第74話 今、目の前の聖君
聖君は写真を集め、
「それも」
と言って、私の手にある写真を指差した。
「こ、これは私がもらう」
「駄目」
「なんで?私が本当はもらうはずだったの」
「…ま、いいや。それって、うちのデジカメで撮ったやつでしょ?また、プリントアウトできるし」
「い、意地悪」
「え?なんで?」
聖君がびっくりして私に聞いた。
「だって、こんな間抜けな顔した写真」
「…可愛いって」
「嘘だ。本当に可愛かったら、そんな簡単に口に出したりしないもん」
「え?!」
聖君は一瞬、びくっとした顔をした。あ、図星?
「俺、可愛いって言ってたんじゃないの?君に」
「言ってたけど」
「……だ、だったら、俺、きっと本音言ってたと思うんだけど」
「……」
ほんと?今も可愛いって、本気で思ってる?
ああ!なんとも言えないこの不安感。他の女性に会って、ああ、なんで俺はこの子と恋に落ちなかったんだって、後悔したりしない?
なんて、そんなことを聞けるわけもなく。
「はい。プリントアウトまたしちゃうなら、意味ないし。この写真も返す」
「うん」
聖君に写真を手渡そうとして、指の先が触れ、聖君はパッと手を引っ込めた。写真はテーブルの上にひらひらと落ち、聖君はそれを拾った。
なんで、引っ込めたのかな。私はすぐに聖君の顔を見た。すると、目が合い、聖君はさっと視線まで外してしまった。
なんで?
照れてる?さっき、抱きついた時には、真っ赤になった。
でも、もしや、困ってる?だって、女の子苦手だし。前に、椎野家の隣の人に抱きつかれ、かたまっちゃった時があった。怖いって言ってたっけ。
まさか、私のことも、怖い…とか?
「…あのさ。写真じゃなくて、ビデオとかないのかな」
「ビデオ?あ、それなら凪のがいっぱいある。聖君もお父さんもいっぱい撮ってたよ」
「それどこ?見たいな」
それから、聖君とリビングのテレビで、凪のビデオを見だした。
生まれてすぐに、産院の新生児室で撮ったビデオから始まり、ベビーバスで沐浴しているところ。うっくん、あんぐ~と話し出した凪や、笑った凪。それらが映し出された。
「あはは。可愛い。あんぐ~、うっくんだって!」
聖君は目を細め、
「もう一回、見ていい?」
と聞いてきた。
「うん、もちろん」
聖君はまた、凪の、「うっくん、あんぐ~」を聞いた。それをなんだか、しんみりとした顔で見ている。
「凪が生まれて、まだ、3か月だよね」
「うん」
「でも、それだけでも、凪はこんなに成長してるんだね」
「うん」
「…桃子ちゃんとは3年…。その間にはいろいろとあったよね」
「うん」
「…」
聖君はもっとしんみりとした顔になり、ビデオを黙って見ていた。
3時、お客さんが混んできたらしく、聖君はお店に出て行った。私はクロと凪とリビングにいた。
でも、4時を過ぎた頃にはお店が空いたのか、お父さんだけ戻ってきた。
「凪ちゃん、起きてる?」
「はい」
「抱っこさせて~~」
聖君のお父さんは凪を抱っこすると、目を細めて喜んだ。
「ああ、癒されるね。仕事のあとに子供の顔を見ると、なんでこうも癒されちゃうかね」
「…ですよね」
凪は、お父さんがいないいないばあをするたびに、キャタキャタ笑っていた。お父さんが凪を笑わせる時には、いつもこれだ。
「聖と、なんかしゃべった?」
「はい。写真を見たり、凪のビデオを見たり」
「ああ、なるほど。で、落ち込んじゃったのか」
「聖君、落ち込んでましたか?」
「うん。俺、いろんなすげえ思い出、全部失ったんだなって言って、肩を落としてた」
「…」
写真やビデオ、いいと思ったのに逆効果だったのかな。
「でもさ、過去に生きてるわけじゃないんだし、今に生きたらいいんだよって言ったら、それ、いつもじいちゃんに言われてたよなって。ちょっとは、気持ちも上がったかな」
「……。あの」
「ん?」
「聖君はお父さんと、血がつながっていないことも忘れてるんですよね」
「そうだね」
お父さんはうなづいてから、
「もう、こうなったらずっと黙っておく?」
といたずらっぽい顔でそう言ってきた。
「駄目です。菜摘が困っちゃいます。きっと」
「あ、そうか」
「それに、また菜摘のことを好きになったら、聖君、あとから辛い思いをするだろうし」
「ええ?それ、本気で言ってる?」
聖君のお父さんは目を丸くした。
「え?」
「聖が菜摘ちゃんを好きになるって」
「だって、聖君、最初は菜摘のことが」
