。ないよ。ないったら、ないっ!
じゃあ、どうしてこんなことをしてるのかと言えば…………きっと、淋しいんだ。
ずっと一人で生きてきて。
生まれてから、ずっと一人ぼっちで。
人の温かみなんて全然知らなくて。誰かが傍に居てくれることの安心感も、全然感じたことがなくて。誰かと話して心を通わせることが、どんな意味を持つのかも……全然、知らなかった。
確かに強引だった。正直、迷惑だった。それでも……ずっと私の傍に居て。私の汚い部分やダメな部分を全部知っても、変わらず傍に居て。真正面から私を受け入れてくれた。
そんな人がいなくなるのが……ほんのちょっぴり、淋しいだけ。
「はあ…………」
ため息が漏れる。いつから私は、こんなにも弱くなってしまったのだろう。
ずっと一人で生きてきた私は、ずっと一人で戦って、ずっと一人でいるのが当たり前だったのに。たった一週間で、随分と私も変えられてしまったものだ。……いや、やっぱり、ただの一週間じゃなかったのかな。単純に一緒に居た時間もそうだけど、それ以上に内容の濃い一週間だった……。
と、そんなことを思った時、軽く世界が揺れた。
「地震…………?」
広島県は日本でも有数の対地震・安全エリアである。確か、そんなことがネットに書いてあった。だから、多少揺れても問題ないはずだが……一応、用心して、早めにお風呂を上がることにする。
バスタオルで体を拭き、髪は生乾きのまま、下着だけ替えて、オシャレ服のまま部屋に戻ると――――
「――――っ」
そこに、死神の姿はなくなっていた。
……うそ。嘘だ。だって、こんな。こんなお別れは、嫌だ。
まだちゃんと、さよならって言ってない。まだちゃんと、お礼も――――
ガチャリ、とドアが開く音がした。
「あ。上がった、淡居ちゃん? よかったー。なんか、揺れたみたいだったからさ。怪我でもしてるんじゃないかと――――え?」
私は、死神の胸に飛び込んだ。もういい。恥とか、この際どうでもいい。
「……勝手に出て行くなんて、非常識です。もう、消えちゃったのかと思いました」
「あはは。残念ながら、まだ消えるわけにはいかないよ」
「…………?」
意図をはかりかねて顔を上げると、口調はいつも通りながら、口元を引き締めている死神の顔があった。
笑って……ない?
嫌な予感がした。この死神がヘラヘラと笑っていない時は、大抵悪いことが起こる前兆なのだ。
地面が揺れる。今度は結構大きい。
おかしい。広島県でも、特にこの田舎町は、地震の影響が少ない場所なのに――――
「今、何時かな、淡居ちゃん?」
のん気な声で死神が尋ねる。だけど、言外にそれが重要な情報なのだと伝えてくるような声だ。
「えっと……十一時過ぎ、ですけど……」
「……そっか。それじゃあ、急いで髪を乾かして、ここから逃げよう」
「え…………」
逃げる? 逃げるって、何から?
「落ち着いて聞いてくれ、淡居ちゃん。今、世界が君を殺しに来ている」
せっかく体を温めたのに、寒気がした。首筋が粟立つ。
私はすぐに髪を乾かすと、死神に手を引かれて家を飛び出した。
「どういうことなんですかっ!? 世界が私を!?」
死神に手を引かれて夜道を走りながら、私は大声で尋ねた。
「ああ。つまり、淡居ちゃんが今日の二十四時に死ぬという運命は、まだ変わってないってことだ」
「そんなっ!」
「だけど……安心して。なにがあっても、僕が君を守るから。……はは。もう前払いで代金も貰っちゃったしね」
軽口を叩く割に、死神には余裕が無さそうだ。ただ走っているだけなのに、さっきからとても苦しそうに息を吐く。
「ははは……きっついなー。今夜のこの街は随分と物騒みたいだ。地震、雷、火事、おやじ。その次は、連続殺人犯が徘徊しているらしいよ。まったく、神サマも駄作な無理ゲーを作ってくれるよなぁ……!」
どうやら、私の目には見えないところで戦ってくれているらしい。
ひょっとして……そうなのか? 今日一日、ずっと私を守ってくれていたのか? そのために、一日デートをしてくれと――――?
