第88話 恋人から始める
その日、聖君は、なんとなく静かだった。お父さんやお母さんとも、あまり話をすることもなく、お店でも、ホールではにこやかだったが、キッチンに入ると静かになっていた。
そして、時々目が合った。聖君は私を見ると、ほんのちょっと照れたような顔をして、すっと視線を外した。でも、その次の瞬間にはまた、私を見ていた。
夜になり、私が凪と部屋に行くと、聖君がドアをノックして入ってきた。
「凪、寝た?」
「ううん。まだ」
「じゃ、俺が寝かしつけるよ」
聖君はそう言うと、凪を抱っこして背中を優しくぽんぽんとたたいた。
凪はすぐにうとうとし始め、そしてあっという間に寝てしまった。
「聖君」
「ん?」
「式、いいよ」
「え?」
「まだまだ先でも。それに、挙げなくたっていいんだ」
私は、布団に凪を寝かしている聖君に向かってそう言った。すると聖君は、しばらく黙って凪を見ていた。
「桃子ちゃん」
「え?」
「…ごめんね?本当だったら、桃子ちゃん、式を挙げられるのを楽しみにしてるよね?」
「う、ううん、私、聖君の紋付き袴が見たかっただけだから」
「…そう?ドレスや白無垢、着たかったんじゃないの?」
「…紋付き袴やタキシードの聖君の隣には、並びたかったかな」
私がそう言うと、聖君は私のすぐ隣に来て座った。
「桃子ちゃん…」
「え?」
「……。デート、明日行かない?」
「うん。行きたい」
「水族館行って、どっかのカフェでお昼を食べよう」
「うん」
嬉しいかも!
「それで…」
聖君はそっと私の手を握ってきた。
ドキン。なんだろう。聖君の顔を見ると、なぜか赤くなっている。
あ、まさか。押し倒すって言ってたけど、今、押し倒してきちゃうの?
「恋人から始めてもいい?」
「へ?」
「デートして、一緒にいる時間を過ごしていって…。そういうのを通り越して、いきなり結婚っていうのも、俺、なかなかついていけないから」
ああ、そういうことか。
「うん。いいよ」
「ほんとうは」
聖君はボソッとそう言って、頭を掻いてから、
「ここで、押し倒したいくらいの気持ちにはなっているんだけど」
「え?!」
「やっぱり、ちょっとだけ俺、勇気ないって言うか」
「…」
勇気?
「いや。そうじゃなくって。いきなりそんなことしていいのかよって、自分を責めてるって言うか」
いいのに。って、また危うく口から出そうになっていた。
「父さんと母さんに、明日凪を見てもらえるか聞いてくる」
「うん」
「じゃ、おやすみ」
聖君はそう言うと、そっとおでこにキスをしてきた。
そして部屋を出て行った。
「…」
おでこなんだ。唇じゃなくって。そんなところも、なんだか16歳なんだなあ。
明日、デートか。何を着て行こうかな。
なんだか、ワクワクドキドキするなあ。
凪を見た。スウスウと可愛い顔で寝ている。
「ごめんね?明日はママにパパを貸してね?」
そう小声でささやき、私も目を閉じた。
夢の中でも私はうきうきして、デートの準備をしていた。どの服を着て行こうかと鏡の前で悩み、髪を整えたりしていると、突然部屋のドアが開き、聖君が入ってきた。
「桃子ちゃん」
「聖君?」
「誰とデートに行くの?」
「え?」
「そんなにめかしこんで、誰と会うんだよ」
聖君はすねた顔でそう言うと、後ろから抱きついてきた。
「どうしたの?」
聖君とのデートなのに、なんですねているのかなあ。
「桃子ちゅわん。俺以外の誰とデートする気?」
「え~~~?聖君とだよ。聖君とデートするに決まってるじゃない」
「俺?」
「そうだよ~~」
聖君は私の顔をじっと見てキスをしてきた。うわ!すごくとろけちゃうキス。こんなキスできないって言ってたのに、なんで?
「ひ、聖君?」
私は聖君から離れ、ちょっとびっくりして聖君を見た。
「本当に俺と」
「そうだよ」
「そいつ、16歳の俺でしょ?桃子ちゃん、心変わりしちゃったの?」
「……へ?」
聖君の寂しそうな顔。え?なんで?