「今はさ、桃子ちゃんと結婚してるんだよ」
「でも、その記憶はないわけだし」
「でも、感覚って言うのかな。奥底の想いは残ってるんじゃないのかな」
「奥底の?」
「そう。だって、好きだとか愛してるとかって、思考じゃないでしょ?湧き上がってくるものじゃない。それ、記憶の中から湧いてくるんじゃなくて、ここから湧いてくるんじゃないの?」
お父さんはそう言って、自分の心臓のあたりを指差した。
「ハート?」
「そ。あいつはきっと、そういうのにもう気づいているよ」
「そ、そうですか?」
「だから切なくなったんだよ。3年分の桃子ちゃんの記憶がないこと」
「切なく?」
「うん。切なそうだったよ。すごくね」
お父さんはそう言うと、にこりと笑った。
「杏樹も言ってたっけ。お兄ちゃんは絶対にまた、お姉ちゃんに恋をするって。俺もそう思うけどな」
「……そ、そうでしょうか。でも、3年前とは状況も違うし」
「……桃子ちゃんは、どうして自分を聖が好きになってくれるって思えないのかな?」
「え?」
「自信を持っていいんだよ?あいつがすんごく好きになった子だ。ね?」
「……」
お父さんの声も目も優しかった。お父さんはいつだって、私を励ましてくれる。
「ありがとうございます」
「…くす」
「?」
「そういうところが、桃子ちゃんの良さだよねえ。そこ、聖も気づいてるって」
「え?」
くすくす。お父さんは笑いながら、また凪のことをあやしだした。
そういうところって、どういうところなのか、そこがいつもわからない。
そして、夜にはやすくんも来て、杏樹ちゃんも大ダッシュで部活から帰ってきたようだ。
8時近くになると、聖君は私とお父さん、そして自分の夕飯をお盆に乗せ、リビングに来た。
「お疲れ、聖」
お父さんがそう言うと、聖君は、「おう!」と一言言って、私のはす向かいに座った。そこは、凪の座布団のすぐ横だ。
「凪、起きてた。機嫌よさそうだね」
そう言うと、凪はにこりと笑った。
「もう、俺の言ってることわかるの?」
「わかってるんじゃないの?実は全部」
お父さんがそう言ってから、
「パパ、私のこと忘れて酷い。なんて思ってるかもよ」
と聖君にそんな意地悪なことを言った。
「え…」
聖君の顔が引きつった。
「嘘嘘。凪ちゃんはそんなこと思ってないさ。きっと、今、目の前にいる聖、それだけで大満足してると思うよ」
「…今の俺で?」
「そ」
お父さんはそう言うと、いただきますと言ってご飯を食べだした。
「…そうかな。前のパパはこんなふうにしてくれたとか、いろんな文句あるかもしれないよ?」
聖君もいただきますと言って、お箸を持ったのに、またそんなことを言いだした。
「ないだろ。きっと凪ちゃんには、いつだって、今目の前のことしかないと思うよ。昨日、おとといの記憶って、そんなにないんじゃない?」
「俺と一緒?凪も3か月分の記憶ない?」
「うん。きっと今に生きてるよ。昨日のお前と今のお前を比べたりなんてしてないさ」
「……そっか」
聖君はそう言うと、ほっと溜息をついて、
「俺も、今のお前も、前のお前もどっちも大好きだけどね」
と言ったお父さんの言葉で、真っ赤になった。
「あ、あのさあ。そういうのを平気で言わないでくれる?桃子ちゃんもいるんだし」
「桃子ちゃんもそうだろ?前の聖も、今の聖も、大好きだよね?」
お父さんは私に向かってそう聞いた。
「え?」
ドキン。
私は、いろいろと比べてた。前だったらこうしてくれた、ああしてくれたって比べて落ち込んで。でも、そうだよね。今目の前にいる聖君も聖君で、私が大好きな存在には変わりはないんだから。
「はい」
私は聖君のことを見て、またお父さんのほうを向きうなづいた。
「……」
聖君はすぐに下を向き、頭を掻くと、
「い、いただきます」
とそう言って、ご飯を食べだした。
どう思ったかな。聖君。私が聖君のことを大好きでいるの…。どう思ったのかな。
聖君は、私の方も見ず、黙々とご飯を食べ、半分くらい食べた頃、
「うめえ」
と目を細めた。
ああ、やっぱり、ご飯を美味しく食べる聖君には変わりなかったね。
「母さんの料理の腕、上がったんじゃない?」
「へえ、そう感じる?」
「うん。美味いよ」
「桃子ちゃんも、料理上手だよ」
「あ、そうだよね。手伝ってるところ見たけど、包丁さばきとか上手だった」
「れいんどろっぷすで働きたいんだって。で、凪ちゃんがもうちょっと大きくなったら、料理の学校に行きたいんだよね?」
