第80話 安心して…
翌日、聖君は元気だった。
朝、凪を抱っこしてお店に行くと、すでに聖君はお父さんとお母さんの朝ごはんを作っていた。
「おはよう、桃子ちゃん。桃子ちゃんの分も今作るから、座って待っててね」
キッチンからの、元気な聖君の声が聞こえた。
「うん。ありがとう」
私は凪を抱っこしたまま、テーブル席に着いた。すると、お父さんがすすすと寄ってきて、
「聖、なんかいいことあったの?記憶戻ったとか?」
と小声で聞いてきた。
「いえ、まだだと思います」
「じゃ、なんであんなにご機嫌なわけ?」
「…さあ?」
お父さんは首をかしげて、カウンター席に戻って行った。
「はい。お待たせ」
数分後、聖君は私の朝食をトレイに乗せやってきた。そして、それらをテーブルに置き、トレイもテーブルの隅に置くと、
「凪、抱っこしてるよ」
とにっこりと笑って、凪のことを受け取った。
「聖君、ご飯は?」
「もう食べた。凪もおっぱい飲んだの?お腹いっぱいになった?」
「あ~~~」
「あはは。今日もご機嫌な凪だね」
そう言いながら、聖君は私の前の椅子に座った。
「凪、今日もパパ、勉強するけど、時々、パパと遊んでね?」
「あ~~う~~」
「遊んでくれるの?嬉しいなあ」
聖君はそう言って、凪の頬に頬ずりをした。
こうやって見ていると、今までと変わらないように見える。
お店には朝の光が差し込み、コーヒーの香りが漂い、お父さん、お母さん、聖君と凪、そしてクロが、ゆったりとしたまどろみの中を過ごしていた。
杏樹ちゃんはすでに、学校に行ったようで、お店の中は、お父さんとお母さんの話し声と、凪に話しかける聖君の声がしていた。
ああ、いいな。このゆるりとした時間。時々、凪の笑い声がして、お父さんとお母さんが、カウンターから凪と聖君を優しく見る。
どこも、今までと変わらない、優しい空間。ただ一つ、聖君の記憶が消えたことを覗けば、何一つ変わらない風景。
カラン!
その時、いきなりお店のドアが開いた。そして、
「兄貴?!!!」
という、けたたましい菜摘の声がお店中に響き渡った。
「………え?」
聖君は、キョトンとした顔でドアのほうを見た。でも、すぐに私のほうを向き、
「誰?」
と小声で聞いてきた。
「今、誰って言った?私のことわからないの?」
菜摘は、息を切らしながら聖君の真ん前まで来てそう聞いた。
「え?」
聖君は、目を丸くしている。
「3年分の記憶がないって、本当なの?蘭が私をだましているわけじゃないんだね?!」
蘭?さては蘭が、菜摘にばらしたな。
「菜摘ちゃん、落ち着いて。それより、こんな朝早くから江の島に来たの?」
「そうです!昨日の夜、蘭から電話で聞いて、いてもたってもいられなくって!学校の帰りに来ようかと思ったけど、どうしても真相が知りたかったから」
菜摘は、お母さんにそうまくしたてたあと、また聖君のほうを見て、
「本当に、3年分の記憶、ないの?」
と、今度は声を低く、ゆっくりとした口調でそう聞いた。
「な、菜摘ちゃん?葉一の彼女の?」
「そう!葉君は、教えてくれなかった。私に秘密にしておこうってしてたのよっ!こんな大事なことを!」
「えっと。ええっと。あ、そっか。俺が桃子ちゃんの記憶なくしたから、ぶん殴りに来たのか」
聖君は、ちょっとのけぞりながらそう菜摘に聞いた。
「桃子の?そうよ。それも頭に来てるけど、私のことも忘れちゃって、頭に来てるのっ」
「え?」
聖君は、顔を聖君に思い切り近づけて怒っている菜摘に、圧倒されながら、聞き返した。
「う、う、う…」
あ、やばい。凪が泣きそう。
「凪。こっちにおいで」
私がそう言うと、聖君はすくっと立ち上がり、
「凪、大丈夫だよ」
と優しく言って、凪の背中をぽんぽんと優しくたたいた。
「凪ちゃんのことは、覚えてるの?」
菜摘の質問に、聖君は黙って首を横に振った。
「……」
