第86話 自叙伝
聖君を信じたい。
でも、一気に不安が押し寄せる。
聖君は、立ち上がり、
「帰ろう」
と言って歩き出した。私は涙を拭き、聖君の後ろをついていった。
聖君、手つないでもいい?と聞きたかった。でも、聖君の両手はしっかりとポケットに入っていて、手を繋ぐのを拒否されているようにも見えた。
聖君の中で、何かが確実に変わり、旦那さんとしての意識が芽生え、もともとのラブラブな私たちに戻れるのも時間の問題。
なんて、昨日の夜思っていたっけ。あれ、なんて私の都合のいいような解釈だったんだろうか。
聖君にとっては、そんなに簡単な問題じゃなかったんだ。いろんな思いがきっと今、聖君の心の中で渦巻いているんだ。
聖君にとっての夢だった沖縄も、なんであきらめたのかって、今、納得のいかないこととして心の中で葛藤が起きているんだ。
「大事な人を大事にしていく」
そう言って聖君は、沖縄に行くのをやめた。それを聞いたところで、ああ、そうかってすぐに納得できないよね。
3年の間には、聖君は、お父さんが言うようにいろんな経験をしたんだ。血のつながりがなかったこと、菜摘や菜摘のお父さんとの関わり。
お店が混んで、お母さんが大変そうなのを目の当たりにしたこと。
そして、私の妊娠。
数日の間に体験して、一気に聖君が成長したわけではなく、3年をかけて悩んだり、受け入れたりした結果が今なんだ。結果だけを受け入れ、納得して式を挙げましょう。旦那になってください、凪の父親になってくださいと言っても、やっぱりそんなの、無理があるよね。
待ってって言われた。聖君、もうやめるとは言わず、待ってって言ってくれた。それが聖君の優しさかも。
でも…。
いつまで、待てばいいのかな。私。
ああ、ダメだ。前を歩く聖君が涙でぼやけて見える。
待つ。いくらでも。そう思いつつ、すごく悲しくて落ち込んでいる私がいる。
お店に着き、聖君は、お母さんにただいまと一言言って、すぐにリビングに行った。
お母さんは、お店が混んでいたので、特に聖君のほうを見ることもなく、キッチンで慌ただしく作業をしていた。
私もお母さんに、軽く挨拶をして、聖君のあとに続いてリビングに行った。
リビングでは、お父さんが凪をあやしていた。
「やあ、おかえり。どうだった?」
お父さんはにこにこしながら、私たちに聞いてきた。
「……父さん、今、いい?」
聖君は真面目な顔でそう言うと、2階に上がって行った。
「…何かあったの?」
お父さんは私に聞いた。私の顔が泣き顔なのも、気が付いたみたいだ。
「……えっと。きっと聖君から話があると思います」
私はそれだけを言って、お父さんから凪を受け取った。
凪は、いつものように無邪気な顔で私を見た。ああ、凪。凪は周りで何があったとしても、いつも自然体なんだね。羨ましいよ。
クロは何かを察したのか、私の足にすり寄ってきた。
「…ちょっと、話を聞いてくるね?そのあとで、桃子ちゃんの話も聞くから。ここで、のんびりとしてて」
お父さんも、私の暗い表情で何やら勘付いたようだ。そう優しく言うと、2階に上がって行った。
30分、いや、もっと長い時間お父さんと聖君は、2階で話しこんでいるようだ。
リビングは、凪の、
「あ~、う~」
という話し声と、時計の音と、たまにお店から聞こえてくる、お客さんの笑い声がしていた。
私は、じいっと一点を見つめ、聖君とお父さんが戻ってくるのを待っていた。クロは、凪の手を舐めたり、凪のことをお守りしながらも、私のことも気遣ってくれ、時々、
「く~~~ん」
と私の膝にすり寄って鳴いた。
「クロ。大丈夫だよ」
私は強がりを言って、クロの頭を撫でた。
トントン。階段を下りてくる足音と共に、先にお父さんが降りてきた。
「あ…」
聖君は、まだ2階にいるようだった。
「聞いたよ」
お父さんは優しく微笑みながら、私の前に座った。
「…」
私が何も答えないと、お父さんはにこりと微笑み、
