第六章 ヒロイック・フライデー
金曜日は金曜日だ。
それ以上でもそれ以下でもない。もしそれ以上やそれ以下だったとしても、私には関係ない。興味も無い。
朝、同じ時間に目を覚ます。
必要最低限以下にまで絞り込まれた、圧倒的に物が無い私の部屋。
洗面所で顔を洗い、その場でちょっとの水と手櫛だけで髪形を整える。
変わり映えのしない、いつもと同じ制服に袖を通す。
ほとんど中身を入れ替えない、形式だけの鞄を掴んでドアを開けた。
そこに死神を名乗る不審な男がいても、関係ない。その男が私に付き纏っても、興味は無い。
いつもと同じ無人の商店街を通り抜け、一切の無駄なく学園に直行する。
「おー、淡居ー。おはよーさん」
校門で挨拶する学園長に黙礼。喋らないでいい場面では、可能な限り喋らない。
教室に入る時も無言。挨拶はしない。
自分の席に静かに座り、机の中から一時間目の授業に使う教科書とノートを引っ張り出す。そして、予習。
席を立つのはトレイに行く必要がある時だけ。それ以外は一歩も動かず、何も話さず、視線も上げないで、ただひたすら教科書の問題を解く。
「…………おはよう、美空」
と、しかし今日はいつもとは違い、声がかかった。
相手は、雪城夕希。このクラスの中心的な女生徒。まるで今時の女子高生を体現したかのようなオシャレな容姿と、文武両道を地で行く素晴らしい学生だ。
「……おはようございます、雪城さん」
私の挨拶に、雪城の表情が固まった。
パッチリした強気なツリ目を、少しだけ不安そうに下げながら、続けて訊いてくる。
「…………美空、なにかあった?」
「なにもありませんよ」
ニッコリと笑顔で返す。
作り笑いなんて慣れたものだ。面倒なことこの上ないが、無表情や素の表情で対応すると、対人関係ではより面倒な問題が発生する可能性の方が高い。だから、多少辛くても、無理して営業スマイルを浮かべておく方が、最終的に一番被害が少ないのである。
「…………そ、そう」
クラスの人気者で、私なんかとはとてもじゃないけど釣り合わない彼女が、なにかとても傷ついたみたいに視線を床に落とした。
……彼女みたいな人間は、私と関わるべきではない。せっかくクラスメイトから良い評判を得ているのに、マイナスの人間と付き合ってしまえば、それだけで集団の輪から弾かれてしまう。……本人に変わりがなくても。
「ごめんなさい。私、ちょっと予習したいんです。もし用事がないなら、続きをさせてもらってもいいですか?」
「…………う、うん」
そうして私が視線を手元に戻し、ひたすら教科書の問題を解く作業に戻っても、雪城はしばらく私の席の近くから動かなかった。
だが、そこは人気者の彼女。遠くで、クラスでもオシャレな部類に入る女の子が「雪城さーん」と呼ぶと、そちらの方へ歩いていった。
これでいい。これが正解。有るべき姿。
私はずっと、こうして来たじゃないか。まるで空気みたいに。ここに居るのに居ない存在として、ただただ無害に、無関心に、無感動に、日常の作業をこなすだけの幽霊。
ここ最近の私の方がおかしかったのだ。これでやっと、私はいつもの私に戻れる。
不審なストーカー男は、相変わらず窓際に背を預けてこちらを見ている。
だが、関係ない。一言も喋らず、私に干渉しないなら、さらに関係ない。
そうやって私は一時間目の授業を受け、二時間目の授業を受け、三時間目の授業を受け、四時間目の授業を受けて、昼休みを迎えた。
お昼は……〝屋上〟でサンドイッチと決めている。
風が冷たい。貯水タンクの壁を利用してどうにか凌いでいるけれど、今年もこの屋上で食事を摂れるのは、あと少しかもしれない。
気温の関係で屋上での食事が難しくなった場合、私は屋上に続く扉の前、階段の踊り場で食事を摂ることにしている。扉一枚の差とはいえ、それでも私は、できるだけ屋上で食事を摂りたい。なぜなら……。…………。……それが、私のルーティーンだからだ。
相変わらず、私のすぐ隣には不審なストーカー男がいる。彼は私のルーティーンには含まれていない。ただ、何もしないので、別段私も文句を言うことはなかった。
昔はこんな空っぽで無益で無為な毎日が、一体いつまで続くのだろうと思っていた。
それはある意味、恐怖にも似た感情だったのだ。
しかし……今は違う。今は、ちゃんと終わりが見えている。
私の終わりは、明日の二十四時。それまで、これまで通りのルーティーンに従って行動し、ゴールテープを切る。それで、私の長かった旅路も、ようやく終わりを告げる。
