第5話 初めての授乳
夕方になり看護師さんが来て、一緒に新生児室に行くことになった。私は体を起こし、ベッドに座った。
クラ…。それだけでも、頭がくらくらした。
「聖君、手、貸して…」
「うん」
私は聖君の腕を掴んだ。それから立ち上がったが、目の前が真っ暗になり、そのまま意識がふっとなくなった。
「桃子ちゃん?」
「榎本さん!大丈夫ですか?」
ふ…。次の瞬間、目の前が灰色になった。なんで?と思ったら、聖君の匂いがした。あ、これ、聖君の着ているパーカーの色…。
あれ?私…。
「榎本さん、もう少し横になっていましょうね」
看護師さんの声がした。私は顔をあげると、心配そうにしている聖君の顔がそこにあり、
「大丈夫?意識戻った?ベッドに横になれる?」
と聖君が聞いてきた。
「私?」
ベッドに横になってから、聖君に聞いた。
「立ち上がってすぐに、俺の胸の中にドスンって倒れてきた。意識、失ってたでしょ?」
「え?」
「榎本さん、血圧低いみたいだし、もう少し様子を見てから、新生児室に行きましょうね」
「え?でも、それまでは?」
「大丈夫よ。ちゃんとミルクは哺乳瓶で飲んでいるから…」
「…そうですか」
私はまだ凪のことを見れないし、抱けないの…?
「じゃあ、何かあったら、すぐに呼んでくださいね」
そう言うと看護師さんは出て行った。
「大丈夫だった?」
カーテンの向こうから、小百合ちゃんの声がした。
「ごめん。小百合ちゃん、起こしちゃった?」
「ううん。目は覚めてたんだ」
聖君がカーテンを開けてくれた。
「輝樹さんだったら、なんか食べるものでも買ってくるってコンビニ行ってるよ」
聖君がそう言うと、小百合ちゃんは元気のない声で、
「…もう家に帰ってもいいのにな。輝樹さんも昨日から、全然寝てないのに」
と、申し訳なさそうな顔をして言った。
「難産だったんだって?」
聖君が聞いた。
「難産っていうか、微弱陣痛だったの。それですぐに陣痛室にも入れなくって、陣痛が来るようにって、歩いてみたり…」
「ええ?昨日、そんなことしてたの?」
「うん。結局、陣痛促進剤も使って、それでもなかなか生まれてこなくって…」
「大変だったんだね。小百合ちゃん」
聖君がそう言うと、小百合ちゃんは私を見て、
「桃子ちゃんはすぐに生まれたの?」
と聞いてきた。
私はまだ、朦朧としていた。さっきの貧血で、まだ頭がクラクラしている。
「半日くらいかかったかな。桃子ちゃんは、陣痛、すごい痛そうだったよ」
私が何も答えないでいると、聖君が代わりにそう答えていた。
「大丈夫?桃子ちゃん」
小百合ちゃんがまた、心配そうに聞いてきた。
「うん、なんかクラクラして」
そう言うと、
「桃子ちゃん、少し寝たほうがいいよ?」
と聖君が優しく言ってくれた。
「ごめんね、私が話しかけたから。もうカーテン閉めて?聖君」
「うん」
小百合ちゃんにそう言われ、聖君はカーテンを閉めた。
「は~」
私は思わずため息をして、それから目を閉じた。
「あんだけ、頑張ったんだもん。桃子ちゃん、ゆっくりしなよ。ね?」
「凪に、会いたいのにな…」
目をつむったままそう言うと、聖君は、
「大丈夫。すぐに会えるよ」
と優しく私の頬をなでながらそう言った。
聖君の手が優しかった。その触れた手のぬくもりで一気に心が休まり、私は眠りについていたようだ。
