第91話 「桃子ちゅわん」
聖君が凪をお風呂に入れた後、私は一人でお風呂に入った。
「そろそろお風呂も一緒に入りたい」
そうバスタブに入ってつぶやいた。でも今の聖君じゃ、恥ずかしがって入ってくれないだろうなあ。
うん。贅沢な悩みだよね。今日から一緒の部屋で寝れるんだもん。それだけでも嬉しいことだよ。
お風呂から出ると、リビングにはもう聖君も凪もいなかった。
「あ、あれ?」
私がちょっと戸惑っていると、リビングでテレビを観ていた杏樹ちゃんが、
「お兄ちゃんなら、凪ちゃん連れてとっとと2階に行っちゃったよ。すんごく嬉しそうに」
と教えてくれた。
「そうなんだ」
「ね、お兄ちゃん、記憶戻ったの?」
「え?そ、そうなの?」
「あれ?お姉ちゃん知らないの?」
杏樹ちゃんがそう言うと、お店からちょうど来たお母さんが、
「聖、まだ戻ってないと思うわよ」
と杏樹ちゃんにそう言った。
「え?でも、前みたいになってたよ。顏にやけっぱなしだし、でへへとか言ってるし、今日は、俺、桃子ちゃんと凪と川の字で寝るんだ。いいだろって、自慢してたし」
そ、そうなんだ。
「ふふふ」
お母さんが意味深に笑った。ギクギク~~~。
「聖、わかりやすいわよねえ」
ギクギク~~。
「何が?なんかあったの?」
杏樹ちゃんがお母さんに聞いたが、お母さんはそれには何も答えず、
「今日、お店でミスいっぱいしてた。でも、顔はにやけっぱなし。それにやたらと、桃子ちゃんのそばに来てた…。そうね。そんなところは、前の聖に戻ったみたいよね」
とそう言った。
「え~~?かっこ悪いお兄ちゃんに逆戻り?」
杏樹ちゃんは嫌そうな顔をしたが、私の顔を見て、
「あ、うそうそ。お姉ちゃんはお兄ちゃんの記憶戻ってほしいもんね?もしかしたら、前のお兄ちゃんに戻るかもしれないよね?」
と慌てて言った。
「……うん」
どうなんだろうか。そういえば、「桃子ちゅわん」と言った気もする。だんだんと前の聖君に戻るんだろうか。記憶も取り戻していくんだろうか。
2人におやすみなさいと言って、2階に上がった。そして和室に入ると、聖君は凪を抱っこして、寝かしつけているところだった。
「あ、ママが来たよ」
そう言って、聖君はにこ~~~~っと可愛く微笑む。
ママ?ママって言った?まさか、記憶が戻ったんじゃ?
「ひ、聖君」
「ん?」
「記憶…」
「そうだ!桃子ちゃん。俺、大学休んでるじゃん。事情をまだ、サークルのみんな知らないんだよね?さっき、どうやらサークルの人からメールが来たんだけど、どう返そうか悩んじゃってさ」
「え?」
「名前なんつったかなあ。木暮だったかなあ」
「木暮さん?」
「知ってるの?桃子ちゃん」
「うん」
「そいつ、どんなやつ?俺、仲良くしてたの?」
「うん」
なんだ。記憶が戻ったわけじゃなかったんだ。
「記憶がないことをちゃんと言わないと駄目だよね。一回、大学にも行かないとなあって思っているんだけど、どうも気が重い」
「そうなの?」
「……さすがにね?俺、ほら、今高校生だし」
「…そっか。今、2年生か」
「…うん。2年」
聖君はそう言うと、なぜか顔を赤らめた。なんで?