「今、聖に俺の自叙伝見るように言ってきた。多分、聖、パソコンに俺の自叙伝が入っているのにも気づいていなかったみたい」
とそう言った。
「自叙伝って、あの…」
「うん。聖が俺の子じゃないってこと、書いてある」
「え?」
「聖は、桃子ちゃんと会ってから、いろんな経験をして、3年間を過ごしてきた。その3年を一気に取り戻すのは無理だどしても、3年の間にあったお前の変化を、知って見てもいいんじゃないかって、そう話してきた」
「…変化?」
「あいつ、なんで沖縄に行くのが夢だったのに、俺はここにいるのかが納得できないって言って来たからさ。どうして、家族思いの親孝行になっちゃったのか、そろそろ知ってもいいかもなって言って、自叙伝のことを話してきた」
「もう、血のつながりがないってことも、話したんですか?」
「いや。話してないよ。ただ、どんなことがあっても、俺は、聖の味方だからってことだけは、話したけど。それに、聖は俺にとって、かけがえのない存在だよってことも」
「…聖君、なんて?」
「すげえ、大げさって言って、変な顔をして自分の部屋に入って行ったよ」
「そ、そうなんですか」
ドクン。
聖君はどうするんだろう。あの自叙伝を見て。ものすごく傷つく?
「桃子ちゃん」
「え?」
「聖、桃子ちゃんのことは大好きだって。桃子ちゃんから離れるのは嫌だって言ってた」
「……」
「ただ、このまんま式を挙げても、心から喜べたりできるのかなって、ちょっとそんなふうに思っちゃったらしい。あれだな。マリッジブルーだな。男でもあるんだな、そういうこと」
お父さんはそう言うと、お茶目な顔をして笑い、
「大丈夫。心配はなんにもいらないさ」
とそう言ってくれた。
「……はい」
凪を見た。聖君は自分の出生のことを知って、命の大事さを痛感した。だから、私が妊娠してるってわかった時にも、中絶のことは一回も考えたりしなかった。
もうすでに私の中に宿っている命。それを何よりも大事に思ってくれた。
だけど、聖君、前に言ってた。父さんが血のつながりもないのに、俺の父親になってくれたこと。そうしてくれなかったら、俺は今、ここに生きていなかったかもしれないこと。だから、お父さんには感謝だし、そういうことを全部知って、絆がもっと深くなったって。
そういうことを知ったからこそ、私が妊娠した時にすぐに、赤ちゃんを産むことを受け入れられたんだって。
お父さんとお母さんが、自分を守ってくれたこと。自分の命を大事に思ってくれたこと。それと同じように聖君は、凪の命を大事に思ってくれた。
でも、今の聖君は、そんな記憶もないんだよね。
私はぼ~~っと凪のことを見た。凪はまだ、クロのほうを見ながら、お話を続けている。
「あ~~~、う~~~~」
凪、いっぱいお話するようになったね。どんどん、成長してるよね。
お腹の中でも、どんどん成長した。それをずっと、聖君と見てきた。
一緒に感じて、一緒に笑って、一緒に悩んで、乗り越えてきた。
それが一つ一つ、絆になって、私たちは、夫婦になったり、家族になったりしたのかもしれない。
いきなり、ぽんってできあがった、即席の家族じゃなくて…。
だけど、今の聖君には、いきなりできあがっちゃった家族なんだな。
思い出も、絆も、そこにはないんだね。
聖君は、お昼の時間になっても、リビングに顔も出さず、ずっと2階にいた。お父さんが、昼ができたと呼びに行ったけど、聖君はいらないと言って、部屋から顔も出さなかったようだ。
「だ、大丈夫でしょうか」
私は心配になり、お父さんに聞いた。するとお父さんは、
「うん、大丈夫だよ。腹が本当に減ったら、下りてくるさ」
とにこりとしてそう言った。
「俺、店の手伝いしてくるね。桃子ちゃんは、のんびりとしてて」
そう言って、お父さんはお店に行った。
のんびりと言われても、のんびりなんてしていられなかった。聖君のことが気になって、こんなことなら私もお店に行って、体を動かしていたかった。
今、聖君は、何を思ってる?感じてる?
