第五章 忘却の木曜日
「淡居ちゃん、おっはー! ねえ! 起きてってば!」
ゆさゆさ。ゆさゆさ。私の体が揺すられる。
木曜日は……といういつもの考察をする暇さえ与えてもらえない。っていうか、私はまだ起きていない。現在進行形で私の体はベッドに横たわっているし、瞼は閉じたままだ。
「……それなのに、どうして死神が私の部屋に……?」
寝惚け眼を無理矢理に開いて、ぼけーっと視線を向けると、「そんなことより、これを見てよ!」と死神が私にノートパソコンを向けてきた。バックライトが超眩しい。
そのノートパソコンは私の所有物だった。たまに調べ物をするくらいで、全然活用できていない電子系家具。近々ネット契約も解除してしまおうかと思っていたそれが、インターネットページを映し出している。
右下にある時計を確認すると、なんとまだ午前四時だった。何を考えているんだ、こいつは……。
開かれているページは……pixiv? ピ……なんて読むんだよ?
「ピクシブだよ、ピクシブ。イラスト投稿に特化したソーシャル・ネットワーキング・サービス。そして、これを見てよ!」
「なっ…………!」
ページがスクロールされて映し出された絵に、私の眠気は一気に吹っ飛んだ。
そこに映されているのは、私の絵だ。
昨日、屋上でノートの後ろのページに描いた無価値なラクガキ。それが、ピクシブに投稿されている。
さらに驚いたのは、閲覧数がいくつかあり、もっと驚いたのは、コメントが一件あったことだ。たった一言。『わー! すっごくキレイです!』。だが、その僅か一行のコメントが、私の胸を打つ。
「ねっ? すごいでしょ? やっぱり才能ってのは、他人に見せてみないとわからないんだよ」
「……どうして、これを」
「もちろん、僕が必死になって林を探したに決まってるじゃない。いやー、苦労したよ。あんな小さく丸められた紙を見つけるのは」
死神がそんな風にヘラヘラしている間も、私の視線はパソコンの画面に釘付けのままだ。
ぐちゃぐちゃに丸めてしまったからだろう。丹精に伸ばしてスキャニングしてあるが、ところどころシワが目立つ。ただでさえやる気の無い鉛筆描きで、意味不明な絵。その上、画像までロクなクオリティじゃないのに、それでも感想が一件ついている。それも、肯定的なものが。
「…………信じられません」
私の視線は未だパソコンから離れない。
そんなこと、無理だと思っていた。私だって、昔はボンヤリと夢想したことがある。私の描いた絵が褒められ、私の描いた絵で誰かを幸せにする幻を。だけど、そんなことは不可能だと思っていた。
だって、私にそんな才能は無い。
絵を描いて人を喜ばせるなんて、神様に選ばれた一握りの天才だけが許された権利だと思っていたのだ。こんな、まともな人生すらロクに送れていない私が、そんな神々しいこと、できるはずがない。
だけど……私の目は、初めて飛行機で空を飛んだ人間を見るかのように、パソコンの画面を凝視し続けていた。
簡素なコメント。『わー! すっごくキレイです!』の一言。
そのコメントを、パソコンの画面に穴が空くんじゃないかと思うほど、見つめ続ける。
「……夢を持てって言ったけど、それは別に将来なりたい職業を見つけろってことじゃないんだよ。そもそも、『夢=お金を稼ぐ職業』っていうのが変な話だからね。夢っていうのはもっとシンプルで、一見、無価値に思える欲求なのさ。たとえば……『自分の描いた絵で誰かを喜ばせたい』、とかね」
死神が笑う。
今まで嫌になるほど見てきたこいつの笑み。だけど……たくさん見てきた笑みの中で、出会ってから初めて、こいつの優しい笑顔を見た気がする。
「…………死神さん」
「なにかな?」
私はせり上がる気持ちに押し潰されて声が出ない。
だけど、これだけは言わねばならないと思い、一生懸命に喉を開いた。
「……女子高生の寝室に無断で入るなんてサイテーです。死んでください」
「そっち!?」
たとえこの状況でも、やっていいことと悪いことはある。