パチ。
目が覚めた。なんだったんだ、今の夢。
19歳の聖君が、16歳の聖君に嫉妬していた。
でも、聖君じゃなくて、私の深層心理が夢に現れたんだよね。ってことは私、どこかで16歳の聖君を好きになったら悪いって思ってるとか?まさかね。
聖君は聖君だもん。
ああ、そっか。19歳の時とは違う表情、違う反応をするから、なんだか別の人といるみたいな気になったのかも。
私は凪が起きたので、おっぱいをあげてオムツを替え、汗をいっぱいかいている凪の服も替えてあげて、また布団に寝かせた。
凪にガラガラを持たせると、しばらくそれで遊んでいてくれる。
凪はガラガラをおしゃぶりしたり、ふってみたり、そして飽きるとそれをぽいっとして、私のほうを見て話しだした。
「あ~~~、う~~~~」
「うん。今、着替え終ったら下に行くよ」
そう言って慌てて着替えて、私は凪を抱っこして一階に下りた。
凪が、隣にパパがいないことを不思議に思ったりするのかな?
まだ、そういうのは思わないよね。
お店にはもう、髪も整え、爽やかな笑顔の聖君がいた。
「おはよう、桃子ちゃん」
「あ、おはよう」
ま、まぶしい。日に焼けた肌から真っ白な歯が見えて、思い切り最高の笑顔を向けてきた。クラっとした。それに、胸きゅんも。
「な~~ぎ、おはよう」
「あ~~~~」
聖君の声に凪は反応して、聖君に手を伸ばした。聖君は凪を私から受け取って、嬉しそうに抱っこした。
「なぎ~~。今日も可愛い~~」
聖君は凪の頬に頬づりをした。凪は、嬉しそうにキャキャって笑うと、そのあと聖君のほっぺをぺちぺちとたたいた。
「あ~~~~~、う~~~~」
なんか、一生懸命に話しているなあ、凪。やっぱりもう、聖君のことをパパだって、認識しているのかなあ。
もしかして、
「なんで朝起きると、隣にいないの?どうしてパパは、一緒の部屋で寝てくれないのよ」
と、文句を言っていたりして?
「桃子ちゃん、今日、聖とデートなんでしょ?」
聖君のお母さんは、キッチンから出てそう聞いてきた。
「あ、はい。すみません」
「謝ることないわよ。ゆっくりしてきて。凪ちゃんは爽太が見ているから。ね?」
ちょうどその時、お父さんがお店にやってきた。
「うん。凪ちゃんはちゃんと俺が見てるから。今日は1日、俺がパパになっているからさ、ゆっくり楽しんで来て」
お父さんがそう言って、聖君から凪を受け取ろうとすると、
「え?今日1日、父さんがパパ?」
と聖君が顔を引きつらせた。
「そうだよ。爽太パパのところにおいで~~」
お父さんが凪にそう言うと、聖君は後ろを向いてしまい、
「凪、パパは俺だからな。爽太パパなんて言ってるけど、あれはじいちゃんなんだ。覚えておけよ」
と凪に話している。
「おい。じいちゃんって、呼ばすのはやめろよ」
「なんで?じいちゃんじゃん」
「どっから見ても、じいちゃんには見えないだろ」
「でも、じいちゃんじゃん」
「……」
あ、にらみ合ってる。
「いいから、聖も爽太も。凪ちゃんが困ってるわよ」
お母さんが2人の間に入ってそう言った。凪は2人の顔を交互に見て、確かに困った顔をしていた。2人がにらみ合っているのがわかったんだろうか。
「凪、今日はパパ、ママとデートしてくるから。凪はもうちょっと大きくなったら、水族館にお魚見に行こうね?」
聖君はそう言って凪のほっぺにキスをしてから、お父さんに凪を渡した。
「そうか、もうちょっとしたら、凪ちゃん、水族館に行けるのか。わお、楽しみだな」
「なんで父さんが、楽しみにするんだよ」
「え?もちろん、俺も行くよ?くるみも行こうな?お店が休みの日に、家族そろって行こう。な?」
「わあ、楽しみねえ」
「ちぇ。俺と凪と桃子ちゃんの3人で行くつもりだったのに」
「いいじゃないよ。今日は2人きりにしてあげるから!」
お母さんはそう言って、聖君の腕を突っついた。
「う…」
なぜか聖君は真っ赤になってしまった。
ああ。
聖君は、凪の前ではパパなんだよねえ。なぜかしら、知らないけど。
でも、私の前では、旦那さんにはなれないんだよねえ。なぜかしら、知らないけど。
それから朝ごはんを食べ、聖君はお店の手伝いを始めた。私は洗濯物を干しに行き、一階に戻ってくると、
「桃子ちゃん、そろそろ水族館開くころだから、行こう」
