第82話 父と母の反応
土曜日になり、私と聖君は凪を連れて電車に乗った。凪は、抱っこひもで私が抱っこしていた。
車はさすがに、16歳の聖君が運転するのはまずいだろうと、お父さんが言ってやめさせた。
免許を取った記憶もないし、運転した記憶もなくなってしまったのだから、しょうがないと言えばしょうがない。
「感覚が覚えていると思うんだけど、でも、桃子ちゃんと凪を乗せるんだから、やっぱ、危ないよね。電車で行こう」
そう聖君も納得して、3人で片瀬江ノ島駅から電車に乗ったのだ。
「凪、電車、初めてかも」
「え?ああ、そっか。いつも車の移動だったんだね?」
「うん」
「抱っこひもも、あまりしないんじゃない?なんだか凪、おとなしいっていうか、いつもと違うからか、借りてきた猫みたいになってるね」
聖君はそう言いながら、凪の顔を覗きこんだ。
「あ、うそ。聖先輩だ」
という声がその時に聞こえてきた。聖君は振り返った。
「あ…」
聖君はその子の記憶はあったらしい。
「奥さんと、娘さんですか?」
その子がそう聞いてきた。聖君は、うんとうなづいた。
誰かな。気になるなあ。
「初めまして。私、中学が聖先輩と一緒で、委員会でお世話になったんです」
「あ、そうなんですか…」
なんだ。委員会の後輩なのね。ちょっとほっとしたりして。
「……。聖先輩、本当に結婚しちゃったんですね」
その子はしんみりとそう言って、隣の車両に移って行った。
「知ってる子だったんだ」
「ああ、中学の時の後輩だから、わかった」
「……ふうん」
「委員会が一緒だっただけだよ?」
「え?うん」
あれ?私、変な顔しちゃったかな。
「面白い子でさ、いつも冗談言って、周りの人を笑わせてた。なんていうか、ムードメーカーみたいな感じの子だったな」
「…その頃、聖君は女の子、苦手じゃなかったの?」
「ああ、今ほどじゃないかな」
そうか。じゃあ、やっぱり中学の卒業式が、一番の原因なんだ。あれがトラウマになったんだよね。
今の聖君は、トラウマになったってことも覚えてないんだよね。
「それにしても」
聖君はボソッとそう言うと、頭を掻き、
「緊張するんだけど、俺」
とそうつぶやいた。
「お父さんか、お母さんに、やっぱり来てもらったほうが良かったかな」
「いや。それじゃあまりにも、軟弱な奴だと思われるでしょ?」
そうかな。うちの親、そんなこと思わないけどな。それよりも、いきなり3年の記憶がなくなりましたって言って、顔を出す方が、驚くと思うんだけど。
「やっぱり、前もって、記憶がなくなったことだけでも言えばよかったかな」
聖君が、そう話を続けた。聖君も同じことを考えていたのかな。
「そ、そうだね。いきなりすぎて、びっくりしちゃうよね。凪を連れて土曜に行くって連絡したら、すごくお母さんもお父さんも喜んじゃって、結局記憶喪失のことは言えなかったし」
「……ごめんね?」
聖君はうなだれながら、謝った。
「え?なんで?」
「桃子ちゃんにも気を遣わせてるね」
「そんなことないよ。大丈夫」
そう私が言っても、聖君はまだ、顔が暗かった。
やっぱり、緊張してるんだね。今の聖君からしてみたら、初めて会う人ばかりだもんね。
ここは、私がしっかりしないとっ!
そんなことを心で固く決心していると、凪とパチッと目が合った。凪は私の目をじっと見つめると、横にいる聖君の顔もじっと見つめた。
何かを感じ取ったんだろうか。
凪は、しばらくするとうとうとと寝てしまった。でも、新百合ヶ丘に着いた途端に目を覚ました。
「降りよう、聖君」
「え?あ、ここか…」
聖君は電車を降りて、私のあとについてきた。
そうか。新百合ヶ丘に来た記憶もいっさいなくなっているのか。
「ここから、ちょっと歩くんだ」
そう言うと、聖君は、ますます緊張した顔になった。
「大丈夫?どこかで休んでから行く?」
「いや、大丈夫」
聖君はちょこっとだけ笑顔を作って見せた。でも、作り笑いだった。
大きな公園に入った。聖君は、
「へえ、こんな公園が近くにあるんだね。いいね、ここ」
とそう言って、くるりと公園を眺めた。
「ここ、凪連れて来たことあるよ。ね?凪」
「そうなの?」
「うちの家族とみんなで、聖君も。お弁当持って、ゴールデンウイークに来たよ」
「じゃ、最近だね」
「聖君は、ひまわりとバドミントンしてた」
「え?…桃子ちゃんと凪、ほっぽらかして?」
「うん。聖君、ひまわりとも仲いいから」
「そうなんだ。へ~~」
うわ。思い切り他人事だなあ。
「そっか。この公園、よく来るのか」
「デートでも来たよ。あのベンチに2人で座ったの」
「俺と?いつ?高校生の時?」
「うん」
「へえ~」
「それで…」
「うん」
「なんでもない」
私はつい、聖君とのファーストキスの話をしそうになって、やめた。
「何?それで、何?」
聖君は気になったらしい。
「なな、なんでもないの」
「なんでもなかったら、なんでそんなに真っ赤なの?」
「え?」
うわ。顏、赤い?