それから私は、夢中で鉛筆を走らせた。
パジャマから着替えることもせず、顔も洗わず、電気も点けず、暖房も入れないで、ただただノートの裏に意味不明なラクガキを描き続けた。
描き上がったラクガキは「僕はパシリじゃないんだよ……?」と不満げな死神に渡し、近くのコンビニでスキャンしてもらう。そしてそれを、何枚もピクシブに投稿し続けた。
驚くことに、全てのラクガキに最低でも一件はコメントがつく。閲覧数も上々だったが、そっちにはあまり興味が持てない。それよりも、たとえダメ出しが飛んできたとしても、コメントで感想をもらえる方が嬉しかった。
びっくりした。私の描いたラクガキを喜んでもらえることが、こんなにも嬉しいことだったなんて、本当にびっくりした。
私が描いたラクガキは、本当に意味不明だったと思う。変な怪獣や、どこかの異次元や、近未来的なマシンや、存在し得ないルックスの人間など、ただただ私の無源物質を排出し続けた。
人生でこんなにも何かに夢中になったことは無い。だから、気づかなかった。
とっくに登校時間が過ぎていたことに。
「……なんで、教えてくれなかったんですか……!」
数年振りに体育以外で全力疾走しながら、死神に悪態をつく。
あの時の優しげな笑顔はどこへやら。そんな風に取り乱す私に対して、死神はいつも通りのヘラヘラとした嘘くさい笑みを浮かべる。
「いやー。せっかく淡居ちゃんが楽しそうにお絵描きしてるのに、邪魔しちゃ悪いと思ってさ。あと、パジャマ姿の淡居ちゃんをもっと見ていたくて」
絶対に後ろの方が本音だな。おっしゃ、ぶっ殺す。
「ひどいよー。僕は淡居ちゃんのためを思ってピクシブにうpしてあげたのにー。なんだったら、あのお礼として、裸Yシャツでコーヒーを入れてもらうくらいのサービスは請求してもいいと思うんだ」
お前、私にどんなキャラ期待してんだよ。
どう考えてもそんなシチュエーション、私には似合わないだろ。寝間着もパジャマだし。
「いやいや、淡居ちゃんが着痩せするタイプだってのは十分わかったからさ。パジャマの隙間から見えるチラリズムと言ったら、もう……っ!」
「…………っ!」
ぶん、と私の鞄が空を切る。
走りながら連躯を利用して打撃を打つなんて真似は、さすがの私にもできなかった。
そんなアホなことをしながらも、走った甲斐があって、ギリギリ朝のHRには間に合った。柄にもなく慌てて扉を引いて教室に滑り込んだため、クラス中から視線が集まる。
くっ……! 普段はかなり余裕をもって登校している上、気品漂う優雅な物腰でもって着席しているのに……!
「いや、確かに時間的余裕は十分にあるけど、気品や優雅さはいつも通りだと思うよ?」
私は羞恥に染まる頬を自覚しつつ、かつかつと歩いて自分の席に座った。
すぐに担任の教師が教室に入ってきてHRが始まる。
ふう……。朝から恥をかいたのはアレだが、なんとか間に合ってよかった。もうすぐ死ぬ身とはいえ、私はルーティーンをこよなく愛する人間なのだ。最後までありふれた日常を送っていたい。ぜぇ……ぜぇ……。
「ありふれた生徒は朝から息を切らせて机に突っ伏すなんて真似、しないと思うけどね」
うるせぇ……。お前のせいなんだぞ……。ぜはー。ぜはー。
「今回ばかりは冤罪だと、切に主張したいよ」
担任がHRを進める間も心中で死神と会話する。慣れたものだ。もはやこれも普段通りの日常となりつつあるな。
ちょっと思い立って夕希の方を向いてみると、夕希も夕希で慌しく登校してきた私の方が気になるのか、チラチラと振り返っていた。
ああ……。今日も夕希は可愛いな。美人だな。美少女だな。……ふう。落ち着いた。
「確かにそうだよね。淡居ちゃんみたいな野暮ったい丈のスカートを捲るのも好きだけど、やっぱり王道は、彼女みたいな見えそうで見えないヒラヒラだと思うよ。……今度、風が吹いたタイミングで捲ってみようかな?」
わかってると思うが、もしそんなことをしたら、冗談抜きでお前のアレ、潰すからな?