振り返れば、色々なことが思い浮かぶ。
水族館でイルカが襲ってきたこと。
やたら運転が粗いタクシー。
映画館での火事。
観覧車も停電で停止した。
そして――先程の地震。
……ずっと。ずっと守っていてくれたのか。私の知らないところで。ただデートを楽しんで笑っているだけだった、私の隣で。ずっと一人、私の運命と戦っていてくれたのか。
胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、私の視界を曇らせる。泣いてる場合じゃないのに。少しでもこいつの負担が軽くなるように、私も必死に逃げなきゃいけないのに。戦わなきゃいけなのに。
無人の商店街を一直線に走り抜け、私たちは朝霧学園の校門まで辿り着いた。
「できるだけ、周囲に何も無い所の方がありがたい……。そういう意味じゃ、学校のグラウンドなんてベストだと思うんだよね……っ」
死神は肩で息をしている。頬や首筋を、玉のような汗が伝っていた。顔色も悪く、私よりも余程死にかけているように見える。
「だ、大丈夫なんですか……?」
「大丈夫だよ……。あはは。大好きな淡居ちゃんと手を繋いでいるんだ。それだけで、勇気百倍だよ」
軽口を叩けるうちは、まだ大丈夫なのだと信じたい。こんなもので元気になるならと、私はより力を込めて死神の手を握った。
幸運なことに、学園に続く門には鍵がかかっていない。人一人分だけ入れる隙間を開けて二人で潜り、念のために門は閉め直しておく。あとは、必死になってグラウンドへと走った。
そして、やっとの思いでグラウンドに辿り着くと、死神は大の字になって寝転がった。
「ふうー。着いたー。とりあえず、ここまで来れば殺人鬼とかの心配はしなくていい」
「……そうなんですか?」
「うん。淡居ちゃんは知らないかもしれないけど、朝霧学園の立地って特別な意味があるんだよ。なんせ――」
「――――なんせ、学園の地下は、この世界で唯一の〝特異点〟だからな」
声が聞こえた。三人目の声。
私でも死神でもない、第三者の声。
それは、女の声だった。自信満々で、力強くて……まるで神様みたいな声だと思った。
「あは、は……。そっか……しまったなぁ……。ここには、貴女が居たか……」
死神が弱りきったように立ち上がる。口元には弱々しい笑みを浮かべていた。それを見て、本当に今が絶体絶命の窮地なのだと理解する。
「よう、淡居。こんな時間に会うなんて珍しいな」
「学、園……長…………?」
トレードマークの黒髪ロングに真紅ドレス。禁煙パイポを咥えた漢口調。どう見ても、朝霧学園・学園長だった。
「いけない子だなー、淡居ぃー。こんな深夜に学園に忍びこんでー。……まぁ、いい。青春とは、そういうものだからな。ほれ、お咎めナシにしてやるから、こっち来い」
動くつもりなど毛頭なかったが、私の思考よりも速く、死神の手が閃いた。私を行かせまいとするように、左手で私を制する。
「おいおい、淡居ー。そんな死神の近くにいちゃ危ないぞ? ほれ、早くこっち来い」
「…………え、でも……」
いや待て。どうして学園長に死神の姿が見えるんだ?