「何?」
聖君は立ち止まり、私の顔をじっと見てきた。
「え、えっと。だから、その。あのベンチで」
「うん」
「ひ、聖君と」
「…俺と?」
「キ…」
スした。っていうのは、ごにょごにょとあまりはっきりと言わないで、誤魔化してみた。でも、
「え?まさか、ファーストキス?」
と聖君は勘付いてしまった。
私は黙ってうなづいた。
「そ、そうなんだ。俺、あのベンチで」
聖君はそう言ってから、顔を赤くした。
「そっか。それって、いつぐらいの話?」
「聖君が高校2年で、私は1年の秋」
「付き合いだしてまさか、すぐ?」
コクンと私はうなづいた。
「ゲ。そうなんだ。俺、手、早かったんだ。信じられない」
そうなの?自分で信じられないの?
「桃子ちゃん、泣いた?」
「ううん。泣かない。驚いたけど」
「…俺、まさか突然しちゃったとか?」
「うん」
「ゲ。なんだよ、それ…」
聖君はそう言うと、頭をぼりって掻いた。
「でも、そっとだよ?触れるか触れないか、わからないくらい、そっと」
「……」
あ。聖君、真っ赤になっちゃった。
なんだか、今の聖君って、うぶというか、可愛い。
まだまだ、16歳なんだなあ。
公園を抜け、また私たちは歩き出した。そうして、椎野家に到着した。
「……ここ?」
「うん」
私はチャイムを押した。すると、すぐに母が玄関を開け、
「いらっしゃい、待ってたわよ」
と、階段を駆け下りてきた。
「凪ちゃん!暑かったんじゃない?あ、聖君も中に入って。冷たいお茶、すぐに出すから」
母はそう言うと、凪の顔を見て、目じりを下げた。
「あ、あ、こ、こんにちは」
聖君は固まりながら、挨拶をした。
「それにしても、電車で来るなんてどうしたの?車、お父さんが使ってるの?」
「いいえ」
聖君はほとんど直立不動でそう答えた。
母はあまり気にせず、凪のほうに気を取られていた。
私たちは階段を上り、玄関に入ると、すぐにリビングに行った。
「座って。今、お茶持って来るわ」
「うん」
ソファーに私たちが腰かけようとすると、父が寝室からやってきた。
「やあやあ、いらっしゃい。暑かったろう?今日は天気がいいからなあ」
聖君はまた、直立不動になり、
「こんにちは。お邪魔します」
と丁寧に言って頭を下げた。
「……うん。こんにちは」
父はちょっと不思議がったが、私が凪を抱っこひもからおろすと、
「凪ちゃん~~。抱っこしてあげようか?」
と目じりを垂らし、聖君のことはどうでもよくなったらしい。凪にすぐに夢中になった。
母もテーブルにグラスを置くと、すぐに凪を見て、あやしだした。凪は、嬉しそうに、
「きゃ、きゃ」
と笑っている。
「今日、ひまわりは?」
「バイトの前に、デートですって」
「いないのか~~。聖君来るから、いると思った」
「昼に戻るんじゃない?かんちゃんも、聖君に会いたいって言ってたらしいから」
すると、聖君は顔を引きつらせた。かんちゃんと会うのに、緊張したらしい。
でも、母と父はまったく、聖君を見ることもせず、しばらく凪をあやして喜んでいた。
「お昼どうする?何か作る?それとも、取っちゃう?」
「私、何か作ろうか。あ、聖君と作ってもいいけど」
「俺?」
聖君は声を裏返した。あれ?16歳の聖君は、そういうの苦手なのかな。
「いいわよ。いつも聖君にそういうのお願いしたら悪いわよ」
「そうだよ、桃子。お父さんだって、聖君と釣りの話もしたいんだし。なあ?聖君。そろそろまた、釣りに行かないかい?」
「その前に、話があるの」
私は思い切って、そう切り出した。聖君は私の横で、生唾をゴクンと飲んだ。
「ん?話?」
父はにこやかだった。だが、母はちょっと緊張した顔になり、
「まさか、2人目が…とか言わないわよね?」
と私に聞いた。
「違う、違う」
私は思い切り顔を横に振った。
「結婚式のことじゃないのか?そろそろ決まった頃かなと思っていたんだよ」
「あ、式場、見つかったんだ。それで明日、見に行ってくる」
「あ~~~、そのこと。よかったわね。見つかって。10月だったっけ?」
母はほっと溜息をついて、ソファに腰かけるとそう言った。
「ち、違うの。話はそれとは別」
私はそう言って、ちらっと聖君を見た。聖君は一点を見つめ、それから、
「僕から説明します」
と突然真面目な顔をして、そう言った。
「…聖君、そういえば、今日、やけに真面目な雰囲気だったけど…、何かあったの?」
母が不思議そうに聖君の顔を見た。
「…はい」
聖君は、真面目な顔のまま、うなづいた。
「な、なに?何があったの?」