お? わかってんのか? 今回はマジだぞ? プチッと潰すぞ?
「……冗談に聞こえないところが怖いよね」
死神がブルーな顔で呟く。よくよく考えてみれば、死神を脅したりブルーな気持ちにさせたりする人間なんて、私が人類史上初なんじゃないだろうか。
「ところでさっ、淡居ちゃん。今、どんな気分だい? 幸せ?」
「……………………」
何の脈略も無く切り出されたその質問に、私は思わず閉口してしまった。
正直、悪い気分ではない。
なんとなくだけど、私なりの〝美しい死〟というのも見えてきた。
私は最期に、絵を遺したいと思う。
これまでの人生、ロクなことがなくて。本当に、しんどいことばかりで。いいことなんていっこもない、常に不幸と隣り合わせだった私の世界。
そんな場所で、いつも情緒不安定だった私が思い描いた架空のセカイ。ニセモノの理想郷。そんなものを、遺してみたいと思った。
だけど……それで『幸せ』だと言ってしまうのは、なんとなく抵抗を感じる。
もしここで『幸せ』だと言ってしまったら、私の過去のあれこれが帳消しになるような気がするのだ。……今日まで、本当にしんどかった。辛かった。誰にも言えず、誰にも助けてもらえず、ずっと一人で、孤独に地獄を耐え抜いてきた。
それなのに、この程度のことで『幸せ』だと言ってしまったら。
この程度のことで、過去のあれこれを赦し、『なかったこと』にしてしまったら。
そんな風に考えると、どうしても私は「幸せです」と答えられなかった。
「……オーケー。なんとなく、淡居ちゃんの気持ちは解ったよ。残り時間はもう三日しかない。そろそろ、仕上げと行こう」
そう言って死神は、HR終了後に保健室に向かうようにと私に指示した。
そんな言葉に、私は素直に従ってしまった。
やっぱり……浮かれていたのかもしれない。人生で初めて見た夢に。
私は、忘れていたのだ。
彼が〝死神〟だということを――――
「よし。ちょうど誰もいないみたいだね。それじゃあ、淡居ちゃん。僕と一緒に青春の一ページでも刻もうか」
死神はそう言って、制服姿の私を保健室のベッドに押し倒そうとしてくる。
当然ながら、ナチュラルに急所へと蹴りが入った。もはや、慣れたものだ。
しかしながら、相手の方はそうでもないらしい。もう幾度となく繰り返したというのに、相変わらず両手で股間を押さえつけて、その場に蹲った。
「……あ、あのね? ここは男にとって急所というか、慣れるとか慣れないとかの問題ではなくてね……?」
「……どう考えてもあなたの方が悪いでしょう。何を考えているんですか」
「いや、だからさ。人と繋がりを持って、夢も見つかり、淡居ちゃんはもう、感情的には充分に満たされたはずだ。そんな淡居ちゃんをさらに幸せにするために、今度は肉体的に満たされてもらおうかと――」
ふう。バカだな、こいつも。そんなことを言えば、どうなるかなんて簡単に予想がつくだろうに。
そんなわけで、私の足は相変わらず地面についたまま微動だにしていないが、天罰が下ったらしい死神が地面に崩れ落ちてもがき苦しむ。
「~~~~~っ! や、やりすぎ、だよ、淡居、ちゃん……! いくら、なんでも、ココの、攻撃に、連躯を、使うなんて……っ!」