何か、おかしい。
私が動かないのを見て、学園長は舌打ちをした。どうやら、何か思惑があり、それが失敗に終わってしまったようだ。
「残念だったね、学園長。僕はすっかり、淡居ちゃんとラブラブになっちゃったよ」
「……お前も、久しぶりだな。いつ以来だ? お前が死んだ時か?」
「僕が死んだ時は別に会ってないだろ? ……ああ。そういう意味じゃ、【幻想戦】の時が最後じゃないかな?」
「幻想戦…………」
ちっ、と学園長が忌々しげに舌打ちをする。
「いやだなぁ。まだ根に持ってるの?」
「……当然だろうが。言っとくがな、あんなので私に勝ったと思うなよ? あんなセッコイ勝ち方、ノーカンだ。ノーカン」
「でも、勝ちは勝ちだよ。それに、学園長もいい勉強になったんじゃない? 卑怯とか罠とかズルとかには、耐性ついたでしょ」
「……お陰さまでな。あれ以来、お前以外には一人しか負けていない」
「あれ? 僕以外にも貴女に勝った人が?」
「……ああ。今この学園に在籍中の神童だ。とびっきりの優等生だよ」
「ははあ。となると、僕とは違って正々堂々と戦ったのかな?」
「ああ。正面からな。そして、負けた。あいつのだけは、素直に負けでいいと思ってる。願いも、ささやかなものだったしな」
「僕もそうでしょ」
「卑怯と罠とズルを乱用した狡い手で勝ちを盗み奪った挙句、叶える願いの数を――『【ツバサ】を増やしてくれ』なんて、徹頭徹尾サイテーだろうがっ! どこの世界に七つの玉で召喚したドラゴンを奴隷にする奴がいるんだよっ!」
「ここに」
「つーかお前、敬語使え、敬語! 私は学園長だぞ!」
「それを言うなら、僕は死者だよ? 学園長こそ、故人を尊ぶべきじゃないかな?」
学園長がぎゃいぎゃいと文句を言い、死神がしれっと流す。
なんか、私を置いてけぼりにして学園長と死神の応酬が続いていた。なんだろう。学園長に死神が見えていることも謎だが、それ以前に、この二人は知り合いなのだろうか……?
「僕の死神のチカラは、この人から貰ったものなんだよ」
「ええっ!? 学園長から!?」
「そして、そいつが言っていることは全て嘘だ。そもそもそいつは、死神なんかじゃない」
「ええっ!? そうなんですか、人生終了さん!?」
死神と学園長のお互いのネタバレに驚いていると、「人生終了ってなんだ?」と学園長が怪訝な顔をしていた。
「いいか、淡居。よく聞け。……そいつがお前にどんな話をしたか知らんが、それは全て嘘だ。そいつは、嘘つきなんだよ。嘘つきで、皮肉屋で、ただの幽霊だ。死神なんかじゃない。人の運命を決定するチカラなんて、持っていない」
「…………」
死神が押し黙る。ということは、今の学園長の発言は真実なのだろう。
「淡居は、あまり噂話に関心が無いから知らないかもしれないが……そいつの不思議パワーは、元々この学園のものだ。そして、私が管理し、行使すべきものだ。ちょっと事情があって一部そいつに奪われているが、本来のこいつはただの人間だ。……いや、人間〝だった〟。……もう死んでるんだよ、そいつは」
私は死神を仰ぎ見る。
否定してほしかった。反論してほしかった。
そうじゃないと、私がこいつと一緒に過ごした一週間が、全て〝嘘〟になってしまうような気がして――――
「……ふう。バレちゃしょうがない。ごめんね、淡居ちゃん。僕が君に語ったことは、ほとんど嘘なんだ」
「――――――――っ」
なんだ、この、胸を刺す痛みは。
胸の真ん中に風穴が空いてしまったような、虚無感は。
私は、何をそんなに傷ついている?