……と、そんなことを考えながら、サンドイッチの最後の一欠片を口に運んだ時だった。
屋上へと続く扉がゆっくりと開いたのだ。
朝霧学園の屋上が立ち入り禁止になってしまったことは、全生徒が知っている。だから去年の五月以降、この屋上に続く扉を無理矢理に開けようとする生徒はいなくなっていた。よって私も、積極的にその扉を施錠しなくなったのである。
油断した。なんと言い訳しようか。
それとも、言い訳すまいか。
ただただ黙って、居るのに居ないフリをして、ずっと空っぽな瞳のまま、ボーっとしていようか。そうすれば、さすがに相手も諦めざるを得ない。
そう決心して虚空を見つめていた私だが、その戦略は侵入者の顔を見た瞬間に、無意味なものとなってしまった。
「…………やっぱり、ここだった」
入ってきたのは、雪城だったのだ。
「……どうかしたんですか?」
私はニッコリとした笑顔で答える。嘘で塗り固められた営業スマイル。
「…………っ」
そんな私の顔を見て、雪城はひどく傷ついたような表情をした。
……わかってる。この娘は、弱い。
これほど華のある外見をして、学園二位の頭脳を有し、二年連続でインターハイに出場するほどの剣道の腕を持ちながらも……その内にある心はとても繊細で、ガラス細工みたいな女の子なのだ。昨日まで普通に話していた友達がいきなり豹変し、態度を変えたりすれば……そんな脆い心は粉々に砕けてしまうだろう。
それを正確に理解しておきながら、その上で私は今の態度をとっているのだ。……そんな優しくない人間、私は嫌いだ。そんな人間に価値は無い。社会のゴミ。生きているだけで他人に迷惑を与えてしまう。そんな私に、私は素直に「死ねよ」と言いたい。
「…………昨日、なにかあったの?」
「……なにも。申し訳ないのですが、今は一人になりたい気分なので、放っておいてもらえませんか? 雪城さん」
「…………っ」
雪城のチャームポイントなツリ目に、うっすらと涙が滲む。体は、寒さとは別の理由で小刻みに震えていた。
それでも。
「……………………嫌、だ」
それでも雪城は、そう答えた。
「…………今の美空は、サヤがいなくなった時のヒロと同じ目をしてる。あの時のヒロも、一人にしてほしいって言った。わたしは、ヒロのために、ちゃんと一人にしてあげた」
ヒロというのは、雪城とサヤの共通の友達だろうか?
「……それじゃあ私も、一人にしてもらえませんか?」
この上なく嘘くさい笑顔でそうお願いすると、雪城はフルフルと首を振った。
「……あの時のヒロは、きっと、誰かに傍にいてほしかったんだと思う。それを言えなかったのか、自覚してなかったのかはわからないけど……それでも、わたしにはちゃんと、誰かに傍にいてほしいんだって、わかってた」
「…………」
「……それなのに、わたしはヒロを一人にしてしまった。……ヒロのためだって、嘘ついて。ほんとは……わたしが傍にいることで、ヒロに嫌われてしまうんじゃないかって、それが怖かっただけなのに……」
その気持ちは、きっと今も同じなのだろう。
震える左肩を叱咤するように右手で握り締め、うすく滲む涙を何度も制服の袖で払いのける。
「だから……わたしはもう、二度と同じ失敗はしない。美空の傍にいる。たとえ……美空がわたしのことを嫌いになっても。それでも……美空が、ほんの少しでも元気になってくれるなら……!」
真っ直ぐに私を見つめる夕希の瞳を、私は心底きれいだな、と思った。
こんな現実味のない女の子が本当に存在していたなんて。まるで、男の子に都合のいいマンガやゲームから、そのまま抜け出してきたような女の子だ。
もう、無理だった。
人生初の友達ができてしまったせいで、私の心も、すっかり弱くなってしまったらしい。
「夕希…………っ」
私は、夕希の胸へと飛び込んだ。
「…………そう。昔のことを、思い出したんだ」
それから私は夕希の胸に抱かれたまま、ぽつぽつと事情を話した。
さすがに死神のことは言えない。信じてもらえないだろうから。加えて、私が育った家庭のことや、初めて好きになったセンパイが亡くなってしまったことも、言えなかった。もう、思い出すだけでも辛い。口にしたら、きっとショック死してしまう。
だから、結局私が言えたことは、昔に辛いことがあって、それを思い出してしまったという、たったそれだけだ。夕希からしてみれば、まったくもって意味不明だろうし、もっと詳しく事情を話してほしいと思うだろう。