なにか言ってる。
ふう。私は何もしていないのに、相変わらず意味不明だなー。不思議だなー。
「うぐぐ……っ。こ、このままじゃ、いつまで経っても先に進まないから、そろそろ行くよ……。ほら、ベッドに横になって……」
「……この期に及んで、まだ足りないなんて」
「違う! 違うよ!? 僕は別にえっちぃ意味でそんなことを言ってるんじゃなく、前みたいに異空間に連れて行くから、倒れないためにベッドに横になってって言ってるだけなんだよっ!?」
死神が可哀想なほどビクビクしながら説明した。
最初からそう言えばいいのに。ここまでの前フリはなんだったんだ。
「……いやもちろん、あわよくば、って気持ちはあったんだけどね……? ほんと、本来なら、最期の瞬間に一緒に居る異性とは恋に落ちやすいからさ……」
それを私に期待する方がどうかしている。いい加減に学べ。私はこう見えても、貞操観念が固いんだ。その辺のビッチと一緒にするんじゃねぇ。
「まっ、それでこそ淡居ちゃんなんだけどね。処女厨な僕の好み、ど真ん中だよ。愛してるぜ、淡居ちゃん」
もう面倒なので、死神のそんな言葉は無視してベッドに横になる。
また隙を突いて襲いかかってくるかと思ったが、さすがにもう、そんなことはしなかった。
パチンと指を弾く音が鳴り響き、いつかと同じく、私の視界を通して見る世界が遠ざかっていった。
そんなわけで、私は再びその〝教室〟へと迷い込んだ。
無人の教室。
逢魔時。
孤独と不安と恐怖が充満するセカイ。
事前にわかっていればどうってことない、と思っていたが、やはりここは気味が悪い。気持ちの準備をしていても、不快なものは不快だった。
「……で、今度は何をするんですか?」
最初にここへ来た時は驚いたけど、今度は大丈夫。
私は教室のど真ん中の席に座ったまま振り返り、窓際の最後列の席へと声をかけた。
「随分と余裕だね、淡居ちゃん。この前はあんなに取り乱していたのに」
「……なんの脈絡もなくこんなトンデモ現象に遭遇すれば、誰だって取り乱します」
「いいや。僕が言ってるのは、君の〝過去〟を投影された時の話だぜ」
「…………」
黙ったのは、動揺したからではない。
違和感を感じたのだ。目の前の死神に。いつもふざけたようにヘラヘラと笑い、人を喰ったようにバカにして、くだらないセクハラ発言ばかりしている変態。
そんな彼が、あろうことか真剣な顔をしている。
変だ。何かが、いつもと違う。
「……ごめん。実は僕、嘘つきなんだ。愛しい女の子に嘘をつくのは心苦しいけれど、僕だって、仕事はきちんとこなさなければならない。だから、許してほしいとは思わないけれど、僕のそんな事情をほんの一ミリくらい知っておいてくれると嬉しい」
笑わない。この、死神が。
たったそれだけのことで、私はすごく嫌な予感がした。
「……なにを、するつもりなんですか」
声が、詰まる。
私はこいつと出会ってから初めて、本気で目の前の存在が〝死神〟なのだと認識した。
考えてみれば、今までの方がおかしかったのだ。
現実から目を背け、全てに対して無関心を決め込んでいた私。だからこそ私は、〝自分のすぐ隣に死神がいる〟という、常人なら発狂してもおかしくないほど異常な現象にも、全くもって危機感を抱かなかった。