「桃子、寝ちゃってるの?」
「うん。もう、凪は見た?」
「まだ…。新生児室、どこだかわかんなくって」
「一緒に行こうか?」
「うん」
そんな声がした。あ、もしかして、菜摘?私は目を開けた。
「あ、桃子、起きた」
そう声をかけたのは、蘭だった。
「桃子ちゃん、目、覚めた?」
聖君が私の顔を覗き込んだ。
「…蘭。菜摘…」
「おめでとう、桃子」
蘭は手に花を持っていた。
「あ、この花、どうしようか。花瓶ないよね?」
「下の売店に売ってるかも。買いに行ってくるよ」
聖君はそう言って、さっさと出て行ってしまった。
「桃子~~。どうだった?産む時、痛かった?」
菜摘が聞いてきた。
「小百合ちゃん、同室なんだね」
蘭がそう言うと、
「桃子ちゃん、起きたの?じゃ、カーテン開けてもいい?」
と隣から小百合ちゃんが言ってきた。
「うん」
私がうなづくと、カーテンがシャッと開いた。あ、輝樹さんが開けてくれたのか。
「花、花瓶にいけてくるね」
輝樹さんはそう言うと、小さな花瓶と花束を持って、病室を出て行った。
「兄貴がメールで、小百合ちゃんも生まれたよ、同じ部屋なんだって教えてくれたの。だから、蘭と2人に花を買ってきたんだ」
「ありがとうね、蘭、菜摘」
私がそう言うと、小百合ちゃんもありがとうとお礼を言った。
「小百合ちゃんは、男の子だって?」
「うん。名前は多分、おばあさまが決めてた名前になると思う」
「え?理事長が?」
菜摘が驚いている。
「どんな名前?時代錯誤の名前にならない?」
蘭が聞いた。
「候補はね、宏樹、和樹、雅樹」
「みんな、樹がつくのね」
菜摘がそう言うと、小百合ちゃんは嬉しそうに笑い、
「輝樹さんの樹を取って、おばあさま、考えてくれているみたい」
とそう言った。
「なるほど。旦那さんのこと、理事長も気に入ってるんだ」
「うん」
蘭の言うことに、小百合ちゃんはまた嬉しそうにうなづいた。
「凪、女の子だったんだね」
菜摘が私にそう言うと、
「こりゃ、兄貴も大変だわ」
とそうぼやいた。
「くすくす。絶対に親ばかになるね」
蘭がそう言うので、私は、
「ううん。もうすでに、親ばかなの」
と教えてあげた。
「新生児室、兄貴が帰ってきたら行こうよ、蘭」
「うん。凪と小百合ちゃんの赤ちゃん、見たいもんね」
「そうだ。ねえ、産むのどうだった?痛かった?」
もう一回菜摘が聞いてきた。
「腰が割れるかと思ったよ」
「うひゃ~~。産む時ってそんなに痛いの?」
「ううん。産む時じゃなくて、陣痛の時。それが何度も何度もやってきて、どんどんそのたび痛くなって、何時間もかかって…」
「よく耐えたね、桃子。兄貴はどうしてたの?」
「ずうっと腰をさすってくれてた。きっと聖君も大変だったと思う」
「桃子ちゃんは聖君のこと、怒ったりした?」
小百合ちゃんが隣から聞いてきた。
「怒る?ううん」
私がきょとんとして首を横に振ると、
「えらいなあ、桃子ちゃんは」
と、小百合ちゃんがそんなことを言った。
「え?なんで?」
「私、輝樹さんに何度か、怒っちゃったもん」
「へ?」
「腰をさすってくれたり、押してくれたんだけど、そこじゃないの!もっと下!とか、もっと強く押して!とか…」
うそ。小百合ちゃんが?
