第75話 今の聖君の想い
その日から聖君は、仕事が終わってから部屋で勉強を始めた。
正直寂しい。でも、聖君は頑張っているんだ。記憶を失ったことを嘆いたりせず、今、できることをしているんだよね。
私には、何ができるんだろう。何か聖君のためにできることってあるんだろうか。
水曜日のお店の定休日も、聖君はずっと家にいた。私は家事を手伝い、聖君は時々凪をあやして、気分転換をしていたようだ。
お父さんが、夕方聖君に筋トレでもしようと誘ったが、聖君はそれすら断って、勉強を続けていた。
夜、私は凪が寝てから、聖君の部屋のドアをノックした。
「はい?」
聖君がドアを開けて顔を出した。
「聖君、お腹とか空かない?夜食作ろうか?」
「あ、いいや。俺、遅くに食べると胃がもたれちゃうんだ」
「そっか…」
役に立てるかと思ったんだけどな。
「あ、邪魔してごめんね。それじゃあ…」
「…うん」
聖君は少しだけ微笑み、部屋に入って行った。
バタン。私も和室に戻り、凪の隣に寝転がった。
「凪…、寂しいね」
ああ、寂しがるな、私。隣りの部屋に聖君はいるんだから。
何度もそう自分に言い聞かせた。
翌朝、聖君は少し遅くに起きてきた。私はお店の手伝いをしていて、お父さんがお店で凪のことを抱っこしてあやしているところだった。
「は~~~。眠い」
「聖、夜遅くまで勉強していたのか?」
お父さんがそう聞くと、聖君は「うん」とうなづいた。
「無理するなよ。お前、けっこう無理して頑張りすぎるところあるからなあ」
「…受験の時、俺、どうだった?」
「寝られなくなってたな…。唯一の救いは桃子ちゃんだったっけね」
「え?」
「桃子ちゃんはいつでも、お前のパワーの源だったからさ」
お父さんがそう言うと、聖君は少し私のほうを見て、すぐに視線を外し、
「ふうん」
と、納得してしていないような相槌を打った。
「桃子ちゃん、お店の方は大丈夫だから、洗濯物を干すのをお願いしてもいい?」
お母さんからそう言われ、私は2階に上がって洗濯物を干した。
今日は天気がいい。海からの風の匂いがする。きっと洗濯物はすぐに乾く。
そのまま、私はルーフバルコニーにあるベンチに座り、ぼけっと空を眺めていた。
「桃子ちゃん」
後ろから声を掛けられ、驚いて振り向くと、聖君が凪を抱っこして2階に上がって来ていた。
「凪、ぐずっちゃった?」
「いや…。父さんが店の手伝いをするっていうから、俺が凪のお守りをしようと思って」
聖君の後ろから、クロまで階段を上って来ていた。
「…凪とクロ連れて、散歩に行く?聖君」
「…いいや。クロ、もう父さんが散歩に連れてったって言ってたし。俺、まだちょっと外を出歩く気にはなれないんだよね」
そうなんだ。そんな素振り見せなかったから、わからなかった。
「知らない人に声を掛けられるのが、けっこう憂鬱って言うか、ストレスって言うか…」
「そうだよね。向こうは知っていて声をかけて来ても、聖君にはわからなかったら、困惑しちゃうよね」
「…記憶消えたことも、あんまりまだ、人に話したくないって言うか…。いつか、そのうちに話さないとならないんだけどさ」
「…」
聖君は黙ったまま、私の隣に座った。
やっぱり、聖君は気にしてるんだな。そりゃ、そうだよね。もし私が今、聖君の立場だったら、相当不安かもしれない。
「葉一と基樹には、昨日の夜メールした。2人とも、びっくりしてた」
「そう…」
「葉一は、午前中に外回りがあるから、そのあとちょっと店に寄るってさ。基樹も大学終ったら、来てくれるって」
「……2人とはずっと聖君、仲いいんだもんね」
「高校卒業してからも?」
「うん」
「そっか。良かった」