母は心配な顔つきになった。父もさすがに、にこやかさが顔から消えていった。
「実は、この前、家の中で階段のてっぺん近くから、落ちまして」
「え?怪我したの?でも、どこもなんでもなさそうだけど」
「はい。体は別に。打ち身ぐらいで。でも頭をかなり打ちまして」
「……頭?」
父が、眉をしかめた。
「それで?」
母は先を急いだ。
「…それで、記憶が抜けちゃったんです」
「記憶が抜けた?ど、どういうこと?」
母は目を丸くしてそう聞いた。
「過去の記憶が全部消えたわけじゃなく、1部が消えてしまって」
聖君は、そう言ってから、口を閉じた。そして、一口、お茶を飲むと、
「3年分の記憶が消えてしまいました」
と、そうものすごく丁寧な口調で続けた。
「3年分?っていうことは」
父が頭で計算をしているらしい。
「16歳までの記憶しかないです」
「え?!」
母は、口を開けたまま止まった。父は逆に口を閉じて、固まった。
「じゃ、じゃあ。結婚した記憶も、凪ちゃんの記憶もないの?」
母は、10秒くらいしてからそう聞いた。
「……はい」
「桃子の記憶は?」
父が、少し顔色を変えて、そう聞いた。
「すみません。ないです」
「………」
母と父は同時に、私の顔を見た。
「も、桃子の記憶がない?」
父はそのあとゆっくりと、聖君の顔を見た。
「はい」
「ど、どういうこと?それって、もう一生戻らないの?」
「わかりません」
「いつの話なの?だって、榎本家に行ったのだって、つい最近よ」
「はい。つい、最近のことです」
「………」
母はまた私を見た。父は聖君を見ていた。そして、2人で顔を見合わせ、2人とも黙り込んだ。
「そ、それで…。聖君は、どうしたいのかな」
父は、聞きにくそうにそう聖君に聞いた。
「は?」
聖君は、父の質問に目を丸くした。
「ま、まさか、離婚したいとか」
今度は母が、顔を暗くしてそう聞いた。
「え?まさか!」
聖君は、すぐさま顔を横に振り、
「そんなこと、しません」
とそう断言した。
「そ、そう…。じゃあ」
母は、そのあと、なんて言おうか悩んでいるらしい。きっと頭の中で整理がついていないんだろう。
父はしばらく黙っていた。でも、
「桃子の記憶がないということは、この家で過ごした記憶も、僕のことも、忘れてしまったんだね」
と、ちょっと寂しそうにそう言った。
「すみません」
聖君は申し訳なさそうに謝った。
「…。いや。責めているわけじゃない。ちょっと寂しいだけだよ」
父がそう言って、寂しげに笑うと、聖君はますます顔を曇らせた。
「お父さん。それはいいわ。このさい、こっちにおいておきましょう」
母にそう言われ、父は一瞬、もっと寂しそうな顔をした。だが、
「桃子の記憶がないってことになると、これからの結婚生活はどうするの?凪ちゃんの世話も、どうしていくの?」
という母の質問で、父は真面目な顔を取り戻し、また聖君の顔を見つめた。
「…」
聖君は返事に困っている。
「それに、明日、式場も見に行くって。でも、式を挙げられるの?聖君、桃子のこと覚えてないんでしょ?そんな初めて会ったような子と、いきなり結婚式を挙げるつもり?」
「…はい」
聖君は真面目な顔をして答えた。
「だけど」
「母さん。こうやって、わざわざ報告に来てくれたんだ。聖君にだって、いろいろと考えがあってのことだろう。ちゃんと聞くとしようよ」
「考えって?」
母はだんだんと興奮していっている。父はその逆で、だんだんと落ち着いてきているようだ。
「考えって言うのは、特にないです。今、大学は休んでいますが、勉強は家でしています。それから、大学には一回顔を出して、教授に相談をしてこようとも思っています」
「…」
聖君も落ち着いた。ぐっと話し方が、穏やかになってる。
「車の免許も、取り直すつもりです。ちゃんと一から、教習所に行って、勉強します。それから…、式は挙げます。その間には、高校2年から出合った友人には、会うつもりでいます。今からでも友人になれば、式の2次会に来てもらうこともできますし」
「やはり、聖君は聖君だなあ。今の状況をちゃんと受け止め、前向きに考えてるんだな」
父は感心したようにそう言った。だが、母は違っていた。
「そんなことを聞いてるんじゃないの。聖君の感情、内側のことよ」
「…え?」
聖君も父も、同時に母にそう聞いた。
私は母の言いたいことがわかっていた。聖君の気持ちだ。私に対しての気持ちは何もないのに、結婚生活を続けたり、式を挙げてもいいのかって、そう聞きたいんだよね?