「――だけど。本当だったことが二つある。一つは、今日の二十四時に、淡居ちゃんが死んでしまうということ」
「…………」
今度は学園長が押し黙る。つまり、それも真実。
私は、今日、死ぬ。
それは確定事項。嘘でも何でもない、神様が決めた運命。
できるなら、それこそが嘘であってほしかった。しかし、そんな都合のいいことは起きない。そんなハッピーな展開はあり得ない。なぜなら……それが私の人生だから。私はそういう星の下に、生まれてきてしまったのだから。
目の前の死神は、それを変えてくれると言った。私を守ってくれると言ったんだ。
……それさえも。
それさえも、嘘で――――
「そしてもう一つは…………僕が淡居ちゃんを、愛してるってことだっ!!!」
「――――っ!」
……情けない。これほどたくさん騙されたのに、そんな言葉に縋ってしまう。
だけど……嬉しかった。私は、嬉しかったのだ。
それが本当なら。そこだけが真実なら。
たったそれだけで、私はこの一週間を信じることができる。
「だから僕は、淡居ちゃんを守る」
「……できると思っているのか? 神が決めた運命は絶対だ。お前だって聞いたことがあるだろう? ジョン・タイターの世界線理論。アニメで有名なアトラクタフィールドの収束。バックノズルやジェイルオルタナティヴという表現を使った作家もいたな。それとも、東京から大阪へ向かうための交通手段で喩えるか? どれにしても、結論は同じ。運命は変えられない」
それは私も、聞いたことがある。
どんなに運命を変えようとしたところで、事実や出来事は必ず一点に収束する。予定調和のように。人間が抗うことなど、誤差の範囲内であるかのように。起こる出来事は必ず起こり、代替が現れ、世界を調整する。新幹線を使おうが、飛行機を使おうが、徒歩でひたすら歩こうが、大阪に向かう限り大阪へ行き着く。
世界は収束し、たった一つの解答へと向かい続ける。
「だけど……世界も、それと同等以上のチカラで対処されれば、黙るしかない。そして僕には――そのチカラが、ある」
「……確かに【ツバサ】なら、世界への干渉も可能だ。だが、させると思うか? 私がこの場にいることが、全ての答えだ。……そう。私自身が、淡居の運命を変えさせない、抑止力なんだよ。私は、淡居の運命を変えようとする存在から、世界の意思を守るために、ここにいる。お前はおイタが過ぎた。もう、おやすみの時間だ。可愛い元学園生だからと目を瞑ってきたが、私の――――世界の邪魔をするのなら、容赦はしない」
学園長が鋭い目付きで死神を睨みつける。
そんな視線を受けながら、死神は脱力するように肩をすくめた。
「僕は世界の邪魔なんてするつもりはないよ。ただ、僕が生涯で唯一愛した女の子の命だけ、見逃してほしい。それこそ、可愛い学園生じゃないか」
「……無理な相談だ。同情はするが、譲歩はしない。運命には従ってもらう」
「交渉……決裂だね」
「そうだな」
ジャリッ、と学園長が一歩前へ足を踏み出す。
死神は「退がってて」と、私を後ろに遠ざけ、私と学園長の間に入るようにして立ち塞がった。
「解っていると思うが……死ぬぞ、お前」
「……もう死んでるよ」
「今度はそんな半端じゃない。幽霊という形さえ残らず、消滅すると言っているんだ」
「…………そっか」
「そうだ」
死神は全く気負った様子を見せず、鼻歌でも歌っているかのような軽い足取りで学園長へと向かって行く。私の〝運命〟へと立ち向かって行く。
……待って。『消滅する』って、どういうこと?
ひょっとして、学園長に負けたら……死神さんが、居なくなっちゃうってこと?
そんなの……そんなの、嫌だ――――――――!!