それを今、死ぬほど後悔する。
――――『君を、幸せにしたいんだ』。
以前、確かにこいつはそう言った。
だけど、冷静に考えれば、それがあり得ないことだって誰でも気づく。死神の仕事は人を幸せにすることじゃない。人を殺すことだ。こいつ自身、言っていたじゃないか。人を幸せにしてから殺せば、自分は蘇れるのだと。
だったら――――たぶん。
きっと……その時が――――
「…………私を、殺すんですか?」
声が震えた。
その事実に、誰よりも私がびっくりした。
覚悟なんてとうに決まっていると思っていた。だって私は、全てに無関心。生きるも死ぬも関係ない。十七年間生きてきて、思い残すような後悔は何も無い。むしろ、今日まで生きてこられたことの方がよっぽど不思議な、空っぽの存在だったはずだ。
だけど……私は怖かった。死ぬのが、恐ろしかった。
頭にチラつくのは夕希の顔。そして、私のラクガキについたコメント。
三日後に死ぬのはどうでもいい。だけど、あと三日は待ってほしい。あと三日、どうしても私には、やりたいことがある。
「……そうだろうね。君はもう、とっくに空っぽの人間じゃなくなってしまったんだ」
私の心を見透かす。
死神が告げる。死の宣告を。私を殺す言葉を。
「安心して。今この場で君を殺すことはしない。だけど……このままじゃ君は、三日後に死ぬ時もきっと後悔する。死にたくないと言う」
それじゃあ困るんだ、と彼は言った。
「僕の義務は、君を幸せにすること。そして、一旦、人生の頂点まで持ち上げた君を、その後で絶望の底まで叩き落とすことなんだ。そうすることで、やっと、僕が蘇るためのエネルギーが集まるんだよ。ちょうど、水力発電の原理と同じさ。高低差が生む位置エネルギーが、そのまま僕の力になるってわけ」
なにを……するつもりなんだ。
問おうとする私を制すように死神が手を挙げ、黒板を指差す。
いつかの如く、そこに映像が浮かび始めた。
また私に過去の家庭事情を回想させて、苦しめるつもりなのだろうか。そんなことを思った時、背後からゾッとするほど冷たい死神の鎌が飛んでくる。
「……そんな甘いもんじゃないよ。この前のアレ、君は相当参っていたみたいだけど、あの時はあれでも、最大限に配慮したつもりなんだ。まだ幸せの頂に昇ってもらう途中だったからね。……でも。今度は、違う。今回の目的は、君を絶望させることだ。なんの配慮も無く。なんの気兼ねも無く。なんの遠慮も無く。君が忘れるほど遠ざけている、人生で一番深い絶望を掘り起こす――――」
何を言っているのか、わからなかった。
だって私には、そんなもの無い。昨日見た、幼い頃の記憶が、私にとっては最大のトラウマだ。そして、それが全てだ。それ以上のものなんて、あるはずない。だって、私の人生のほとんどはあの家庭で過ごしていたのだから。それ以外のものとなると、朝霧学園に入学してからのものしか――――。
そこまで考えたところで、銀色の鍵で仕舞っていたはずの過去が、記憶が、思い出が、絶望という名の鎌を持って襲い掛かってきた。
あ。ああ。ああああああ。
まさか。
やめろ。
お願い! やめてください! それだけは!
