持たないとはつまり
吠える声。うなり声を轟かせるケモノの声だ。これを聞いた者は誰でもこの声を可愛らしい『兎』とは思わずに、獰猛な獣の王とでも答えてくれる。無論見当外れ、当たるわけのない出来レースなのだから仕方ない。
紅茶を傍らに、暴れ回っては叫ぶ兎の姿を眼前に。レイン=ローズ=ペリツェは、強化ガラスの向こう側でこちらを恨みの塊で睨んでくるそれを愉快げに眺めていた。優越感に浸り、何ともうっとりと恍惚の表情を浮かべて。
低く響くノックの音。ヒビ一つ入らないガラスの向こうで、ケモノは喉笛を震わせて声を上げた。
* * *
散々遊び回り、なかなかしぶとく傷は完治。丈夫というのにも程がある、あまりにも綺麗に傷は塞がっていた。
真っ赤なコートを羽織り、シェリーはちらとだけ巴椰を見やった。
「……ブレットは来ないのね。見送りにくるくらい良いと思うけれど」
「引っ張ってこようと思ったんですが、部屋にすら入れてもらえませんで……あの、すいません」
折角帰るという時になっても、ブレットはあの日以来一度も来なかった。行かせようとすると決まって部屋を追い出され、口を閉ざしてしまった。一概に「嫌っている」とも言えない、執念のようなものすら感じた。そして、誘うまでもなく他の面子も来ることはなかった。
逆叉を脇に従え、シェリーはまこと不機嫌にフンと鼻を鳴らした。
「本当なら、隣にいるのは私なのに。私、本当貴方が嫌い」
「俺もブレットは嫌いです。シェリーさんみたいなヒト振るのはどうかと」
「取り繕われても嫌いなものは嫌いだからね。最後にもっぺんキスしてあげましょうか」
にぃっと悪党らしく笑み、シェリーは巴椰の頬に手を滑らせた。嫌がらせと自身でも解っているらしく、嗜虐的に愉快そうであった。
はっと、その手を叩いたのは逆叉であった。
「--なぁに?私とヤる気?」
「話を終わらせて。まだ続きがある」
「あら、釣れない子。そうね、どうせこの子以外誰も見送りに来ないんだし……話してしまいましょうか」
するりと手が離れる。無表情ながら、逆叉は彼女なりに助けてくれたらしい。
客室のベッドにぼふんと腰掛け、シェリーは足を組んで目を伏せた。
「あなた、ここに収容されたヒトの特異な点は解るわよね?誰でも武器を召還でき、すぐさま戦闘を行える特異な能力。勿論、ここへ来る前まではそんなことはなかったのよ」
「あの物騒なやつですか。もう結構散々な目に遭ってますけども」
「それはあなたが持ってないからよ。私が知る限り、その武器というものを持たないのは三人だけ」
大概の者は持っている、様々な有り得ない武器。等身ほどもある冴やコールのものも含め、兎に角突然出てくるのもかなりおかしい。未だにその理屈が解らない。
自身でもその場でマシンガンを片腕に出し、シェリーはその身をそっと撫でた。
「まず、うちのゲナ。あれは空間移動の能力でいいはずよ。新しく作ることなんてのはできないけれど、数十キロくらい離れた他の場所までなら移動できるみたいよ。便利だけれど、特に目立った点はない」
「充分凄いと思うんですが。それで、あとは何にも持ってない俺と……」
これで二人、と数えると、シェリーは深々と嘆くかのようにため息を吐いた。
「何にも持たないあなたが一番特異と言えば特異よ。生きていくためには何かしら持っておかなければならないのに、何にもない。ネコに見放されたも同じなのよ」
こうして目の前にいるのが不思議と、気に食わないようでシェリーは舌打った。この点もなんと似ていることか。
最後に、と指を折り、シェリーはひどく真剣に彼の目を見た。
「あの花が連れて行った、『黒兎』。あれは武器を持たない類の中では最も危険視して良いレベルのケモノよ」
「シェリーさんとこで見たあのヒトが?何かの間違いじゃないですか?」
「あなたは自己防衛本能が欠如してるわね。あれの腕力と凶暴性ったら、あの朔門冴すら凌駕しかねない。アレもそれはそれで狂暴なんだけど」
またブレットと同じことを言い、同じように呆れてくれる。この憂いは美しく、それもまた彼と比類していた。
兎に角、とシェリーはドアを横目で見やって続けた。
「近寄らないのがベストの回答よ。次会うときにあなたが骨まで粉砕されてても責任は負えないし……何より、ここの住人に気に入られてるあなたが壊れでもすれば、どうなるか」
「ご忠告感謝します。残念ながら、そこまで脆くないもので」
「どうかしらね。ここはトップクラスに危険なものを収容する為の施設。あなたがここへ入れられたのも意味がある。私は弾かれて、安全そうなあなたは入らされた。どう考えるかは任せるわ」
やはり気にくわないらしく、彼女は席を立ち、大股気味にヒールを鳴らして部屋を出て行ってしまった。別れの挨拶すらなしに。
後を追って逆叉もドアに手をかけた時、巴椰はとっさに彼女の名を呼び止めた。
「逆叉さん。色々ありがとう、またきっと行くから。ゲナにも言いたかったんだけど」
「……了解。歓待する」
切りそろえられたおかっぱの陰で、その眼は揺らぎ、笑みを浮かべていた。少女らしく、薄紅色に頬を染めて。
つられて自身も笑み、そしてはっと気付いた。
「さっきの話なんだけどさ。授受も何にも持ってなかったはずなんだけど。あの子も何かあんの?」
「--guillotine」
はて、今なんと言ったであろうか。それまでの彼女との朗らかな空気は消し飛び、凍てつく言葉が床を転がった。確か今、なかなかお目にかかることのない物質の名を言った気がしたのだが。
今度は止める間もなく言ってしまい、巴椰はどうしようかと地雷を踏んでしまった苦みを噛みしめていた。聞いてはいけないものではなかったような気がしたのたが、彼女も食べられそうになったのだろうかと、思考はぐるぐると低回していた。
独りぼっちの寂しい部屋で頭を抱え、巴椰はあぁと声を漏らした。