それから、黙って菜摘の顔を見た。菜摘もじいっと聖君を見ている。
「え、えっと」
聖君は、またたじろぎながら、一歩下がった。それから、ゆっくりと私の横へと移動してきた。
「桃子。なんで何にも言ってくれなかったの?蘭にも黙っていたんでしょ?」
「う、うん。ごめん」
「もう~~。こんな大変な時に、何も言ってくれないなんて」
「ごめんね?でも、なんかいろいろとけっこう慌ただしくって」
「…だけど、葉君と基樹君には連絡いれたんでしょ?」
「それは聖君が、メールして…」
「ああ!そうか。葉君と基樹君の記憶はあるのか。でも、私や桃子の記憶はないんだよねっ?」
また菜摘は聖君を責めるようにそう言った。
「菜摘ちゃん、悪いけど、声のトーンさげてくれる?さっきから凪が怖がってるよ」
聖君はそう言って、菜摘から離れると、凪のことを抱っこしたまま、ゆらゆらと揺れた。
「……、桃子。兄貴、凪ちゃんのことは可愛がってるの?」
「うん。可愛いんだって…」
菜摘は私の横の席に座り、聞いてきた。私はうなずきながら、小声でそう答えた。
「じゃあ、桃子のことは?」
菜摘の今度の質問には、なんて答えようか戸惑ってしまった。
「桃子のことは、どうなの?蘭は、大丈夫そうだって言ってたけど、本当なの?」
「心配で来てくれたの?」
「そうだよ。兄貴の記憶がないなんて、桃子、落ち込んでないかって心配するに決まってるじゃん」
「兄貴?」
私と菜摘の会話を聖君は聞いていたようだ。
「兄貴って…誰?俺?」
「そ、そうだよ」
菜摘は、口を尖らせそう言った。
ああ!まだ、聖君は、お父さんと血がつながっていないってこと知らないのに。
カウンターにいる、お父さんとお母さんが、私たちの横にやってきた。さすがに心配になったのかな。
「えっと?いつ俺と菜摘ちゃんは師弟関係を結んだのかな?」
聖君は、冗談半分にそう言った。
「な、菜摘ちゃん、何か食べる?あ、菜摘ちゃんの朝ごはんも聖、作ってあげてよ。凪ちゃんは私が抱っこしてるから」
お母さんはそう言って、聖君から凪を受け取り、聖君をキッチンに追いやった。
「菜摘ちゃん、聖、まだ知らないのよ」
「え?」
「あの子の父親のこと」
「……そうですよね。その記憶もないんですよね」
「…ごめんね?そのうちに話さないとって、爽太とは話していたの。でも、まだ…」
「………」
菜摘の目がなんだか、潤んだ。
そこに聖君が菜摘の朝ごはんを運んできた。
「飲み物は、オレンジジュースでいいのかな」
と、よそよそしい声で言いながら。
「うん。それでいい」
菜摘は、さっと涙を拭き、そう答えた。聖君は、菜摘が泣きそうになっていたのに気が付いていないようだった。
聖君は、お母さんから凪を受け取ると、凪を抱っこして、カウンターに腰かけた。その隣には、お父さんが座った。
菜摘は私の横で、ハムエッグを食べ始めた。そして、
「あ、美味しい」
と小声で言った。
「………俺、なんで兄貴なの?」
聖君が、ぽつりとそう言った。
「……あだ名」
菜摘もぽつりとそう答えると、トーストをバクッと口に入れた。
「ふうん」
聖君は、納得のいかないって言う顔でそう言うと、凪を見て、あやしだした。凪は、
「うきゃ」
と高い声をあげて喜んでいた。
私は複雑だった。
菜摘は自分が忘れられていることも、聖君と兄妹の関係でいられないことも、寂しいようだった。
でも、私は、そんなことよりも、聖君が菜摘にたいして、どんな思いを持つのかが不安だった。
血のつながりがあるって知らなかった頃、聖君は菜摘に惹かれていた。
聖君の目から見た菜摘はきっと、魅力的な女の子だったはずだ。
じゃあ、今は?記憶がない聖君にとって、菜摘は初対面の女の子だよね。
いつ、菜摘に惹かれたのかは知らないけど、確実に聖君は菜摘を好きになっていたんだもの。今だって、菜摘を見て、何かを感じているんじゃないの?