「高校2年なのにもう、奥さんと子供がいて、一緒に寝ちゃうんだなあ。俺…」
あ、そういうことか。
「今日、顔、にやけっぱなしだったよね?俺」
「あ、お母さんもそう言ってたよ」
「げ!やっぱり」
聖君は思い切り赤くなった。そして、うつむくと、凪に顔をぺちぺちされていた。
「凪、パパ、今もにやけてる?」
「あ~~~」
「そんなパパ、かっこ悪い?」
「う~~~」
「カッコ悪いって言ったのかな?」
聖君が私にそう聞いてきた。
「ううん。前からそんな聖君を凪は見てるから、大丈夫だよ」
「へ?」
「特に凪の前では、でれでれになっていたし」
「あ、そ、そういうことか」
聖君はそう言うと、また赤くなった。そして、黙って凪を揺らして、そのうちに凪が眠りそうになると優しく、
「おやすみ」
とささやいた。
凪は魔法がかかったように、すうっと眠ってしまった。
聖君は凪を、布団にそうっと寝かせた。
「あれ?凪、真ん中なの?」
私は今、凪の布団が真ん中に敷いてあるのに気が付いた。
「え?違うの?川の字で寝てたんでしょ?」
「…うん。でも、聖君、私、凪の順番でだよ?」
「あ、そうなんだ。桃子ちゃんが真ん中なんだ。…それって、俺が桃子ちゃんの隣になりたいからかな」
「ううん。寝ている間に凪に乗っかったりしないようにって…」
「あ、俺、そんなに寝相悪い?もしかして、桃子ちゃんを蹴飛ばしたり、殴ったりしてない?」
「寝ている間に?ないない!」
「ほんと?」
「抱きついてくることはよくあったけど」
「へ?!」
聖君は目を丸くすると、そのあと赤くなった。
「な、なんかさ」
聖君は凪の向こう側の布団に体育座りをすると、
「俺のほうがやっぱり、桃子ちゃんに甘えてたような気がしてならないんだけど…。もしかして、そう?」
と聞いてきた。うわ!そんな可愛い座り方して、そんな可愛い顔をして聞いてこないで。
「聖君、可愛い」
「へ?」
「あ、ごめん。ちょっと今、可愛いって思っちゃって。えっと、なんだっけ?」
「だから…。ああ、もういいや」
聖君はそう言うと、ゴロンと横になって凪を見つめた。
あ…。今日は凪が真ん中なの?このまま聖君とは離れて寝ることになるわけ?
「………」
寂しがっていると、視線を感じた。凪を見ていた聖君はいつの間にか私を見ていた。
「なに?」
「俺が隣のほうが、いい?」
「…うん」
「ほんと?」
「うん」
聖君は口元を緩めて立ち上がると、聖君の布団を畳み、凪が寝ている布団をそうっとはじっこにずらした。
それから私に「ちょっとどいてね?」と言って、私の布団を真ん中にして、その隣に聖君の布団を敷いた。
そしてまた、布団に寝転がり、
「もういいよ。桃子ちゃん」
と言って、手招きをした。
私は真ん中に敷かれた布団に寝転がり、聖君のほうを向いた。
「……でへ」
あ、にやけてる。
それから聖君はうつぶせになり、足をバタバタさせた。
「う、嬉しすぎる」
と言いながら。
可愛すぎる!と私は心の中で叫んでいた。
「桃子ちゃん」
「え?」
「まだ、10時半だね」
「……」
まさか。
「凪、早くに寝てくれたね」
「うん」
まさか、今日も…なんて言ってこないよね?ドキドキ。
「…桃子ちゅわん」
え?!今、桃子ちゅわんって言った?
「もうちょっと、こっちに来ない?」
聖君はそう言って、私のことをじいっと見ている。
「うん」
私は聖君に近づいた。
「やっべ~~~~」
え?
「なんだか、俺、信じられない」
「な、何が?」
「だって、桃子ちゃんが隣にいる」
「???」
「…一昨日まで、俺、自分のベッドで寝ながら、隣の部屋に桃子ちゃんがいるんだよなあって思ってた」
「うん」
「それだけでも、嬉しかった」
え?そうなの?