「お、お願いします! それだけはっ! それだけは思い出させないでっ!!」
私は席を立ち上がり、死神の元へと走った。
足下に跪いて学生服の裾を引っ張り、死神に縋る。
……哀れだ。死神に縋ったところで、なんになる。死神というのは、そもそも、人を殺し、絶望させるための存在。そんなものに自分の幸せや希望を願っても仕方ない。
それでも私は、彼に祈るしかなかった。
必死に、赦しを請うしかなかった。
「お願いします! 何でもしますからっ! もう、死んでもいいから! ここで殺されても文句は言わないから! それだけはっ! それだけは、どうか――――っ!!」
いつもの外面だけの敬語じゃない。心の底から敬語が出た。
もう、恥じも外聞も、何も無い。照れもプライドも、何も無い。
私は土下座した。地に額を擦り付けた。
それで阻止できるなら。
もう二度と、その記憶を思い出さずに済むなら。
ずっとずっと、忘却したままでいられるなら――――
「……………………」
あれだけ饒舌で薄っぺらい笑みの絶えない死神が、ただただ無言。無表情。
それが、どうやっても私の願いが聞き届けられないことを、暗示していた。
■
朝霧学園に入学して二ヶ月が過ぎた頃。ちょうど、六月になった時だ。
その月に、朝霧学園では文化祭があった。
もちろん、人生ソロプレイヤーな私には関係の無いイベントで、ずっとスルーを決め込んでおくつもりだったのに……ジャンケンに負けたせいで、私がクラス代表の実行委員になってしまったのだ。
正直、かなり苦戦した。なんせ、根暗なコミュ障で毒舌だ。
上っ面の敬語で他人に接することもできるが、それは私に多大なストレスを与える。授業中や日常のちょっとした一コマならともかく、準備期間中、常に他人とコミュニケーションをとる必要がある実行委員は、私にとって地獄以外の何ものでもなかった。
それでも、どうにかこうにか頑張った。せっかく『あの家』から逃れて自由を手に入れたのだ。こんなことで問題を起こして退学になり、再び『あの家』に戻ることだけは、何が何でも避けなければならない。……そんな強迫観念から、私は懸命に外面を固め、必死に働いた。
自分のクラスがどんな出し物をしたのか、私は覚えていない。
確か、劇だったか喫茶店だったかだと思う。
イベントの進行や連絡係に注力するため、私はクラス行事の出し物スタッフから、外れることができたのだ。本来ならそこが一番クラスメイトと関わる場面だから、外されると後の人間関係で困るのだが……元から友達がおらず、今後作る予定も無かった私には、ちょうど良かった。
そんなこんなで、比喩じゃなく死にそうになりながらも準備期間を終え、当日を迎えた。
当日は当番の巡回と迷子の誘導くらいで大したイベントも無く、一人でボーっと過ごすことができた。
辛かったのは、片づけだ。クラスの出し物はもとより、各クラスの実行委員だけは、全体の片づけにも協力しなければならなかったのである。
私はこれでも一応は女子の上、小柄な体型なのに、コミュ障が災いして自分の希望する作業を口に出せず、結果、最もキツい作業を担当することになってしまった。体育館で使用していた普段は使わない椅子を、屋上まで持って上がる係りだ。
当時、今以上に万物に対して無関心だった私でも、さすがにこれは堪えた。
『いい子』でいるために勉学に励むことはあっても、体力作りの方はさっぱりだ。どう考えても一番キツく、人数を多めに配置すべき作業であるのに、何も考えていなさそうな委員長のせいで人数は均等割りになり、結果、一人が担当する作業としては一番の大仕事となってしまった。
それでも、文句の一つも言わずに黙々と作業を続ける私は、きっと周囲の人間から、かなり真面目な生徒に見えたに違いない。実際は心中で毒舌のオンパレードだったのだが。
で、お祭り気分の生徒はテキトーな仕事をして途中で片付けを切り上げ、クラスの打ち上げへと参加して行った。そのため、その作業は最終的に私一人で行うことになった。
……惨めだった。
……辛かった。
……情けなかった。