トントン。静かな足音が聞え、私は階段を見た。すると聖君がゆっくりと、階段を下りて来ていた。
「父さんは?」
「お店」
そう言うと聖君は、ほっと溜息をつき、
「桃子ちゃん、凪連れて、俺の部屋に来てくれる?」
と弱々しい声でそう言った。
「え?うん」
いいの?私がそばにいても。でも、そう言ってくれて嬉しくて、私は凪を抱っこして、聖君と一緒に2階に上がった。クロもその後ろからついてきていた。
部屋に入ると、聖君のノートパソコンが開いていた。
「これ、知ってる?」
聖君は画面を指差した。そこには、お父さんが書いた自叙伝が映されていた。
「話では聞いたことがあるけど、見たことはないの」
「そう。じゃあ、一緒に読む?」
「え?いいの?」
「………。っていうか、俺はもう、読んだ」
そうなんだ。一気に読んだんだね。
「はあ」
聖君は、息を吐いてベッドに座り込んだ。そして頭を下げ、思い切りうなだれた。
「俺、桃子ちゃんには甘えてた?」
「え?うん」
「じゃあ、今も甘えても大丈夫かな」
「うん。もちろん、いいよ」
「じゃあ、抱きしめても平気かな?」
「…」
私は黙って聖君の隣に座った。聖君は私の腕の中に凪がいるから、凪をつぶさないように、そっと私を抱きしめた。
「桃子ちゃん」
「うん」
「3年前の俺は、どうしてた?」
「え?」
「これ、俺が読んだのは、俺が高校2年の秋だって。もう、桃子ちゃんと付き合ってた頃だよね」
「うん」
「俺、どうしてた?」
「……。聖君は…」
どうしていただろうか。ああ、そうだ。お父さんと血がつながってないことを知って、ショックを受けてた。
「菜摘のことも、聞いた?」
「え?菜摘ちゃん?葉一の彼女?」
「うん」
「それが何か?」
聞いていないのか。
「ちゃんと話すね」
私は、今が全部を話す時なんじゃないかって思い、聖君との出会いから何から何まで、聖君に一つ一つ話し出した。
「…え?俺って、菜摘ちゃんが好きだったの?」
コクン。
「でも、菜摘ちゃんと俺が、血がつながってるって知っちゃったの?」
「お父さんとお母さんが、話したらしい。血のつながった妹を好きになっちゃっているって知って」
「………」
聖君は黙り込んだ。
「聖君も菜摘も、知った頃は2人ともショックを受けてて。でも、菜摘には、蘭や葉君がいて、ずっと菜摘を元気づけていたから、どんどん菜摘も元気になって。それから葉君と付き合うようになって」
「そうなんだ」
「それに、聖君も、菜摘を妹と思うようになって、菜摘も」
「ああ、だから、兄貴って呼ばれてたの?」
「うん」
「だから、仲良く腕組んで写真撮ってたのか」
「うん。本当に仲のいい兄妹になったの。それに、菜摘のお父さんとも聖君、仲良くなったんだよ?」
「え?」
「お父さんがね、父親が2人いるのもいいもんかもよって、そう言ってくれたんだって。それまでは、頑なに聖君、自分の父親は、血がつながっていなくても、父さんだけだって思ってたみたいだけど」
「………」
聖君は黙って、私を抱きしめたままだった。凪は私と聖君との間で、
「あ~~う~~」
と話している。
しばらくすると、聖君は私から離れ、凪を見た。
「凪、抱っこしてもいい?」
「うん」
聖君は凪を抱っこすると、凪に顔を近づけた。凪は嬉しそうに、聖君の顔をぺちぺちとたたいた。
「そっか。凪とも父さんは血がつながっていないのか。でも、そんなことおかまいなしで、可愛がってるね」
「うん」
「……。そうだよな。俺も、血のつながりがあるんだろうけど、そのへんの実感がない。だけど、凪が可愛い。多分、目の中に入れても痛くないくらい、もうすんごい可愛いと思う」
