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その後オリヴィエは、今まで以上に学問に没頭した。
政治や経済担当の先生にも何度も講義を行ってもらった。
何せ大門王国を支えているのは交易であり、数多くの商人たちである。
貴族と呼ばれる人々も元は大商人で、今でも領地を治めると同時に商売を行っている者が多い。
その為に商人に有利な法整備をされていて、商人以外の者達も、道を作ったり宿を営んだりと商売を支えるような職に就く事が多い。
また商人を護衛する為の傭兵業も盛んで、それが大門王国の高い軍事力の基底となっていた。
だからこそ経済を制する者が政治を制する…。
オリヴィエはそう考え、経済の勉強を進めた。
有益な商売は国で厚く保護される。
それを見極める為の目を養う事がオリヴィエの役目だと考えた。
外交が得意なシルヴァンは世情に敏感で、新しいものを見つけるのが早い。
軍事に明るいレオナールならば、安全に商売を行えう為の鍵となる。
兄達とは違うところで役に立とう。
そう考えてオリヴィエは勉強をした。
「オリヴィエ様」
古い商売の方法に関するレポートを書く為に書庫に籠っていたオリヴィエは、突然声をかけられてハッと顔をあげた。
穏やかに笑っていたのは、文学の研究者で、オリヴィエが一番慕っている先生であった。
年齢はまだ30代で、その歳にしては名高い研究者なのだと聞いて、オリヴィエは誇らしく思った事がある。
オリヴィエが文学に傾倒するきっかけとなった人物で、実に面白い解釈で文学を語ってくれるのだ。
「お久しぶりですね、オリヴィエ様。最近はあまりお城に呼んで頂けなかったので、お顔を拝見できてうれしいですよ」
「ごめんなさい先生…僕ももっと文学を勉強したいんですけど、僕もそろそろ自分の道を決めなくちゃって思って」
「素晴らしいです殿下。まだお小さくていらっしゃるのに、このような難しい勉学をなされて…流石は大陸に名高い、大門王国の王子ですね」
「兄上様達に比べたら」
オリヴィエがそう言うと、先生はゆるゆると頭を振った。
「いえ素晴らしいですよ、本当に。オリヴィエ様は文学を敬愛なさるお心がある…それだけで我等文学者は肩見の狭い思いから抜け出されるというものです」
「うん。僕頑張って偉くなって、もっと文学の事を理解してもらえるようにするから」
それはオリヴィエの夢でもあった。
文学が確かな学問として擁立される…そうなると、レオナールだって文学を軽んずる事は無くなるはずだ。
そのためにもオリヴィエは頑張らねばならない。
「そうですか…それでは私もしばらく学問所に籠る事になりましょう…。お城での生活は楽しかったですよ」
「僕も先生に会えて凄くうれしい」
笑顔でそう言うと、先生も笑顔で応えてくれた。
「真奥宮をこの目で見る事が出来なかったのは残念ですねぇ…」
「真奥宮?」
王族の中で王と王位第一継承者が暮らしていて、臣下の中でも特に限られた者しか入れないのが城の最奥にある真奥宮だった。
先生は少し寂しそうに笑った。
「あそこはこの大門王国を舞台にした物語や随想…そういったものの舞台にもよくなっています。この目でそれを確かめられたらと、ずっと思っていたのですよ」
「先生…」
その気持ちはオリヴィエにもよく理解できた。
心躍る物語の舞台…その場所に立つと、更に登場人物の心がわかるというものだ。
「じゃあ先生、僕が秘密でいれてあげる」
「…本当ですか?」
先生が目を見開いて聞き返し、オリヴィエは深く頷いた。
「うん、だって先生の文学の為だもの。僕、先生に恩返ししたいから、それくらいなら頑張るよ」
笑顔で約束を交わし、その夜に果たす事を決めた。
※
三日月の夜というのは、物語の世界でもよく選ばれる。