「隣にいたお母さんが、輝樹さんに謝ってた。でも、輝樹さん、いいんですって言いながら、必死で私の腰を押してくれた」
「…そ、そうなんだ」
蘭と菜摘も驚いている。
「さっき、輝樹さんに謝ったの。そうしたら、いいよって笑ってた。でもなあ、心の中じゃ、私のこと怖い女って思ってないかなあ」
「…まあ、しょうがないよ。それだけ痛かったんでしょ?」
菜摘はそう言ってから、
「桃子は兄貴にまったく、そういうこと言わなかったの?」
と私に聞いてきた。
「うん。でも泣いてたかも」
「え?」
「痛いよ~~~~っ、聖君、痛いよ~~~って」
「な、泣いちゃったの?」
小百合ちゃんがびっくりしている。
「自分じゃよく覚えてない。でも多分、泣いちゃってた」
トントン。ドアをノックして、聖君と輝樹さんが入ってきた。2人して花のいけてある花瓶を持っていた。
「ごめん、遅くなって。そこで話しかけられちゃってた」
聖君が頭をぼりって掻いてそう言った。
「誰に?」
「入院してる人。若いけど、奥さんが入院してるの?それとも、お姉さんが入院してるの?って」
「……逆ナン?」
菜摘が聞いた。
「んなわけないでしょ、菜摘」
聖君が呆れたって顔をして、花瓶をテーブルに置いた。
「さ、新生児室行こうよ、兄貴」
菜摘が聖君の腕をひっぱった。
「あ、うん。いいかな?桃子ちゃん、案内してきても」
「うん。蘭も菜摘もありがとうね」
私がそう言うと、蘭と菜摘は私と小百合ちゃんにまた来るねって言って、聖君と一緒に病室を出て行った。
「輝樹さんは行かないの?」
私が聞くと、輝樹さんはうんって小さくうなづいた。
「疲れてるんじゃない?輝樹さん、もう帰っても大丈夫だよ?あとでお母さんが来てくれるって言ってたし」
小百合ちゃんがそう言うと、輝樹さんは、
「ごめん。じゃ、そうさせてもらうよ。また明日会社の帰りに来るからね」
とそう言って、私にもぺこってお辞儀をして、出て行った。
「私のこと嫌になってないかな」
小百合ちゃんが天井を見ながらそう言った。
「輝樹さんが?」
「うん。ずうっと口数少ないし」
「疲れてたんじゃない?それか、小百合ちゃんが疲れてると思って、気を使ってたんだよ」
「だったらいいけど」
「そんなに怒っちゃったの?」
「うん。きつく言っちゃった。桃子ちゃんはよく怒らなかったよね」
「…でも、聖君にずっと甘えてたよ」
「…ずっと?」
「お母さんと交代でそばにいてくれたんだけど、お母さんには甘えられなかったんだけど、聖君にはすっかり甘えてた」
「甘えるって、どんなふうに?」
「え?だから、痛いよ~~ってずうっと、泣き言言ってた。聖君の腕にも思い切りしがみついてたし、跡残ってないかな。本当にずっと力入れて握ってたんだ、私…」
「そうなんだ。聖君、どうしてた?」
「ずっと腰さすってた。役に立てなくてごめんね、とか、代わってあげれたらいいのに、とか言いながら」
「優しいね」
「輝樹さんだって」
「うん、そうなんだけどね…。ああ、今頃になって、本当に申し訳なかったって思うよ。向こうも寝ずにずっと、そばにいてくれたのにね」
「うん…。小百合ちゃんも大変だったんだね。でも、2人とも無事生まれてよかったよね」
「桃子ちゃん、血圧低いの?大丈夫なの?」
「うん。さっきよりも、クラクラしてないよ」
今度は絶対に、新生児室に行きたい。凪に会いたいもん。聖君に抱っこしてもらってでも行きたかったな。さっきも…。
なんて、また聖君に甘えようとしてるなあ、私は。
小百合ちゃんが静かになったと思ったら、すうって寝息が聞こえてきた。あ、寝ちゃったんだ。
輝樹さんに嫌われてないかなんて、心配しなくてもいいのに。きっとそんなことで、嫌ったりしないよ。と思うけど…。
あれ?私は?聖君の前で、何か失態してないよね?ドキドキ。
20分くらいして、聖君がそっと戻ってきた。そして小百合ちゃんが寝ていることに気が付き、そっとカーテンを閉めた。
「蘭ちゃんと菜摘、凪を見て、大喜びしてた。やっぱり、桃子ちゃんに似てるってさ」
聖君は声を潜めてそう話し出した。
「ほんと?凪、起きてた?」
「うん!初めて目を開けてるところを見た。大あくびもして可愛かった!」
聖君が目をぎゅってして、喜んでいる。
「いいなあ」
「そこで看護師さんに会ったよ。桃子ちゃん、今起きてるって言ったら、そろそろ母乳をあげに行きましょうかって言ってたから、来るんじゃないかな」
「母乳を?そうだよね、まだあげてないんだもんね」