「逆に考えようよ、淡居ちゃん」
私に背を向けたまま、死神が言う。
その顔はきっと、いつも通りヘラヘラと笑っているのだろう。
「確かに目の前の敵は地上最強だけど……逆に言えば、この人さえ倒しちゃえば、もう安心していいってことなんだからさっ。ポジティブに行こうぜ。何事も前向きな姿勢が大切――――さっ!!!」
言い切ると同時、死神が学園長目掛けて疾駆した。
死神と学園長の間の空間に、幾つもの〝音〟が走る。
車がぶつかったような音。刃物が斬り結んだような音。何かが燃えたような音。地鳴り。破裂音。雷鳴。火山が噴火したような衝撃音。氷が砕けるような破砕音。鼓動のような脈動。誰かの声。
そして、そんな音の本流が過ぎ去った後――――死神が、学園長の後方へと吹き飛んだ。
とても人間とは思えない。重力をまるで感じさせず、扇風機に煽られる紙くずのように……宙を舞って地面に突き刺さった。
対する学園長は、悠然と佇んだまま。
「所詮お前は、贋作だ。オリジナルに勝てるはずがない」
「……チート過ぎだよ。初代ポケ○ンのバグ技も真っ青だ。ゲームや漫画じゃ、偽者の主人公だって、結構頑張れるんだよ?」
死神はグランドに倒れ伏していた。最初にここへ来た時のような気軽さは無い。服があちこち千切れ、破れ……ボロボロになっている。その下にある体から、おびただしい量の鮮血が流れ落ちていた。額も割れ、長い前髪の下を真っ赤に染めている。
「あ、ぁぐっ…………」
私の口から、声にならない声が出る。
わけもわからず、右手が目の前の虚空をさ迷った。そんな手では、何も掴めない。
学園長が少しだけ足を上げ、左足のヒールで地面を叩く。どういう理屈なのかは解らない。しかし、学園長のその動作を合図にしたかのように、遠く離れた掲揚台のポールが根元から千切れ、縦回転しながらこちらへと飛んできた。
あわや学園長に直撃するかと思ったそのポールを、学園長自らが左手一本だけで受け止めて見せた。
…………なにが、起こっているんだ。
これは本当に、私が住む世界の出来事なのか?
掲揚台のポールは学園長の背丈の軽く十倍はある。よって、それは当然、多大なる重量を有しているはずなのに……スレンダーな体躯の彼女は、左腕一本で軽々と持ち上げて見せた。
そしてそのまま……死神の方を振り返る。
なに、を……する、つもりなんだ……?
まさか。
まさか――――。
「やめ――――っ」
私の弱々しい声は、ポールが音速で空を切る轟音と、地面に突き刺さる爆音で掻き消された。
うそ……だ……。
だって、そこには……死神が…………。
「…………だから言ったんだ。死ぬと」
濛々(もうもう)と立ち込める砂埃が風に運ばれた後には……この世のものとは思えないほど残酷な現実が待ち構えていた。
あれほど長かったポール。細身の銀の円柱が死神の胴を貫通し、先から三分の一ほどを地面に潜り込ませている。それだけで、信じられないほどの速度と威力を持って突き刺さったことが推測できた。
「あ。ああ。ああああああ」
体が、震える。
私の口から、意味不明な外気音が零れ続ける。
そん、な……。こんな……こんなことって…………。
真っ白な頭でただ死神の方を見ることしかできない私を、学園長が振り返った。
「……ん。中々にショッキングな映像を見せてしまったな。すまん。……いや、こりゃ普通にR指定だ。そこは謝っておくとしよう。そして……安心しろ。お前は優しく殺してやる。痛みなんて感じないほどに。……そうだ。なんだったら、安楽死でも――――」
「いや、だ……」
ポツリと、言葉が漏れた。
完全に無意識だ。私自身、自分で自分が喋ったその言葉にびっくりする。
だけど、一度零れたその言葉を自覚すると、今度は自分の意思で感情が溢れる。
「…………嫌だっ!!」
叫んで、一目散に逃げ出した。
それしかない。私がこんな化け物相手に何ができる? 何もできない。まるで蚊を潰すように、いや、もっと簡単に殺されるに決まってる。そうなったら、なんのためにあの死神が戦ってくれたのかさえ、わからない。