それなのに、夕希は私を胸に抱いたまま、自分からはなんにも訊かないで、ただただ私の話を聴いてくれた。
…………温かい。
夕希の体はとても温かくて、いい匂いがした。十七歳の女の子にこんなことを言うのは失礼だと重々承知しているが、それでも私は「もしお母さんに抱っこされたら、こんな感じなのかな……」と思っていた。私は、生まれてから一度も、誰かに抱き締めてもらったことが無かったから。
「…………美空?」
「夕希……恥ずかしいから、そろそろ離してもらえない?」
「……ダメ。もう少し、このままでいる」
ダメって。どんな百合シチュだよ。私がガチレズだったら変態……いや、大変なことになっていたぞ。
他人の優しさに触れるのは、慣れていない。正直、夕希の腕と胸に抱かれているのは、非常に気持ちよかったんだけど……幸せでおかしくなりそうだ。あれだ。きっと、麻薬とかキメるとこんな感じになるんだと思う。
よって私は、強制脱出を試みる。
「……夕希って、胸おっきいよね。何カップ? すっごく柔らかいし、きっと男の子の理想だと思うよ。ちょっと揉んでみていい?」
「…………離れて」
あん。いけずー。
先程のやりとりがなんだったのかと思うほど、あっさりと解放される。ついで、恨みがましいジト目を向けられた。……可愛い。ほんとに夕希は可愛い。もし私が男だったら、嫁と彼女と愛人と幼馴染、あとは妹に任命したいくらいである。
「…………ありがとう」
ともあれ、強制脱出は成功したので、ちゃんとお礼を言っておく。
人生でも初めてと言っていいほど正直に心中を吐露した挙句、先程まで抱き締められていたので超恥ずかしかった。なので、視線だけ横に逃げていたけど、そこは勘弁してほしい。
「……ううん。全然いいよ。美空も前にわたしのこと、励ましてくれたから」
「あれは…………」
たぶん、最初に話しかけた時の、サヤさんとやらのことを言っているのだろう。
今思えば、めちゃくちゃ無責任な発言だったと思う。私自身、未だにセンパイのことを引き摺りまくっているのに、随分と偉そうなことを言ってしまった。
「……ごめん。あの時言ったことは、忘れて。正直、夕希と初めて話してテンパってたから、なにも考えてなかった。本当に、ごめん」
「……そうなの? でも、わたしは元気になったから。特に、『人はいつか死ぬから、精一杯生きるんだ』って言葉は気に入った。……そうだよね。誰だっていつかは、死んじゃうんだよね。だから、ちゃんとそれを自覚して、がんばらなきゃダメだよね」
はにかむような気弱な笑顔。だけど私には、その笑顔がとても強いものに見えた。
人間は、いつか死ぬ。
夕希と初めて話した時、何も考えずに言った私の言葉。
そうだ。人間は、いつか死ぬんだ。サヤさんが死んだのは、たまたまその時で。センパイが死んだのは、たまたま文化祭の翌日で。私が死ぬのは、たまたま明日なだけなんだ。
それを理不尽だと喚くのは……きっと、間違っている。
だって、人間はいつか死ぬんだから。その〝いつか〟が、ある日、突然にやって来るだけで、本人が心の準備をしていなかったからって、それに文句を言うのは間違っている。
…………だけど。
それでも、最期の最後、自分が死ぬその瞬間まで足掻き、喚き散らし、精一杯生きることは……きっと、間違っていない。精一杯生きるのは、間違いなんかじゃない。
「ありがとう、夕希。お陰で、元気出た」
「…………そう。よかった」
「もうすぐお昼休み終わるね。私はちょっとやりたいことがあるから、悪いけど先に戻っててくれないかな?」
「……もう、大丈夫なの?」
「うん。今度は、ほんとに大丈夫。その証拠に、敬語使ってないでしょ?」
言われて気付いたのか、夕希は一瞬びっくりしたように目を見開き、次いで、世界一幸せそうに微笑んだ。
「……わかった。先に戻ってる。また、ね」
「うん、また」
可愛く手のひらを振って、夕希が校舎へ入っていく。
誰かに「またね」と言ったのは、人生で初めてのことだ。私は、始めて月に立った人間を見るような目で、自分が夕希に振った右手を見つめた。
「……おい、死神。いるんだろ」
そして、声をかける。
私の運命に。魂を刈り取る死神に。
「…………なにかな?」
サンドイッチを食べていた時には確かに隣にいたはずの死神が、貯水タンクを挟んだ反対側の壁から現れる。
私と夕希に気を遣っていたのだろうか……?