それでも、私は一人、黙々と作業を続けた。
何度も体育館と屋上を往復して、手にマメができ、太ももがパンパンになり、暗い気持ちで心がいっぱいになろうとも。
それでも、私は決して他人に助けを求めなかった。……求められなかった。
そうして、どれくらい時間が過ぎただろう。
初夏の夕日が西の空に沈みそうになって、体育館の椅子もようやく十脚程度にまで減った頃。
三年生の教室がある三階から屋上へと続く階段を上っている途中で、私はその人に出逢った。
「君、一年生? なんか、大変そうだね」
振り返ると、男子生徒が立っている。上履きの色で三年生のセンパイだとわかった。
「さっきから何度も往復してるけど、ひょっとして、一人でそんな作業やってるの?」
「…………」
私は恥ずかしくて答えられなかった。
喩えるなら、いじめられている現場を、第三者に目撃されてしまった時の感覚に似ている。たとえその人が善意ある人でも、いじめに遭うような弱い自分を見られるのは恥ずかしいし、情けない。
だから私は、ぺこりと黙礼して、その場を後にした。
しかし……意外と言うか当然と言うべきか……新たな椅子を持って同じ場所まで戻ってくると、再びそのセンパイに出会うことになった。
「暇だし、手伝うよ」
そう言って、にっこりと笑う。
たったそれだけのことで、私の頬が朱に染まった。たぶん、恥ずかしかったからだ。そうに違いない。
男らしい短髪と、きちっとした、清潔そうな制服が印象的な先輩だった。
物腰は大人っぽいのに、私と視線が合う度に見せる笑顔が妙に子供っぽくて、それがなんだか可笑しく、ついつい私も笑みを浮かべてしまった。
見た目はいかにも文化系といった感じなのに、それでも男の子というのは、根本的に女とは体の造りが違うらしい。一度に四~五脚くらい椅子を運ぶ。一往復で一~二脚が限度の私から見れば、その力強さは非常に男らしかったのだけど……そんな筋力を見せつけておきながら、浮かべる笑顔は相変わらず子供っぽいので、また笑ってしまう。
そのセンパイが手伝ってくれたお陰で、そこから二往復で全ての片付けが終了した。
屋上に続く扉を、先生から預かった銀色の鍵で閉める。
センパイは私の後ろで、手や服についた埃を払っていた。
お礼を言わなきゃな……と思うのに、声が出ない。
いくらコミュ障だと言っても、社交辞令や業務上の会話に支障をきたしたことは少ない。それなのに、こんな重要場面で声が出ないなんて。
どうしよう、と内心であせっていると、そんな私の心中なんて全然気づかないように、そのセンパイは私の手元で光る銀色に気付いて、声を上げた。
「おっ。いいもの持ってるじゃん」
その頃にはもう、朝霧学園の屋上への立ち入りは禁止されていた。
マンガやゲームなんかでは定番のロケーションだけど、実際に屋上を開放している高校は少ない。入学当初は新入生一同、屋上へ入れることを歓喜したのだが……五月上旬に生徒が螺旋階段で足を滑らしたとかなんとかで、教師から危険だと判断され、この学園も屋上への立ち入りが禁止になっていたのだ。
「ねえ、君。……屋上って、好き?」
「…………はい」
イエスかノーかで答えるくらいだったら、声が出た。
センパイは私の返事が気に入ったようにニヤリと笑う。まるで楽しいイタズラを思いついた子供のような笑顔で。
「えーっと、この辺だと……確か、学園を出て五分くらいのところにあったな……。まだ五時前だし、ギリギリ開いてるはず……」
腕を組んで何かを考えている様子。
そして、作戦が固まったかのように手を打つと、壮大なイタズラに巻き込むように、私に訊いてきた。
「だいたい、二十分くらいかな? 二十分だけ、僕に付き合ってくれない?」
普段の私だったら、そんな誘いは断っていたはずだ。
他人と関わるなんて、ストレスが溜まるだけ。学生として必要最低限の義務だけ果たしたら、さっさと家に帰って、親のいない一人暮らしを満喫するのが、私の日常だった。
だけど……どうしてだろう。
私はその問いに、こくりと頷いた。