とにっこりと笑ってそう言った。
「うん」
私と聖君は、お店のドアまで見送りに来てくれたお父さん、お母さん、そして凪とクロに、
「行ってきます」
と言って、お店を出た。
クロは散歩に行きたがるかと思ったら、凪を抱っこしているお父さんの横にちょこんと座り、凪を見ながら尻尾を振っていた。ああ、凪のお守りをする気満々なんだなあ。
「ね、聖君」
「ん?」
「クロって、頭いいよね」
「うん、賢いね」
「それに、凪のこと、本当に可愛がってくれてるし」
「ああ、飼い主に似てるんだね」
「…お父さん?」
「え?違うよ。俺でしょ?」
聖君はそう言うと、両手をジーンズのポケットにしまって歩き出した。
あ、しまっちゃった。手、つなげない。
でも、腕組んでもいいってことかな?いや、わかんないな。まだ、16歳になっちゃった聖君とは腕も組んでいないし。
聞いてみようかな。ちょっとドキドキするなあ。
「聖君」
聖君にちょっと近づき、
「腕、組んでもいいのかな」
と聞いてみた。すると聖君は私を見て真っ赤になった。
あ、そこまで真っ赤になるとは思ってもみなかった。
「え、うん。い、いいけど」
聖君がそう言うから、腕を組んでみた。すると、聖君は固まった。
なんだか、新鮮。付き合った当初、聖君は平気で手を繋いできた。でも、平気だと思っていたのは私の思い込みで、聖君も照れていたのかなあ。
なにしろ、私は私のことが精いっぱいで、まったく聖君の表情とか見ていなかったし。
聖君はさっきから、私の方も見ないでちょっとうつむき加減で歩いている。
「あ、聖君」
ちょうど駅のあたりに来ると、そう言ってきた女の子がいた。2人組だ。多分これから、電車に乗ろうと駅にやってきた子だろう。
「え?」
聖君はその子たちを見た。あれ?見覚えある。えっと…。
「あ…」
聖君はその子たちを見て、私からスッと離れてしまい、私の手も腕から離してしまった。
「…その子、前にも会ったけど、結婚して子供も生まれたんでしょ?」
「え?あ、うん」
「…ちょっとびっくりしちゃった。聖君がまさか、そんなに早くに結婚しちゃうとも思ってなかったし」
「できちゃった婚なんでしょ?」
聖君は一瞬黙り込んだ。そして、その質問には何も答えず、
「じゃ」
といきなり、そう言ってまた歩き出した。
「聖君!」
一人の子が引きとめた。
「え?」
「中学の時は、ごめんね」
「……え?」
「この前、ばったり、ほんとに偶然、草野さんに会ったの」
「草野さん?」
「今、同じ大学で同じサークルだって聞いた。それで、聖君とは仲いいって」
「……」
聖君は眉をひそめた。
「私が中学の時、聖君とちょっとだけ付き合って、ふったことを知ってて。あ、中学3年の時、同じクラスだったんだ、草野さんと」
「そ、そう」
「それで、私が聖君と別れてから、聖君の悪口っていうか、いろいろと言っちゃってるのを彼女も知ってて、その頃、草野さんに注意されたことがあって」
「え?」
「でも、私そんな話も耳も貸さなかったの。だけど、この前会った時にもまた、言われちゃったの」
「なんて?」
「きっと聖君の耳にも、その話は入っていたと思う。それで聖君は、絶対に傷ついていたと思うって」
「………」
聖君は、かなり驚いている。
私もびっくりだ。カッキーさんだよね、草野さんって。カッキーさん、そんなことを言ったんだ。
それに、思い出した。この人、聖君と中学で付き合っていた人だ。
「いいよ、俺、もう中学の頃のことは忘れたし。気にしないで」
「今は幸せだから?幸せなの?その…。そんなに早くに結婚して」
その人がそう言うと、
「麻子。彼女の前だからやめたら?」
と、もう一人の人がそう小声で言っているのが聞こえた。
「……ああ。うん。娘も可愛いし、今はすごく充実してて、毎日が新鮮で幸せだよ」
聖君はそう言って、また「じゃ」と言って、私の手を取って歩き出した。
あ、手、繋いでくれちゃった。
聖君は黙々と、そのあとも歩いていた。そして水族館に着き、2人分チケットを買うと、黙って私の手をまた取って、館内に入って行った。
館内に入ってすぐのところに、大きな水槽がある。その真ん前に立って聖君は、水槽の中の魚を眺めた。
「桃子ちゃん、俺が中学の時に付き合ってたって、知ってた?」