いや、こいつはそんな優しい奴じゃない。きっと、面倒だから距離を置いていたか、単純に、ただそっちに行きたい気分だったのだろう。
だけど、そんなことは私にとって、どうでもよかった。そんなことは関係無い。興味も無い。私が、関心があるのは――――
「いいか、死神。よーく聴け」
私は死神を真っ直ぐに見つめた。
腹の底まで息を吸い込んで、力を溜める。
――――戦う力を。
この理不尽な世界と、不条理な運命に、抗う力を。
「私は――――生きる!!!!」
普段の私からは考えられないほど大きな声。
普段の私からは考えられないほどの発言内容。
そんな言葉に驚いたのか、死神の体がビクンと跳ねた。
「運命なんて知ったことか! 神様なんてぶっ殺してやる! 死神だって、股間を蹴り上げてやるよ!
メチャクチャな家庭に産み落とされて! 初恋のセンパイは死んじゃって! もう、笑えるくらい不幸だよ! その上、十七歳の身空で死亡だって? ふざけんな! いい加減にしろっ! どれだけ人の人生を弄んだら気が済むんだ! これから先、私の人生は私が決める! お前らなんかに任せておけるかっ!」
叫ぶ。十七年間溜め込んできたストレスを、爆発させるように。
手を振り払い、拳を握り、前に出る。
ブチキレたまま。無慈悲な神に逆ギレして。
目の前の死神さえも圧倒するほどに力強く。
歯を食い縛り、地面を踏みつけ、獰猛なヒョウのように、私は吼える。
「いいか、死神! 私はここから、幸せになるぞ!?
ずっと夕希と仲良しなまま! 絵の勉強して、画家になって! 私の描いた絵で、誰かを幸せにして! センパイよりもずっと素敵な人を捉まえて結婚するんだ! 私が育った家庭とは正反対の、死ぬほど幸せな家庭を築いてやるよ! わかったかっ、死神! 私はなぁ! お前に連れられてあの世に行ってるほど、ヒマじゃないんだっ!!」
明日が私の命日だって? ふざけんな!
私にはまだまだ、やりたいことがあるんだ!
これだけ酷い人生送って! 惨めな思いをさせられて!
それで、明日死亡です、って、納得できるわけねぇだろっ!
私はこれから、幸せになるんだ!
これまで不幸だった分を帳消しにできるくらい、この地上の誰よりもぶっ飛んで幸せになるんだよっ!!
そのためにもっ!!
「私は絶対、死んでやらないっ!!!!!」
無慈悲な神様。理不尽な運命。与えられない幸運。
そんなものには、もう頼らん。そいつらまとめて敵に回してでも、戦ってやる!
この世界で。
いいことなんて何一つ無い、この世界で。
奇跡なんて欠片も起こらない、理不尽で不条理で無慈悲な、この世界で。
「私はこれからも、生きるんだっ!!!!!」
犬歯を剥いて死神を怒鳴りつけながら、私は涙を流していた。
どうして自分が泣いているのかわからない。それでも、構わなかった。
どれだけ惨めでも。無様でも。情けなくても。……もう、どうでもいい。
もう二度と、カッコつけてスカした態度なんて、とったりしない。どれほど醜く不恰好でも、最期まで足掻いてやる。精一杯、生きてやる。
「……………………」
はあ……はあ……と、肩で息をする私の正面で、死神は顔を伏せ、私の言葉に耳を傾けていたようだ。たっぷりと十秒間は黙考した後、ゆっくりと顔を持ち上げ、私を正面から見つめてきた。
「それが君の……素直な気持ちなんだね」
「……ああ。文句あるか?」
「……ないよ。全然無い。人がなにを考え、なにを思うかなんて、完全にその人の自由さ。たとえ僕みたいな超常存在が相対したところで、その権利を侵害できるはずもない」
けれどね、と死神は言った。
「神サマが決めた運命は絶対なんだよ? 君は明日の二十四時に、必ず死ぬんだ。仕方ないんだよ。それが運命なんだから」
「…………いやだ」
神の宣告を邪魔するような呟きに、死神が押し黙る。
「そうやってお前らは、無抵抗な私から、多くのものを奪って行ったんだ。……もう、たくさんだ。これ以上、お前らに献上するものは何も無い。返してもらう。私の――人生を」
それは私が、生まれて初めて、運命に抗った瞬間だった。
これまでずっと、何か問題が起きる度、いつも地面にひれ伏して、ただ嵐が通り過ぎるのを待っていた。そんな私が、初めて立ち上がった瞬間だった。
私は生まれて初めて、神様にケンカを売った。