そうだよね。他にも桐太とか、大学の友達とか、聖君には友達がいっぱいいたけど、3年間の間にできた友達は、わからないんだもんね。
「3年分、記憶なくしたって言ったら、2人とも桃子ちゃんのことも忘れたのかって、驚いてたよ」
「…」
「桃子ちゃんのこと、すごく心配してた」
「わ、私なら大丈夫なのにな」
「なんで?俺、自分のことで精一杯なところあったから、桃子ちゃんのことまで考えてあげられなかったけど、桃子ちゃん、一番きついんじゃないの?」
「え?」
「母さんも父さんも、きっと俺に気を使って何も言わないけど、文句を言ったのが杏樹だけだったけどさ…。確かに、桃子ちゃんが一番きついだろうなって思って」
「ううん。私、大丈夫だよ」
「なんで?」
「だ、だって。聖君、目の前にいるし」
「だけど、その目の前にいる俺は、桃子ちゃんのこと何も覚えてないんだよ?」
「そうだけど、でも、聖君には変わりないし」
「……」
聖君はしばらく黙って私を見ていた。でも、凪が聖君のほっぺをぺちぺちたたいたので、聖君は凪のほうを向いた。
「なあに?凪。パパになんか言いたいことでもあるの?」
パパ?今、パパって言った?
「あ~~、う~~」
「ママのこと忘れたから、怒ってるのかな」
「う、ううん。凪、怒ってないよ。機嫌いいもん。きっと、目の前にいるパパが、大好きだって言ってるんだよ」
「…目の前の俺?」
「うん」
「……そっか」
聖君は優しい目で凪を見て、凪のほっぺに頬ずりをした。
「可愛いな。なんでかな。すごく凪を見ていると、愛しいって感情がこみあげてくるんだ」
「…」
あ、いけない。今、また凪が羨ましくなった。
「風、気持ちいいね」
「うん」
「桃子ちゃん、ここによく座る?」
「…うん。洗濯物を干した後、ここに座ってのんびりしてること多いかも」
「…ふうん」
「そういえば、この前初めて並んで歯を磨いた」
「俺と?ここで?」
「ううん。凪のゆりかごの横で」
そう言うと、聖君はゆりかごのほうを見た。
「なんだか、嬉しかったんだ」
「隣で歯を磨くことが?」
「うん。なんだかね…」
「じゃ、今度しようか?」
「いいの?」
「え?いいよ。そのくらい…」
聖君は私を見てそう言うと、くすっと笑った。
「?」
なんで笑ったのかな。
「そんなことで、桃子ちゃんは喜ぶんだね」
「う、うん」
聖君だって、喜んでたよ。記憶なくす前だって、隣に並んで歯を磨こうねって言ってたし。
「………」
聖君はまた私を見た。そして目が合うと、すぐに視線を凪に向けた。
「桃子ちゃんのこと、俺、桃子ちゃんって呼んでたんだよね?」
「うん」
「自分の奥さんなのに、呼び捨てとかにしていなかったんだね」
「うん」
「なんでかな」
「わかんないけど、桃子ちゃんは桃子ちゃんって感じだからって、そう言ってた」
「はは…。わけわかんない理由だね」
「う、うん」
「…まあ、でも、そうかもな」
「え?」
「そんな感じする。ちゃん付けが似合ってるよね」
「子供っぽいからかな?」
「………。なのかな?」
聖君は少し私を見て、そう答えた。
あ、やっぱり。今の聖君って16歳だよね。そんな聖君に、子供っぽいって思われちゃうくらい、幼いんだな、私って。
「凪を抱っこしていても、ママだって思われないんじゃないの?」
「う…、そうかも」
「俺、桃子ちゃんに甘えてたって父さんが言ってたけど、本当かな」
聖君はそう言ってから、じいっと凪の顔を見て、
「あれ、父さんがきっと俺をからかったんだよね?」
と、なぜか私にではなく、凪に聞いていた。
「……」
私はなんて言っていいかわからず、黙っていた。
「ごめん」
「え?」
なんでいきなり謝ってきたの?