綺麗に弓型になったその月を見て、オリヴィエは微笑んだ。
上翼宮から真奥宮に至る石畳の廊下を渡りながら見上げる夜空は、格別に美しい。
オリヴィエの後ろを歩く先生も同じように空を見上げていた。
「オリヴィエ様…?」
やがて真奥宮の小さな門の前まで行くと、門番が立ちふさがった。
不思議そうにオリヴィエを見て、そして背後の人物に目を遣った。
「ええと…こんな夜中にご用事ですか?それに後ろの方は…」
「僕の先生。シルヴァン兄上様に紹介して欲しいって言われて」
もちろん嘘である。
内密の話であるかのように、オリヴィエは人差し指を唇に当ててウィンクした。
「…シルヴァン様の…」
「レオ兄上様に見つかると怒られちゃうから秘密にしていてね」
言いながらオリヴィエは戸惑う門番の横をすり抜けた。
先生も同じく通り抜けて、門番に会釈する。
門番が戸惑っている間に有耶無耶にしてしまうのが一番だ。
堅固な石畳の回廊は窓も小さく縦長で、中からの景色は良いとは言えなかった。
ただそこから見える城や、裾のように広がる街並みは壮観だった。
先生は色んな場所を見てしきりに素晴らしい、と褒め称えた。
「なるほど…これが真奥宮ですか…。元は要塞なだけあり、天井が低くて道幅も狭いですね。窓も小さい」
「此処はね。けど陛下やシルヴァン兄上様の住まう居住区だともう少し広いんだ。部屋も吹き抜けで天井が凄く高いし」
「大門王国が平和になった頃に改装されたのですね。城で剣を振るうような野蛮人もいませんし…。できればその居住区も観てみたいのですが」
先生の呟きに、オリヴィエは眉尻を下げた。
「ごめんなさい先生。そればっかりは無理だよ。あそには本当に限られた人しか入れないんだ。王族でも直系に近い人、臣下でも寵臣だけで…」
「ええ、もちろん理解していますよ」
先生は相変わらず穏やかに笑う。
その顔を見ていると、何も出来ない自分を不甲斐なく思えてきた。
「…代わりに頂上の見張り台に案内するよ。あそこには今は見張りはいないから…」
真奥宮より高い物見塔が造られた為に、意味を成さなくなった見張り台。
そこなら人もいないから、とオリヴィエは考えた。
先生は笑って喜んでくれた。
※
長い螺旋階段を昇り小さな扉を開くと、埃の匂いが鼻をつく。
合図を送る為にも使われていたので窓は大きく、月からの灯りを取り入る事ができた。
窓を開け放つと、星辰の夜空と街が臨めた。
「ああ、綺麗な国ですね、此処は」
先生が感嘆と共に呟いた言葉を、オリヴィエも痛感していた。
この国の王子として生まれてきた事を、誇りに思っていた。
「私はこの国の王には、オリヴィエ様のような方が相応しいと思うのです」
先生が突然言った言葉に、オリヴィエの肩がびくりと震えた。
「…どうしてですか?」
「この国は大陸に名高い程穏やかで裕福です。だが富貴は時として心を荒ませます。そのような時にこそ、文学が必要なのです。…そしてオリヴィエ様はこの文学を理解し、愛する心を持っている」
「僕は」
オリヴィエは言葉に迷った。
確かに王になれば、文学を推薦する事はたやすい。
そして人々の心に文学が必要なのだと、そう思っていた。
「でも、シルヴァン兄上様がいます。レオ兄上様もいる。僕なんか」
「いえ、あのお二人にはこの心を解する事ができません。オリヴィエ様こそ、人々の心を救う事ができる。…人の心を解さない王は、民衆の心を縛りつけます」
まるでとろける甘いお菓子のようにオリヴィエを誘う声に、頭がくらくらする。
尊敬する先生にそんな事を言われれば、嬉しく無いはずが無い。
だけど。
だけど王に相応しいなんて、恐ろしく不遜な考えだ。
外の空気を吸おうと、オリヴィエは窓辺に寄った。
「オリヴィエ様は………兄君達を邪魔に思われる事がありませんか?」
「え?」