「…………ふっ」
そんな私が面白かったのか、死神の表情が弛み、堪え切れなかったかのように笑い出す。
「あはは。ほんっと、淡居ちゃんって面白いよねー。普通、そこまで辛い目にあったら、もうさっさと死んじゃいたいって思う方が常道だろうに」
「今まで私の何を見ていたんだ。私は邪道なんだよ。それも、とびっきりの捻くれ者だ。もう、捻じ切れてもおかしくない」
「確かにね。以前、僕を捻くれ者呼ばわりしてくれたけど、今思えば光栄なことだと思うぜ。キンブ・オブ・捻くれストたる淡居ちゃんから、誉れ高い王冠を頂いたんだからね」
「そいつはどーも。その栄誉にあやかって、私の運命も一つ、変えてもらえませんかね?」
「うーん。そうだねぇ……」なんて、死神が顎に手をやって考えているフリをする。
あの真面目な無表情はどこへやら。今では、すっかりいつものヘラヘラ顔に戻っていた。
「ほんとは、こんなことしちゃいけないんだけどねー。でも、僕は淡居ちゃんを愛しちゃってるしぃー? そこは惚れた弱みというか、可愛い女の子のお願いになびいちゃったりするのも男の甲斐性というか、仕方ない部分な気もするよねぇー」
もうとっくに結論は出ているだろうに、長々と間をとる。
腹は立つが、これでいい。こいつはこういう奴だ。神妙な顔して黙っている方が、よっぽど心臓に悪い。
「……よし。じゃあ、こうしよう。僕から条件を二つ出す。それを淡居ちゃんが呑んでくれるなら、僕は今回、淡居ちゃんの命を見逃すことにするよ」
底が知れない、いつものヘラヘラ顔でそんなことを言い出す死神。緊張感など全く無い。
てっきり、もっとごねられると思っていた。だって、人間一人の運命を変えるのだ。私自身、そんな大それたことがそう簡単にできるとは思っていなかったし、まして、目の前のこいつが、そんなことを簡単に許容するとも思っていなかった。
……いや、そうか。つまり、その二つの条件で無理難題を吹っかけ、私を諦めさせる戦略だな?
「……わかりました。その二つの条件、受けます」
「決断早いなぁー。経営者タイプだ、淡居ちゃん」
うるせぇ! こっちは元より、そうするしかねーんだよ!
ここで断ったら、他に生き残る手段は皆無だろうがっ!
「じゃあ、一つ目の条件だ。一つ目は……今回、君の運命を変えて生きることにしたら、『もう二度とその決定を覆さないこと』、だ」
「…………」
「人の運命を変えるってのは、存外疲れるものなんだよ。人間は感情の生き物だと言うけれど、だからって、その時々の感情でコロコロと決定を変えられたら、こっちとしても堪ったもんじゃない。だから、今回『生きる』と決めたなら、今後、永遠に君は『生きる』を選択し続けてくれ。……もちろん、次に神サマに殺される、その日まで」
「……わかりました」
当たり前のようで、簡単なようで、しかし、何よりもキツい条件だと思った。
これから何があっても『生きる』を選択し続けろ、と言われて何の抵抗も感じない人間は、これまでの人生が幸せだった人間だ。私は過去、死んだ方が余程マシな場面に何度も出くわしてきた。そんな私にとってこの条件を呑むことは、ある意味、今すぐ死ぬことを決断する以上に大変なことだった。
「そっか。よかったよ。実はこっちの条件の方が、淡居ちゃんにとってキツいと思っていたからね。受けてもらえないなら、こっちの方だと思っていたんだ」
その言葉に、不安になる。
こいつの言葉を鵜呑みにしちゃダメだ。呼吸をするように嘘をつく詐欺師で、捉えどころの無い煙みたいな奴なんだから。
「それじゃあ、二つ目の条件を言うね。二つ目は――――」
私は身構える。
次の瞬間、言葉じゃなくて凶器が飛んでくる可能性も大いにあった。そんなことを平然とやってのけそうな、信用ならない奴である。
そうして死神は、私に二つ目の条件を告げた。
「明日、僕とデートしてよっ」
ほら見ろ。無理難題じゃないか。でも、よかった。刃物が飛んできて、その時点でゲームオーバー、なんてオチじゃなかったから。ふう。でも、困ったな。デートなんて、私にできるはずがない。どうすればいいんだろう。お金を払って人を雇うか、時間を使って努力するか……。
「…………って、え?」
確かに二つ目の条件は突拍子もないものだったが、私が想像していた方向とは大きく異なっていた。