だけど、悲しいかな。生まれてから一度も満足にスポーツをせず、散歩すら登下校の時間にしかしなかった私に、こんな極限状態で敵前逃亡するのは、些かハードルが高かった。動作自体は体育の授業で短距離走を走るのと変わらないのに、ちょっと精神的プレッシャーが掛かっただけで、簡単に転んでしまう。
足がもつれ、地に平伏した。
着ていた洋服も私の顔も、泥だらけになった。
……惨めだった。無様だった。情けなかった。カッコ悪かった。醜かった。汚かった。見苦しかった。みっともなかった。
おおよそ、『美しい』という概念とは、対極に位置する状況だった。
それでも――――
「嫌だ…………っ!!」
死にたくなかった。
生きたかった。生きていたかった。
惨めでも。無様でも。情けなくても。カッコ悪くても。醜くても。汚くても。見苦しくても。みっともなくても。
美しく、なくても。
それでも私は、生きたかった。
この世界を。
何もいいことなんて無くて。失敗だらけで。時間を重ねるごとに黒歴史が積もって。振り返るだけで恥ずかしくて。それでも、今を必死に足掻けるこの世界を。
眩しすぎる未来に期待できるこの世界を。
「私は……生きたいっ!!」
涙と泥でひどい有様になった顔で立ち上がる。せっかく卸したオシャレな服もボロボロだ。少し前の私なら、たったこれだけのことで世界を憎悪し、汚い言葉を並べていただろう。
だけど、今の私は違う。
変態で、変人で、嘘つきで、捻くれ者で……誰より優しい死神が、傍に居てくれたから。
だから私は。
今の私は、ちゃんと前を向いて歩いて行ける。
「私はこれから、幸せになるんだっ!」
目の前に居座る運命が。
私を殺そうとする神様が、憐憫の眼差しを向ける。
それでも、関係ない。
私は涙を流しながら、大声で泣き叫んだ。
「私はこれから、幸せになるんだよっ!
これからもずっと夕希と友達でいて!
絵の勉強をして、私の描いた絵で誰かを幸せにして!
センパイよりもずっと素敵な人を捉まえて結婚して!
そして、死ぬほど温かい家庭を築くんだ!
幸せになるんだっ!!
そうやって、運命に――神様に勝つんだ!
センパイの……センパイの仇を討ってやるんだっ!!」
運命に弄ばれ、神様に殺されたセンパイ。
このままここで死んだとして、向こうの世界で会ったセンパイに、なんと言えばいいのか。『私も運命に負けちゃいました』って、気弱に笑うのか? ふざけんな!
センパイの死を無駄になんてするもんか!
センパイの分まで、絶対私が幸せになってやる!
そのためにも――――
「私は絶っ対に、死んでなんかやらないっ!!!」
だから、それが私の意志。私の答え。
でも、ああ……どうしてだろう。
死ぬほど遠回りをして。信じられないほどすれ違って。時には下を向いたまま立ち止まって。それでもまた歩き出して……ようやく辿り着けた、この場所なのに。
私には…………力が無い。
目の前の絶望から、無理矢理に幸福を奪還する力が。
自分の運命を、自分だけで選択する力が。
私には、無い。
「……残念だったな。もう少し早く気づけたら良かったのに」
目の前の絶望が言う。それは何も間違ってなくて、実際、その通りだと思った。
悪いのは私だ。全責任は私にある。
私が、もっと早く、真剣に人生と向き合っていたら――――
「――――仮定の話をしたって、しょーがないぜ」
あり得ない声に、私も学園長も振り返る。
あれほどの重症を負って、それでもなお、死神は笑って見せた。
「過去と他人は変えられない――そんなことを言う人間が、僕は大っ嫌いなんだけどね。しかし実際、その通りだ。過去は変えることができない。だから、今を戦って、未来を変えるしかない」
「だったよね、淡居ちゃん?」と、死神がヘラヘラ笑う。
学園長が、ポールで地面に縫い付けられた死神へと歩を進めた。……きっと、トドメを刺すつもりなのだろう。
私に何もできないことは、誰が見ても明白だった。
それでも、もうこれ以上死神に危害を加えられるのが嫌で、必死に走り出そうとすると……死神がプラプラと片手を上げて止める。その顔は、今までに見たことのない種類の笑みで溢れ返っていた。