「うん。さっきの人でしょ?前にも偶然会っちゃったことあるよ」
「そうなんだ」
「うん」
「……」
聖君はまた黙って、しばらく泳ぐ魚たちを目で追った。そして、
「あっち見に行こう」
と私の手を引っ張り歩き出した。
「手、繋いでくれるの?」
私がそう聞くと、聖君は赤くなり、
「駄目?」
と聞いてきた。
「ううん。嬉しい。最初に来た時も、手、繋いだんだ」
「え?そうなの?」
「混んでいたから、はぐれないように手を繋ごうって言ってくれて」
「そ、そうなんだ」
聖君はなぜか、耳まで赤くなった。そして、
「俺、手、早いね」
とボソッと言った。
「キスも付き合ってすぐの頃でしょ?したの」
「う、うん」
「わあ。なんだか、信じられないよな」
聖君はまた赤くなって、下を向きながら歩いた。
「…」
止まった前の水槽に目をやって、魚を見ると、聖君は水槽に映った私の顔を見ながら話しだした。
「俺さ、中学の時、あの子と付き合ってもデートもしなかったんだ。付き合うって言っても、何をどうしていいかもわかんなかったし」
「うん」
「もちろん、手も繋いでない。話もろくにしなかったし、メールもしなかった」
「……」
「だから、つまんないって言われても仕方ないし、なんか、思っていた人と全然違うとか、聖君は、彼女を大事にする人じゃないとか、そんなこと言われても、なんの反論もできなかったよ」
「そんなこと言われたの?」
「耳に入って来てた」
うわ。そりゃ、傷つくよね?
「だから、桃子ちゃんとのメールのやり取り見て、びっくりしたし」
「え?」
「携帯の残ってた記録」
「あ、残ってたの?」
「うん…」
聖君は顔を赤くしてうなづいた。
「それに、手も早かったみたいだし、桃子ちゃんに対しては、俺、全然違ってたんだなあって思って」
「……」
聖君はそう言って、私のほうをちらっと見た。
「聖君、私といると面白いって言ってたよ」
「え?」
「小型犬みたいで…」
「……」
聖君を見ると、笑うのをこらえていた。
「笑ってもいいけど?」
「ごめん!俺、そんなこと言ってたんだ。あはははは。でも、似てるよね?マルチーズ」
「…」
今日は白い服だから、マルチーズか…。いいけどね。なんだか、そう言われるのも懐かしい気もするし。
「そうか。そうだよね。だって、可愛いもん」
「へ?」
「あの子と付き合ってた頃には、そういうこと何にも思わなかった。付き合ってって言われて、まあいいかなって、軽い気持ちで付き合っちゃって。そんなに嫌いなタイプじゃなかったし、一緒にいても楽しめるかなとも思ったんだけど、でもてんでダメで。だけど、桃子ちゃん、可愛いから」
「………」
聖君、言ったあとに照れてる。真っ赤だ。
「実は、店でも家でも、今も…。桃子ちゃんのことをつい、目で追ってるんだ」
「え?」
「いろんな桃子ちゃん見て、あ、可愛いって喜んでる。って、こんなことばらしてよかったのかな」
わ。もっと赤くなった。って言う私もきっと顔真っ赤。
「……。イルカのショー見る?」
「うん」
私が喜ぶと聖君は隣で、ぶふっと吹きだした。
「なに?」
「桃子ちゃん、すごく嬉しそうだから可愛いなって思って」
「…」
「あ、真っ赤だ」
「も、もう~~。もしかしてからかって遊んでる?」
「赤くなるの、面白いんだもん」
やっぱり。
「でも聖君も、可愛いって言うたびに赤くなってるよ?」
「え?」
聖君は目を丸くしてから、
「う…。も、桃子ちゃん。そういうのは見逃して」
とわけのわからないことを言ってきた。
「?」
「俺、今日、すげえ浮かれてるんだ。すっごく嬉しくって」
「え?」
「ずっと桃子ちゃんと手を繋いでいても、あ、さっき、腕組まれても、ドキドキしてて」
え!?
「やべ。…嬉しすぎ。顏、にやけそう」
あ、ほんとだ。今、にやけた。
「こんな顔してても、見逃して?赤くなってても、知らんふりしてて?」
うわ。可愛い!そんなことを言う聖君!
19歳の聖君が知ったら、やっぱり、嫉妬するかもしれない。桃子ちゃん、何を16の俺に胸、ときめかせてるんだよって。
でも、聖君は聖君だから。そして、16の時の聖君を私はいっぱい見過ごしちゃったに違いないから、今、その聖君にまた出会えて、喜んでいる私がいる。