「女の子と付き合ったことってあまりないから、俺、付き合ったらどうなるのか、まったく見当がつかないんだ」
「…」
それで、ごめんって言ったの?
「前に付き合った子とは…。あ、中学2年の時だけど、すぐに別れたんだ。俺といてもつまらないって言われて、ふられた」
うん。知ってる。それに、桐太がその子にちょっかい出してたことも。
「…でも、そうかもな。俺、何を話していいかもわからなかったし、メールもしなかったし。デートだって、どこに行ったらいいかもわかんないしさ」
「…デートはしなかったの?」
「うん。学校の行き帰りだけだ…。それも、男友達を優先することがほとんどで、一緒に帰ったのも、ほんの数回」
「…そうだったんだ」
「…俺、一緒にいてどうだった?付き合いだした当初、メールとかマメにしてなかったよね?きっと」
「ううん、いっぱいくれたよ。いまだに保存してあるの。見る?」
「え?……。い、いいや」
「どうして?」
「なんだか、こっぱずかしいから。もし、変なこと書いてあったら、かなり俺、ショック受けそう」
「そうなの?」
「……。変なこと書いた?俺…」
「ううん。大丈夫」
「あ、もしかして、すごくそっけないメールだったりした?」
「ううん。絵文字もはいった可愛いメールばっかりだった」
「うそ」
聖君は目を丸くして私を見た。
「ほ、ほんと…」
「…そ、そうなんだ」
聖君はまた、凪のほうを見た。凪は空を見たり、ひらひらと揺れている洗濯物を見て、あ~、う~と何やら、お話をしている。
「お、俺さ。もしかして凪のことあやすとき、赤ちゃん言葉とか使ってた?」
「…たまに」
「そっか~~~」
聖君はなぜか、顔を赤くした。あ、照れてる。
そうだった。聖君ってシャイなんだった。そういえば、こんなに恥ずかしがり屋なのに、なんであんなに可愛いメールを送ってくれたりしたんだろうか。
今、考えると不思議だ。
それに、手を繋ぐのも抵抗なかったみたいだし、キスも付き合ってすぐにしてきたよね?
だけど、今横にいる聖君は、とてもそんなことできそうもないくらいに、照れちゃってる。
照れてる?
ほんと?
3年前は私のことが好きだったから、可愛いメールを送ってきたり、手を繋いでくれたり、キスをしてくれたのかもしれない。
だけど、今の聖君は…?
うわ。また不安が押し寄せてきた。
聖君が、私を好きになってくれなかったら、どうしよう。
ああ、せっかくお父さんが私を励ましてくれたというのに。
「父さんや母さん、それに杏樹の言う俺って、俺じゃないみたいで、なんだか変な感じなんだ」
「…」
「甘えたり、いちゃついたり、バカップルだったり…。って、本当に俺のこと?」
「………」
うん!と思い切りうなずきたい。でも、今の聖君に、それを言ってもショックを受けるだけなんだろうか。
「……あのね」
「うん」
私は、聖君の顔を見た。聖君は、すぐ横にいる私と目が合ったけど、さっと視線をまた凪に向けた。
「だ、大丈夫だから」
「え?」
聖君はまた、私の顔を見た。
「あんまり、気にしないでいいよ」
「…何が?」
「前のこと。今は聖君、今のままで大丈夫」
「…え?」
「だから、その…。前みたいになろうとしないでもいいし、私が辛いって思わないでもいいし」
「……」
「聖君は、今、目の前のことをただ、してくれたらそれで…」
「目の前って?」
「勉強とか…。いろいろと」
「……」
聖君はしばらく私を見ていたけど、また凪がおしゃべりを始めたので、凪の顔を見た。
「それに…。結婚のことも」
「え?」
私がそう言いだすと、また聖君は私を見た。
「あんまり、気にしないで。責任とか、いろいろと考えないでいいから」
「そういうわけにはいかないよね?だって、凪だっているんだし」
「そうだけど…」
う…。泣きそう。本当は、私のことをちゃんと好きになってほしいって思ってる。前みたいに、私に甘えたり、いちゃいちゃしたり、そんな聖君になってほしいって。でも、それが信じられないなら、そんな聖君になれそうもないなら、無理しないでほしい。
もし、聖君が、他の子を好きになったらどうしようって思ってる。でも、記憶のない聖君に、無理やり私を好きになってとはとても言えない。
「……。この前は俺、16の俺でいいよねって言ったけど、それってさ、今、桃子ちゃんは18でしょ?俺の方が年下になっちゃうんだよね」
「え?うん」
「高校2年の俺なんて、てんで頼りにならないやつだよね?」
「そんなふうには思ってないよ?」
「…いいよ。結婚のことだって、16の俺じゃ、考えられないことだし。凪の父親としても、そんな器じゃないってことも、わかってるよ」
え~~!なんで、なんでそうなるの?