「俺、見に行ってもいい?」
「うん」
すると本当にすぐに、ドアをノックして看護師さんが入ってきた。
「どうですか?榎本さん」
私は、そっと体を起こした。
「あ、座ってから少し、立ち上がるまで、そのままでいてください」
看護師さんにそう言われ、私はしばらく座っていた。
「クラクラしていないですか?」
「はい」
「じゃ、旦那さんにつかまりながら、立ってみましょうか」
私は聖君の腕につかまった。聖君は背中も支えてくれた。
「あ、大丈夫だ」
今度はあまりクラクラしていない。
「じゃあ、新生児室に行く前に、お手洗いに行きましょうか」
そう言われ、私は病室を出て、トイレに寄った。聖君は廊下で待っていてくれて、看護師さんはドアの所まで来てくれた。
トイレが怖い。生まれてからはずっと、看護師さんが「お小水、取りましょうね」って来てくれてたけど、産んだあとって、どうなっちゃってるのかが、すごく怖い。それに確か、切ったり、縫ったりもしていたよね。
とりあえず、洋式でよかった。しゃがむのすら、なんだか怖い。それに、痛い…。
引きつる痛みがある。これって、縫った痛み?裂けないようにって、産む前に切って、そこを最後に縫っていたけど、それで痛いの?。
どうにかトイレを済ませ、廊下に出た。そしてまた聖君に支えてもらい、私は歩き出した。だけど、歩き方がちょっとおかしいことに、自分でも気が付いた。まるでペンギンのように、ちょこちょこ歩きになってる。
新生児室に着いた。歩くのが遅くって、時間がかかってしまった。でも、聖君はそんな私に速度を合わせ、ゆっくりと歩いてくれていた。
新生児室の前に行くと、何人かの人がガラス張りの部屋を覗いていた。
「こちらです。あ、旦那さんはここで待っていてくださいね」
看護師さんに連れられ、私は新生児室の中に入った。
うわ。赤ちゃんがいっぱいいるし、おぎゃあおぎゃあ、みんなが泣いている。
「これから授乳の時間だから、みんなお腹を空かせてるんですよ」
看護師さんがそう言った。
「榎本さんの赤ちゃんは、ここですよ」
看護師さんが、並んだ赤ちゃんのベッドの一つを指差した。私はそこに、そっと近づいた。
ドキドキ。凪にご対面だ。
「ふ…ぎゃあ」
凪がいきなり泣き出した。
「あら、お母さんが来たのがわかったのかな?」
看護師さんがそう言って、凪を抱っこした。そして私の腕に、凪をそっと抱かせてくれた。
カチン。私の両手はカチコチにかたまった。泣いてる凪を、どうしていいかもわからない。
なんとなく視線を感じて、窓ガラスの外を見た。あ、聖君がにこにこしながらこっちを見ている。
「榎本さん、こちらですよ」
看護師さんは、奥に通じているドアを開け、その中に入って行った。私もあとに続いていくと、そこには、すでに何人かの赤ちゃんにおっぱいをあげている人や、オムツを替えてあげている人がいた。
窓ガラスはしっかりと、ロールカーテンで中が見えないように隠されていて、椅子が何個かおいてあり、部屋の隅には、オムツ替えをするための、ベビーベッドが並んでいる。
私も椅子に凪を抱っこしたまま座った。それから、看護師さんが、授乳の仕方を教えてくれた。乳首をちゃんと綺麗に拭いて、それから赤ちゃんの抱き方はこう。と、凪を軽く片手で持って、私の腕にまた置いて、おぎゃおぎゃ大きな口を開けている凪の口に、私のおっぱいをくわえさせる。
凪は多分、まだ目も見えていないだろう。だけど、このおっぱいを吸うと、お腹が満たされるんだということを知ってるんだよね。本能的に…。
最初はなかなか吸ってくれなかった。でも、看護師さんが、
「ほら、おっぱいよ。お腹空いてるんでしょ?」
なんて凪に話しかけ、やっとこ凪はおっぱいを吸いだした。
なんとなく、痛い。
吸ってる凪の横顔を見た。うわあ、小さい。でも、一生懸命におっぱいを吸っている。
うわ~~~。うわ~~~。うわ~~~~~~~。
「榎本さん、そんなに固まらなくても大丈夫」
看護師さんが微笑みながらそう言った。え?私、固まってた?
「これが初乳ね」
看護師さんは、一生懸命に母乳を飲んでいる凪を見て、ぽつりと言った。
そうか。凪が生まれて初めて、おっぱいを飲んだんだ。
ああ、感動だ。ここに聖君もいたら、めちゃくちゃ喜んでいただろうな。
赤ちゃんにおっぱいをあげるのって、こんなに幸せな気持ちになるんだな。
…なんて、私はまだこれからの大変さも知らずに、幸せいっぱいで凪の横顔を見つめていた。