「…」
「父さんも、そうだったのかな」
「うん。絶対にそうだと思う」
私は思い切りうなづいた。
「だよね。うん。父さんが俺をすごく大事に思ってくれてるのはわかるよ」
聖君はそう私を見て、はにかみながら言った。
「聖君」
「ん?」
「あ、あのね」
「…なに?」
「私の前では、泣いちゃっても、へこんでもいいからね?」
「へ?」
「無理して隠さないでもいいよ」
「…大丈夫。泣くほどショックは受けてないよ」
「そうなの?」
「あれ?前の俺は泣いてた?」
「ううん。知ってすぐに、海辺に言って、ばかやろうって叫んでたって言ってたよ」
「ばかやろう?」
「うん」
「…はは。なんでかな。ああ、そっか。好きな子が妹だって知ったのか。じゃ、ショックかな」
「……今は、菜摘のこと」
「う~~ん。何とも思えないな。葉一の彼女って、それだけしか認識なかったし」
「菜摘に会って、惹かれたりとか」
「ああ、そうだな。そういうのもないな。だって俺、桃子ちゃんが好きになってたし」
「……」
そうなんだ。
「俺は、菜摘ちゃんと血がつながってるって知って、それからショックを受けて、それから…、桃子ちゃんを好きになったのかな」
「…うん、そ、そうみたい」
「…桃子ちゃん、俺のそばにいてくれた?」
「うん」
「ずっと?」
「菜摘と聖君が血がつながっていることを知っていたのは、私だけだったの。だから、聖君の役に立てたらいいなって思って、それでそばにいるようにしてた…」
「……」
聖君はまた、黙って私を見た。その目はなぜか、とても穏やかで優しい目だった。
「俺、確かにショックを受けてるよ。父さんとも、じいちゃちゃんや、ばあちゃんとも血がつながってないんだって知って」
「…うん」
「だけど…。やけになったりはしないし、なんていうのかな。父さんやじいちゃんたちとも、家族じゃないって言う気はしないんだよね」
「……」
聖君は凪を見て、また私を見た。
「凪の体重っていいね」
「え?」
「この重みって、愛しさを増すよね」
「うん」
「凪の体温も、匂いも全部が愛しくなってくるよね」
「うん」
「……。俺、さっき、父さんに言われた。お前はかけがえのない存在だからなって。何を言ってるかわかんなかったけど、凪を見てるとわかる」
「え?」
「この体重、この体温、匂い。声、笑顔。全部。とにかく存在そのものが、俺にとってはかけがえのないものになってきているなって」
「聖君」
やばい。また、私泣きそう。
「凪の存在はでかい。たった数日でも、すんげえでかくなってるよ」
「うん」
「父さんは、ずっとずっと俺を育ててくれた。きっと、どんどん俺っていう存在が、父さんの中ででかくなったんだよね」
「うん」
「そして、かけがえのない存在になったんだ。血のつながりなんて関係なく」
「うん」
「………。自叙伝、読んで?泣けるよ」
「え?」
「泣けたもん、俺」
聖君はそう言うと、鼻をずずっとすすった。
「へへ…」
あ、聖君の笑顔、可愛かった。
なんだか、すっきりしてるんだなあ。聖君。血がつながってないって知って、悲しんだり、苦しんだり、もっと葛藤が起きちゃったりするのかと思ったのに。
「そうか」
聖君は、首をかしげて私を見ると、
「桃子ちゃんは、ずうっとずうっとそんな俺のそばにいてくれたんだね」
とぽつりと言った。
「え?」
「泣くの我慢してる?鼻、真っ赤だよ」
「う…」
ボロ。涙が流れ落ちた。
「くす」
聖君は、
「やっぱ、桃子ちゃん、すげ、可愛い」
とそう言ってはにかんだ笑顔を見せた。