お父さんは私に聞いた。
「え、は、はい」
私がそう答えると、聖君は私のほうを向いて、
「へ~~~。そんな夢があるんだ。すごいね」
とまったく他人事のように感心した。
「お前ね、他人事みたいに感心してるけど、その間、凪ちゃんの面倒、お前が見るんだよ?」
「え?」
「学校に行ってる間は、保育園とかに行ってもいいけど、その送り迎えとか、俺や聖で交代で行ったりしなくちゃ。学校によっては遠いかもしれないしね」
「そ、そんな!迷惑かけるわけにはいかないから、学校は当分先でいいです!」
私が慌ててそう言うと、聖君はちらっと私を見て、
「でも、俺は大学行ってるんだろ?桃子ちゃんだけ、自分のしたいことできないのって、不公平じゃん」
とそう言った。
「いいの。料理の学校行かなくても、調理師の免許取れるって言うし」
「……それじゃ、多分、俺の気が済まない」
「え?」
「俺だけ自由にやってるなんてさ」
「そんなことないよ。聖君だって、大学とお店の往復で毎日大変なのに、凪の世話までしてくれてるよ」
「でもさ。大学辞めて働くくらいのことしないとさ」
「だ、だけど、そうしたら聖君のしたいことが…。それに、ただでさえ、沖縄いきもあきらめちゃったのに」
「………それは、君には関係ないんだろ?店のためにこっちに残ったって」
聖君はそう言ってから、お父さんの顔を見た。
「…聖。大学は行きなさい。大学に在学している間に、将来したいことを見つけて、卒業したら、その後の仕事で稼いだ金を、俺らに返してくれたらいいから」
「出世払いってこと?」
「ああ、そうだ。今、辞めて働いたって、したいことなんて見つからないかもしれないんだし」
「でも」
「そう決めたんだよ。お前も納得したんだ」
「……」
聖君はその言葉に、何も言えなくなった。
「結局は父さん、今の俺じゃなくって、19歳の俺しか認めてないんじゃん」
聖君はそう言うと、ご飯をバクバクと食べ、自分の食器を持って、お店に行ってしまった。
「…すねたか」
お父さんはそうつぶやいた。
「あ、あの」
私は聖君に、なんて言っていいかもわからなかった。あんなふうに意見が食い違ってしまったのは、初めてかもしれない。
「聖、まだ、受け入れてないのかもな」
「え?」
「変な責任感だけ、持っちゃったかもしれない。記憶がないとはいえ、自分の子供と奥さんがいる。どうにか、養って行かないとならない。みたいなね」
「え?聖君がそんなこと?でも、今の聖君って、まだ高校2年」
「うん。若い。だから、逆に俺らに甘えることとか、できないのかもしれない」
「…」
「一人でどうにかしないとって、突っ走ったり、周りの助けの手をうるさがったりする年齢かもしれないね」
「……」
「あの年に、あいつは俺と血がつながってないことを知るんだ。そのあと、俺とも口をきかなくなったし、家でも暗かったしな」
「そうなんですか?」
知らなかった。
「桃子ちゃんにはきっと、相当癒されたんじゃないの?桃子ちゃんの前では、明るかった?」
「え?…はい」
「あいつ、本当に3年の間に、すごく成長したんだな。あいつの言うとおり、俺は19の聖として、つい見ちゃってるのかもしれない。今の聖を見ていないのかもしれないなあ」
「……私も、比較してます」
「え?」
「前だったら、こうしてくれた…、ああしてくれたって」
「そりゃ、しょうがないさ。ついこの前まで、聖は19だったんだし。いきなり、16になっちゃっても、なかなかね」
「でも、でも私…、もう比較するのはやめます」
「…」
「今の聖君をちゃんと見て、ちゃんと今の聖君を受け止めたいって、そう思いました」
「うん。そうだね。俺もそう思ってるよ」
「…」
お父さんの言葉で、そう思えた。それまでは、思えなかった。
「桃子ちゃんがそばにいたら、きっとあいつも大丈夫だね。これから、いろんなことを知っていくと思うけどね」
「……」
私なんかで力になれる?一瞬そう思った。でも、思い出した。私はずっと聖君のそばにいる。聖君が助けを求めるなら、いくらでも助ける。
だけど、わかっている。
聖君は、ちゃんと乗り越えるだけの力を持っている。
だって、3年前だって、聖君は乗り越えた。
だから、大丈夫。私は聖君の力を信じて、ずっとそばにいよう。
もし、聖君の記憶が戻らなかったとしても、そうしたら、今目の前にいる聖君を好きになって、今から聖君との新しい関係を作っていく。