振り向いた時に見た先生の目に、オリヴィエの肩がびくりと震えた。
その冷たく暗い目に。
射竦められてオリヴィエは固まってしまった。
「ぼ、僕は…王様になんて…なりません。相応しいのは…」
「王に相応しいのは…」
先生がオリヴィエに近づく。
徐々に後退るオリヴィエ。
「王になるべきなのは…」
ダメだ。
それ以上は聞きたくない。オリヴィエはぎゅっと目を瞑った。
「そこまでだ!」
突然響いた大声に、オリヴィエは心臓を震わせて目を見開いた。
勢いよく開けられた扉から飛び出してきたのは、長い黒髪を翻すレオナールだった。
後ろから武装した兵士も飛び入って、更にオリヴィエは鼓動を早める。
いったい何が起こっているのか理解できず、頭がまったくついていかない。
レオナールの真黒い瞳がサッとこちらを見た。
「オリヴィエから離れろ、外道」
「これは…王家の方とは思えないような下品な言葉を使いなさる」
「聞く耳もたない。貴様が他の者と共謀し、オリヴィエに王位簒奪させようとしている事はもう解っている」
まるで頭の中が破裂してしまったのではないだろうかと言うほど、オリヴィエは衝撃を受けた。
身体中の感覚がひどく鋭敏で、だけど少しも動かす事ができない。
いったいレオナールが何を言っているのか。
これは本当に現実なのか。
まったく解らない。
「おっと」
踏み出そうとしたレオナールよりも先に、先生がオリヴィエに近寄った。
いつの間にかオリヴィエの目の前には、銀色に輝く短刀があった。
世界の彩色全てがそれに吸い込まれたように感じられた。
「貴様…!」
「可愛い弟君を傷つけたく無ければ、貴方が死んでください、レオナール王子殿下」
「せ、せんせ…何を…」
これは本当に自分の敬愛する先生なのだろうか?
オリヴィエの方を向いた顔は、それでもやっぱりいつもの笑顔だった。
その瞬間凍りついていた心が、壊れたように静まり返った。
「うそだ…」
「もちろん私がオリヴィエ様に王になって欲しいというのは本心です。学問を解する貴方に…。商売や軍事といった野蛮なものばかりに傾注する王族なんて、もう期待できないのですよ」
「で、でも…」
「とりあえずレオナール様だけでも死んでくれれば大躍進です。私は命を擲って文学の必要性を叫ぶ。…後世には素敵な物語になると思いませんか」
どうしてこんな時にまで、いつものように微笑むのだろう。
レオナールの言う事が本当ならば、最初からこうなる為に先生はオリヴィエに近づいたのだろうか。
ならば自分の文学を愛する心は…なんだったと言うのだろう?
「でも…」
涙が出てきた。
こんな所で泣くなんてなんて情けないのだろう。
しかし自分が信じて来たものが、否定される事がとても悲しかった。
それでも文学を嫌いになんてなれないと、頭の中で叫び続けた。
「さあ、どうしますか、レオナール王子殿下」
「…貴様…!」
憎々しげに目を剥くレオナール。
自分が捕まったせいで、彼は自害を迫られている。
「何ならシルヴァン王子でも良いのですよ。どちらとも揃って死んで頂けるなら僥倖です」
シルヴァンの死をも望むというのか。
銀色の光が目の中にチラついて、明滅する。
「い、いやだ…」
国を支える二人の兄達。
オリヴィエの尊敬する王子達。
そうなるくらいなら自害して死んだ方がマシだ。
レオナールが言っていた言葉を思い出した。
そうだ…王権を争うだなんて、そんな事。
「そんな事、絶対に、」
オリヴィエはか細い声を絞り出して、じわりと後退さる。
腰のあたりに、窓の縁が当たった。
冷たい風が髪を巻きあげる。
「絶対にさせない…!」
オリヴィエはゆっくりと身体を後ろに倒した。
ぐらりと身体が傾いて、反転する世界。
両足が宙に浮いて、風を切る音が耳を突く。
「オリヴィエ…!」
レオナールの見たことも無い、泣きそうに揺れる瞳が見えた気がした。