それから、センパイに手を引かれて学園を抜け出した。
イタズラに巻き込むどさくさで「行こう!」と差し出された手を握り、そのままだ。生まれて初めて握る他人の手は、とても温かくて、柔らかくて……優しかった。
文化祭の後、クラスで軽いHRや打ち上げが予定されていたのだが……実行委員の作業をしていたと言えば、なんとかなる。アリバイはバッチリだったのに、『いい子』の呪縛で生真面目な学園生活を送っていた私には、そんな些細なルール違反さえ、スリリングでドキドキした。
センパイが向かった先は、学園近くにある『鍵屋』だ。
そこでセンパイは私が持っていた銀色の鍵を差し出し、スペアキーを作ってほしいとオーダーする。
鍵自体が単純な構造だったせいか、十分程度ですぐにスペアはできた。二つで、確か千円くらい。センパイは財布を取り出してその代金を支払うと、学園へ帰る道の途中で、その一つを私に差し出した。
「はい、共犯の証。……内緒だよ?」
私は、なにも言えなかった。
「私の分の代金を払います」とも、「こんなことしたら怒られませんか?」とも、「ありがとうございます」とも。
なにも言えないで、ただただ、夕日を浴びてキラキラと輝く銀色の鍵を受け取った。
「あんなにキツい作業を頑張ったんだ。これくらいのご褒美は、あってもいいんじゃないかな?」
茜色に染まる空の下。
学園への帰り道。
私とお揃いの鍵を空に掲げながら、センパイはやっぱり、子供っぽく笑った。
それが私の…………初恋だった。
それから毎日、寝ても覚めてもその日のことばかり考えていた。
茜色に染まる空。銀色の鍵。子供っぽい笑顔。
私の脳みそは壊れてしまったかのように、延々とそのシーンばかりをリピート再生した。
毎晩、自分でも恥ずかしくなるほど真っ赤な顔で鍵を見つめて。
小さな銀色の宝物をぎゅっと胸に抱えたまま、布団に潜り込んで。
「あーーー」とか「うーーー」とかバカみたいに布団の中でゴロゴロして。
ずっとずっと、そのセンパイのことばかり考えていた。
今思えば、あの時が私の人生で一番幸せな時間だったと思う。
恋の病を患って。恥ずかしくなるくらい乙女な妄想をして。24時間年中無休でセンパイのことばかり考えて。
毎時間の休憩ごとに屋上まで走って。
お昼休みだって最初から最後まで屋上で過ごして。
時には、三年生の教室がある廊下を、迷子になったフリしてうろうろしたりしちゃって。
ただただ、恋に恋する乙女みたいに、病的な行動ばかりとっていた。
――――そのセンパイが事故で亡くなったことを知ったのは、夏休みに入る頃だった。
意外だった。同じ学校の生徒が死んだというのに、学年が違うだけで、こんなにも情報が入ってこないなんて。
いや、違う。きっと私が、他人と距離をとっていたせいだ。そうでなければ、もっと早い段階で気づけたと思う。
センパイが事故に遭ったのは、文化祭が終わった翌日だったという。
飲酒運転だったそうだ。遠方の実家から学園に通っていたセンパイは、早朝に家を出てバスに乗る。その途中で、朝までオールして、早朝だから警察もいないだろう踏んだ免許取りたての大学生が、ボーっとする頭で車を運転し、センパイを撥ねたのだ。
私がそんな諸事情を知った頃には、センパイの葬儀もとっくに終わっていた。
私には全く現実味の無い話だが、センパイはすでに火葬され、とっくの昔にお墓の下で眠っているそうだ。
「なにを……していたんだろう……」
当番の日誌を職員室に届け、そこで教師がしていた話から事情を察した私は、廊下に出たところで茫然と立ち尽くした。
涙は、出なかった。
当然だ。私は全てに無関心。空っぽで、無感動で、空気みたいで、ここに居るのに居ない存在。魂の抜け殻。視認できる幽霊。
くだらない人生を生きてきて、それでも最後の最後に残っていたはずの小さな欠片が、その瞬間、砕け散った。
死んでしまいたい、と思ったことは、これまでに何度もあった。
だけど、真剣に死ぬ方法を考えたのは、この時が初めてだった。
その時からだ。
私が、〝美しい死〟を探すようになったのは――――