「……この状況でも笑えるとは、もはや感服するぞ。それとも、あれか。まだ切り札を隠し持っているのか?」
ニタニタと笑う死神が不快なのか、学園長が再び地面を蹴りつける。掲揚台から二本目のポールが飛んできた。
それを見ても、死神の笑みは消えない。
「……そうか。お前は幽霊だったな。単純な物理攻撃だと効果は薄いのか? よし。次は霊体殺しの効果も付与することにしよう。次が最後だ。何か、言い残すことはあるか?」
「それじゃあ、お言葉に甘えて。僕が笑っている理由でも説明させてもらおうかな?」
「……ふん。くだらん。どうせ、いつものハッタリだろうが」
「いいや。これは――――勝利の笑みだぜ」
私には死神が何を言っているのか解らなかった。絶体絶命の窮地を通り超し、もうとっくに〝詰んだ〟と表現してもいい場面のはずなのに――――。
学園長も始めは私と同じことを思ったようだ。しかし、すぐに私とは違うことに思い至ったらしい。弾かれたようにこちらを振り返る。
そして手元のポールを、死神ではなく私へと投擲した。
僅かにその動作が見えた瞬間……私はもう、死んでしまったと思った。先程見た時、音速とも思えたほどの速さだ。凡人の私にできることは何も無い。ポールに貫かれて、即死することを覚悟した。
しかし――――私は、生きていた。
目元数ミリ。その位置までポールの先端、切っ先が届いている。
でも、それ以上は進まない。私の体を傷つけない。
そして驚くことに……そのポールを止めていたのは、他でもない学園長だった。
「また……お前にしてやられた、ということか……」
学園長が苦虫を噛み潰したような顔になる。
死神は、血塗れの顔で笑った。
「相変わらず、読みが浅いぜ。まあ、貴女のそんな真っ直ぐさは、嫌いじゃないけどね」
学園長が私からポールを離す。戦意を失ったかのように、地面へと投げ捨てた。
何が起こったのか解らない。茫然としながら死神の方に目をやると、ニッコリと笑いながらネタバラシをしてくれた。
「時計を見てみなよ、淡居ちゃん」
のろのろと、時計を探す。あった。グラウンドのすぐ隣にある格技場の壁。そこに、グラウンドで活動する生徒に向けた時計が時を刻んでいる。
針が示す時刻は……午前零時……?
「そう、午前零時だ。あの時計には秒針が無いから判らないかもしれないけど、とっくに『二十四時』は過ぎている」
「えっと……つまり……?」
「つまり、もう君の運命は変わったってことだ」
私は今日……いや、〝昨日〟の、23時59分59秒までしか生きられなかったはずだ。
そんな私が、今も呼吸している。地に足を着いて立っている。生きて、いる。
「そう。もう君の運命は変わってしまった。ジョン・タイターの理論で言えば、『世界線が変わった』んだよ。この世界線の淡居ちゃんは、昨日の二十四時では死なない。死ぬ運命ではない。それなのに、そんな淡居ちゃんを殺しちゃったら……今度は学園長こそが、世界に仇をなす『邪魔者』になってしまう」
ちっ、と学園長が舌打ちをした。
「……最初から、これを狙っていたな? 私以外に邪魔が入らないこの場所で、私の足止めだけを考えた。私を打倒する気なんて微塵も無く、ただ己の命を懸けて、制限時間いっぱいまで戦いを引き延ばす算段だったんだな?」
「その通りさ。……いやー、ヒヤヒヤしたよ。バレるかどうかじゃなくて、時間まで〝僕が生き残れるかどうか〟でヒヤヒヤした。でも、どうやら成功したみたいだね?」
「……当然だろうが。あの【幻想戦】は、今でも覚えている。あんな戦い方ができるお前だぞ? 当然、私に勝つことを狙ってくると思う方が普通だろうが」
「……買い被り過ぎだよ。僕は卑怯と罠とズルを乱用して、狡い手でギリギリ勝ちを拾うくらいしかできない男だ。そんな小者には、我が身を犠牲にして、どうにかこうにか最愛の人を守るくらいが精一杯だったんだ」
「私からすれば、それ自体も信じられない話だがな。自分も相手も両方、と言うならともかく……己を犠牲にしてまで、お前が他人を助けるとは……」