「今日、ここに来ること、葉一は知ってるの?」
聖君は、菜摘にまだよそよそしい感じでそう聞いた。
「知らないよ。あとでメールする」
「………。葉一と付き合って、長いんだっけ?」
「桃子と兄貴と同じくらいかな」
「長いんだ。3年くらい?」
「うん」
「ふうん…。葉一、彼女なんていらないようなこと言ってたのにな」
聖君はそうぽつりと言ってから、
「あ、いらないって言ってたのに、付き合ったってことは、相当君に惚れ込んだってことだよね」
と慌ててそう言った。
「………」
菜摘は何も答えなかった。でも、私のほうを見てから、また聖君を見て、
「兄貴は、凪ちゃんの記憶がなくても、可愛いんでしょ?」
と突然聞いた。
「可愛いよ?」
「じゃあ、桃子のことは、忘れてても、可愛いって思う?」
「え?!」
「思う?」
聖君は、2回も菜摘にそう聞かれ、たじろいだ。
「ねえ…」
菜摘はまだ、しつこく聖君に聞いている。
「菜摘…。聖君、困ってるよ」
私はそう菜摘に小声で言った。
「だ、だけど…。だけどさ…」
菜摘は、なんだか悲しそうな目で私のことを見ている。私に同情しているのだろうか。
「菜摘ちゃん。蘭ちゃんもだけど、すごく友達思いなんだよね?基樹も葉一もそう言ってた」
聖君は、凪を抱っこしたまま、椅子から立ち上がりこっちに向かってきた。
「そうだよ。桃子は大事な親友なの。だからいくら兄貴とはいえ、桃子のことを傷つけるのは許さないよ」
「…そっか。葉一が言ってたの、本当なんだ」
「え?」
「菜摘ちゃんが知ったら、俺のこと殴りに来るって、そう言ってた」
「な、殴らないけど…」
菜摘はそう言うと、口を尖らせた。
「でも、安心して?俺、確かに桃子ちゃんのこと忘れてるけど、でも…」
「…でも、なに?」
「凪が可愛いって思うように、桃子ちゃんのこともちゃんと、可愛いって思っているし、なんだかすごく大事に思えているから」
「……え?」
菜摘と同時に、私も思わず聞き返してしまった。
「俺の奥さんが、桃子ちゃんでよかったって思っているし…。こんな可愛い赤ちゃんと奥さんがいて、まじで嬉しいって、浮かれてる…って言い方悪いか。えっと、喜んでいるからさ」
そう言うと、聖君は顔を赤くして下を向いた。それから、凪のことを見て、
「ね?」
と同意を求めた。
凪は聖君の顔をぺちぺちすると、
「あ~~」
と思い切り笑顔で答えた。
「そうなんだ。聖。それで今朝はやけにご機嫌だったんだな」
お父さんが聖君の後ろからそう言った。
「ま~~~~~。そうなの!聖ったら、そうなの!」
お母さんは、そう言った後に両手で口を押え、それから嬉しそうに微笑んだ。でも、目にはうっすらと涙が見えていた。
「兄貴って、なんでいっつもそんなにすごいの?」
「へ?」
「桃子が妊娠したってわかった時も、すごく喜んで受け入れちゃったし」
「ああ、そうなんだってね?」
「記憶がなくても、ちゃんと桃子のことを愛してるんだね」
「え?」
聖君は菜摘の言葉に真っ赤になった。
「あ、えっと…。うん。そうかな」
聖君は、赤くなって下を向いた。そしてしばらく、凪に頬をぺちぺち叩かれたまま、じいっとしていた。
そして聖君はちらっと私を見て、
「うわ。桃子ちゃん、泣いてるの?」
と驚いた。
「あ、嬉し泣きだから」
そう言って、私が鼻をすすると、
「…まったく、可愛いよね。桃子ちゃんは」
と聖君はクスって笑って、そう言った。
菜摘は、ふうって息を吐くと、
「なんだ。蘭が言ってたように、なんの心配もいらなかったね」
と私に言った。
「うん。大丈夫だよ。菜摘。だって、聖君がすぐそばにいてくれるもん」
私は菜摘にそう言った。
菜摘は、そっか~~、そうだよね。と納得した。
お母さんとお父さんは、うんうんと私と聖君を見てうなづいている。
そして聖君は…。まだ顔を赤くして、凪に頬をたたかれたままでいた。
ぺちぺち。
「あ~~~。う~~~」
ぺちぺち。
「あ~~~~。うきゃっ」
凪は本当にパパのほっぺ、たたくのが好きなんだなあ。
その光景は涙でぼやけて見えた。