「それなのに、今は、隣にいる」
「…うん」
聖君、また思い切りにやけてる。
「嬉しすぎ!」
あ、枕に顔をうずめちゃった。やっぱり、可愛いよ~。
聖君はそれから、足をパタパタさせながら、いろんな話をしてくれた。子供の頃は、よくおじいちゃんとおばあちゃんの部屋に入って寝てたとか、杏樹ちゃんと一緒に寝ていた頃もあるとか、杏樹ちゃんの可愛かった話とか、そりゃもう、いろいろと…。
でも時々私と目が合うと、顔を赤くさせにやけて、また枕に顔をうずめる。
「やばい。俺、興奮して眠れそうもないな」
「あ、そういえば、木暮さんからメール来ていたんだよね?なんて書いてあったの?」
ふと思い出してそう聞いてみた。
「ああ、大学ずっと休んでいるけど、どうした?って」
そりゃそうだよね。心配するよね。
「大学に事情は話して、しばらく休むことも言ってあるんだけど、みんなは知らないみたいだよなあ」
「でも、麦さんからみんなに言ってくれるかも」
「…麦?ああ、桐太の彼女か」
「うん」
「えっと。麦ちゃんが桐太の彼女で、蘭ちゃんが基樹の彼女で、菜摘ちゃんが葉一の彼女。…で、他に誰かいたっけ?」
「サークルには、他にも、菊ちゃん、カッキーさん、それに、東海林さんって女の人がいる」
「…菊ちゃんと、え?あとは?」
「カッキーさんと」
「あ、いいや。桃子ちゃん。俺、教えてもらっても、多分覚えられない」
聖君はそう言って、じいっと私を見た。
「そういえばさ、俺のデジカメに、ダイビングに行った時の写真があった。それにビデオも…。見ても誰が誰だかわかんなくって。今度、それを見ながら教えてくれる?」
「うん。いいよ」
私はそううなづいてからすぐに気になり、
「聖君。そこに映っていた女の人で、気になっちゃった子とかいるの?」
と聞いてみた。
「へ?何それ」
「す、好きなタイプとか…。可愛い子とか…」
「………へ?」
「いた?」
「いないよ。え?なんで?どうして?」
「ううん。聞いてみただけ」
たとえば、カッキーさんのこととか、気になったりしなかったかなあ…なんて。
「桃子ちゃん。俺、桃子ちゃんに今、こんなにめろめろなんだけど」
「え?」
めろめろ?
「他の子なんて、目に入らないよ。とてもじゃないけど、みんなおんなじに見える」
「へ?」
「多分、他の子、どうでもいいんだ、俺」
「そうなの?」
「…だって、桃子ちゃんだけで、いっぱいいっぱい」
うわ。顏、一気に熱くなった。
「あ、真っ赤だ。クス」
聖君はそう言いつつも、自分の言ったことがいきなり恥ずかしくなったのか赤くなり、顔を枕で隠してしまった。
「好きな子と、ずうっと一緒にいられるって」
「え?」
「すげ、幸せ、俺」
枕に顔をうずめたまま、聖君はそう言って、また足をパタパタとさせた。
キュキュキュキュ~~ン。聖君、可愛い。
もぞ。聖君の布団まで私はにじり寄って、聖君の頭を撫でた。
「桃子ちゃん?」
聖君は私のほうを見た。
「聖君、可愛いよ~」
「へ?」
「めちゃくちゃ、可愛いんだもん!」
か~~~~~!!聖君が真っ赤になった。
「も、桃子ちゃん。からかわないで?」
「からかってないよ。大真面目」
「……」
聖君は一瞬、目を伏せた。でもすぐに私を見ると、いきなり私を抱きしめてきて、
「桃子ちゅわんも、可愛すぎ!」
とそう言った。
あ、今も。今も桃子ちゅわんって言った。
「ギュ~~~」
え?ギュ~~って言って、抱きしめてる?
19の時の聖君に戻りかけてる?なんてことないよね?
「あれ?」
聖君は抱きしめる力を弱め、私の顔を見ると、
「前にもこんなことあった。桃子ちゃんのこと、ギュウって言って抱きしめてるの」
と言ってきた。
「え?」
記憶戻ったの?
「ああ、デジャブってやつか」
「違う。それ、前の記憶!」
「え?」
「聖君、よく私のことギュウって言いながら抱きしめてた」
「え?そうなの?」
「うん!」
「…じゃあ、桃子ちゅわんって言ったりもしてた?」
「うん!」
「そっか。だから俺、心の中で何度も何度も、桃子ちゅわんって言ってるのか」
ドキドキ。聖君、記憶が戻って来てるの?
「うひゃ~~~!」
聖君はまた、枕に顔をうずめた。
「超恥ずかしい~~!俺ってどんなだよ~~~!!!」
あれ?恥ずかしがってるの?
聖君はしばらく黙って枕に顔をうずめていたが、また足をバタつかせ、
「桃子ちゅわん」
と私の顔を見てそう呼ぶと、にやけていた。