「桃子ちゃんが今の俺に、どっかで失望してるのも、なんとなくわかる。本当は、みんなあんな風に言ってるけど、桃子ちゃんのほうが俺に甘えてたんだよね?」
「え?え?違うよ」
「……。今の俺でいいって言うけど、いいわけない。このままでいいわけない」
ドキン。聖君、悩んでた?聖君は聖君で、悩んでいたの?
あんな風に、俺は楽天家だからって笑ってたけど、心の奥ではやっぱり、あれこれ悩んで、焦ってた?
「ほ、本当に私、聖君が頼りにならないなんて思ってない」
「……いいよ。いきなり16の俺になったって、受け入れられないのはしょうがないよね?」
「私が?」
「……」
「私、聖君が16でも…」
「3年分の記憶ないよ?今の俺に19の時の俺を求めても、こたえられないよ?」
「うん」
「桃子ちゃんは、俺のこといろいろと知ってるかもしれないけど、俺は桃子ちゃんのことまったくわからない。これから、桃子ちゃんのことを一つずつ知っていくしかないんだ」
「う、うん…」
「それでもいいの?」
「……うん」
いいよ。だけど、聖君は私でいいの?
聞けない。その答えが怖くって、とても聞けない。
私は目を伏せた。聖君のほうこそ、私のことを嫌になったりしない?一つずつ知っていって、嫌いになったらどうするの?
「桃子ちゃん、泣いてる?」
「ううん、泣いてない」
私は慌ててにこりと微笑み、聖君を見た。
「でも、鼻赤いよ…」
「う…」
慌てて鼻を隠した。
「泣くの、こらえてるよね?」
「う、ううん」
駄目だ。声も震えた。
ここで泣いたりしたら、きっと聖君が困る。ううん、自分を責めて苦しんじゃうかもしれない。
「ひ、聖君こそ、私でいいの?」
泣くのをこらえてそう聞いた。
「え?」
「私よりももっと、好きな子、できるかも」
「……え?」
聖君の表情が固まった。
「私のこと知っていって、嫌になるかも。なんで結婚したんだろうって後悔するかも」
う…。涙出た。大変。抑えきれなくなって、どんどん涙が出てくる。
「…俺が?」
コクン。黙ってうなずいた。
「………」
聖君はしばらく、黙って私を見ていた。
「…こんなこと、言うのも何だって思ってて、言わなかったけど」
また視線を外し、聖君は宙を見て話しだした。
「え?」
ドキン。な、何?まさか、私のことを好きになれそうもないとか、そういうこと?
うわ。聞きたくないかも、その先の言葉。
私はうつむいた。本当は今すぐ、耳をふさぐか、ここから逃げ出したいくらいだ。
でも、聞かなくちゃ。16の今、目の前にいる聖君の思いを。
「俺、桃子ちゃんのこと好きだよ」
「………」
え?
え?今、なんて?
好きって言ったの?
私は驚きのあまり、声も出せなくなっていた。