「それを人間は、愛って呼ぶんだぜ」
「…………」
学園長はもう、完全に戦意を失ってしまったようだ。フラフラとグラウンドから出て行こうとする。アスファルトで舗装された自転車置き場に入る直前で、思い出したようにパチン、と指を弾いた。それを合図に、死神を貫通していたポールが砕けて消える。
そこまで事態が進行して、ようやく私の身体は動くようになった。
「……っ! 死神さん! 大丈夫ですかっ!?」
私は死神の元へと全力で走った。
ポールが消えても、傷が癒えるわけではない。死神の胴はポールの直径分だけぽっかりと穴が空き、そこからもおびただしい量の血が流れ続けている。テレビや映画でしか見る機会がなさそうな量の血に、私は一気に青ざめた。
「きゅっ、救急車を……っ! い、いえっ! それよりも止血……っ!」
清潔なタオルが望ましいが、残念ながらハンカチしか持っていない。どう考えても役不足だ。私は着ていた上着を脱いで、それでお腹の穴を塞ごうとした。そのままにしておくよりは、ずっとマシだろう。
しかし……死神が優しく私の手を握り、やんわりと拒否する。
「やめなよ、淡居ちゃん。せっかくの可愛い服が台無しになるぜ……。どうせ僕はもう、助からない」
「なっ、なにを言っているんですかっ! 絶対に大丈夫です! 気をしっかり持ってください!」
「いや……僕はもう、無理だよ……。だから最期に……淡居ちゃんのおっぱい、触ってもいい?」
「もうそんなものいくらでも触らせてあげますから、しっかりしてくださいっ!」
いつも通りのへらず口に安堵する。しかし……死神の手は一向に動かない。
それで悟る。もう……手を動かす余力さえ残っていないのだ……。
私は膝枕を作って、死神の頭を上に乗せた。ハンカチで傷を塞ぐことは出来ないが、せめて顔の血だけでも――――そう思って、血を拭うようにして長い前髪を持ち上げた。
その下から現れた素顔に……今度こそ私は、体が震えるほど驚愕した。
うそ…………嘘、だ…………。
だって……だって、この顔は――――
「セン……パイ…………?」
「あーあ。バレちゃった」
いつも通りのヘラヘラとした笑顔。口元は同じ。だけど……長い前髪が取り除かれ、その下から現れた童顔と組み合わさると……途端に子供っぽい笑顔へと様変わりする。
私はフリーズした。脳みそを直接ハンマーで殴られたような衝撃が駆け抜ける。頭の中は真っ白。その片隅で、ここ一週間の出来事が走馬灯のように思い返されていた。
「……あれ? 泣いてるの、淡居ちゃん?」
死神が言う。まるで幽霊が成仏するみたいに薄くなっていく体で、イタズラを思いついた子供のようにニヤニヤする。
「…………泣いてません」
「嘘だね。目元、光ってるよ? 嘘をつくなんて信じられないな。真っ当な人間がすることじゃないよ。万死に値する」
その物言いに、私は思わず噴き出してしまう。
きっと私の顔は、涙と泥とよくわからない笑顔で、酷い有様だ。
「……ずっと私のこと、騙してたんですね」
「なんのことかな?」
「……センパイ、そんなキャラじゃなかったでしょう」
「そうだっけ?」
「……なんですか、人生終了って」
「僕の名前だよ?」
「……私のスカート、捲りましたよね」
「責任取って結婚しようか?」
「……っ。センパイ……っ!」
センパイ。
センパイ。センパイ。センパイ。
私は、ずっと……。
ずっと、ずっと、ずっと――――
「私はずっと、貴方のことが大好きでした…………っ!」
それは、私が、ずっと言えなかった言葉。
一年前の六月に、置いてきてしまった言葉。
あまりの残酷な現実に鍵を閉め、忘却という名の封印を施した言葉。
ずっと言いたかった……私の、本心。
それを聞いた死神は、まるで世界一の幸せ者であるかのように微笑んだ。
「僕も大好きだよ、淡居ちゃん。死ぬまでも、死んでからも、消滅した後も……ずっとずっと、君だけを愛しているぜ」
死神の体が消える。
僅かに残った光の残滓が、私を導くように、天へと昇っていった。