第72話 やっぱり聖君
夢だったらいいのに。
何回も今日はそう思った。
今日のバイトは、紗枝さんが用事があると言うので、絵梨さんが来た。絵梨さんはお母さんから、聖君が記憶喪失だと聞いて驚いていたが、
「絵梨ちゃんでしょ?近所に住んでた…」
と聖君に言われ、めちゃくちゃ嬉しそうにうなづいた。
「覚えてるの?私のこと」
「ああ、なんとなく。あの近くの公園で、よく遊んだよね?」
「うん。そう。わあ!嬉しいな」
絵梨さんは、聖君の腕に触りながら、にこにこしながらそう言った。
聖君はそのまま、絵梨さんと話をしていた。触られた手をひっこめることもせず、時々爽やかな笑顔さえ見せている。
「ブランコから聖君、落っこちちゃって。あのあと、大変だったよね?」
「俺?それは覚えてないな」
「私も怪我してて、一緒にうちのお母さんに病院連れていかれて。わんわん泣いて、聖君、病院嫌がったの」
「ああ、それはなんとなく覚えてる。俺、絶対に怪我してる足を看護師さんに触らせないようにしなかった?」
「してた、してた。手を振りまわしたり、足をじたばたさせて」
「あはは。俺、あの頃から病院大っ嫌いだったから」
聖君が絵梨さんと、あんなに楽しそうに話をするなんて!今まで、あんなに絵梨さんのこと、苦手だって言ってたのに。
絵梨さんも嬉しそうだ。聖君にぴったりとくっついて、離れようともしない。
「聖、キッチンのほうを手伝って」
お母さんが聖君を呼んだ。
「桃子ちゃんには、スコーンを焼くお手伝いをしてもらってるの。聖、ホイップクリーム作っちゃってよ。できるわよね?」
「ああ、うん」
聖君はそう言うと、私の横に立って、泡だて器でシャカシャカと、クリームを泡立て始めた。
私はなんとなく、その場にいづらかった。やっぱり聖君からは、冷たいオーラがやってくる。
でも…。聖君が隣にいるのを、どこかで喜んでいる私もいる。
さっきの、絵梨さんに見せてたような笑顔、見せてくれないかな。なんて期待もしている。
「へえ。手馴れてるんだ」
聖君は私の作業を見て、そうつぶやいた。
ドキン。聖君に見られて、いきなり緊張してきた。
カラーン…。
大変!スコーンのネタの入っているボウルを落っことしてしまった。まだ、4分の一くらい、残っていたのに…。
「ごめんなさい」
慌てて拾おうとして、しゃがむ時に、変な体制になり尻餅をついた。焦って、立ち上がろうとして、また足が滑って今度は前にこけた。
ああ、失態ばかり。
「大丈夫?」
聖君が、クリームの入っているボウルを置いて、私の腕を持って立たせてくれた。
「あ、ありがとう」
ドキン。聖君に腕、掴まれた。聖君の手のぬくもりを直に感じてしまった。
聖君の、ぬくもりだ。聖君の手だ。聖君の…。
ああ、嬉しいかも。
嬉しくて、どぎまぎして、クラッとしてしまった。そしてまた、よろけてしまった。
「危ない」
聖君がそう言って、とっさに私を抱きとめた。
うわ。
聖君の匂い…。思わず、私は聖君の胸に顔をうずめてしまった。
あったかい。あったかさが変わらない。
「……」
聖君は、なぜだかそのままの体制で、かたまってしまった。
あ、困ってる?
私は我に返り、さっと聖君から離れた。
「ごめん。もう、大丈夫」
そう言って、今度は落ち着いて床に落ちたボウルを広い、それからすぐにモップを持って来て床を拭いた。
「ちゃんとスコーンのネタから、作り直すね」
モップを洗って片づけてから、私はまたキッチンに入って聖君にそう言った。
「……うん。手伝うよ」
聖君はそう言うと、黙って隣で一緒にスコーン作りをしてくれた。
聖君のお母さんは、キッチンの奥で洗い物をしていて、私たちの間に入ろうとはしなかった。
きっと、私たちが2人だけでいられるよう、話しかけることもしないで、ただ見守ってくれていたんだと思う。
スコーンを作り終えると、聖君はホールに行った。そして、絵梨さんとまた話をしたりしながら、ホールで仕事をし始めた。
聖君はお客さんにも、絵梨さんにも笑顔を見せた。
だけど、キッチンのほうに来ると、私と目が合っても笑いもせず、さっと視線を外した。
ああ、やっぱり。さっきはとっさのことだったから、聖君は私を助けてくれたけど、私のことは避けてるんだな。
ランチの時間が過ぎて、お客さんが少なくなると、
「聖、桃子ちゃんとお昼食べちゃって」
と言って、聖君のお母さんが、私たちのランチを作ってくれた。
「カウンターで?」
「リビングで食べたら?凪ちゃんもリビングにいるんでしょ?爽太、凪ちゃんのこと見てると思うけど、聖が食べてる間、爽太にお店を手伝ってもらうから」
お母さんがそう言って、トレイに2人のお皿を並べた。
「わかった」
聖君はそれを受け取って、そしてリビングに先に行ってしまった。
「じゃ、お先にいただきます」
私はお母さんにそう言って、エプロンを外した。
「桃子ちゃん、聖とゆっくりしていいからね?」
お母さんはそう言ってにっこりと笑ってくれた。
ゆっくりと言われても。きっと聖君が、嫌がるんじゃないかな。
私がリビングに行くのとすれ違いに、お父さんがリビングから出てきた。
「桃子ちゃん、ゆっくりしてていいよ。ランチの時間が済んだら、店はそんなに混まないから」
「はい」
お父さんもそう言ってくれた。
私がリビングに行くと、聖君はすでにテーブルに私と聖君のランチのセットを並べ、私のことを待っていた。
そして私が、聖君の前に座ると、聖君はいただきますと手を合わせ食べ始めた。
「うん、うまい」
聖君はそう言って、美味しそうにハンバーグをばくばくと食べだした。
ああ、美味しそうに食べるのは、記憶がなくなっても同じなのね。
「あ~~~、う~~~」
凪が聖君を見て、話しだした。
「凪にはまだ、ハンバーグは早いだろ?」
聖君はにっこりと笑いながら、座布団で寝ている凪にそう答えた。
クロは聖君のすぐ横に来て、尻尾を振った。
「駄目。ハンバーグには玉ねぎが入ってるんだよ。クロが食べたら、体に悪いんだよ?」
聖君がそう言って、クロにあきらめさせた。クロは、また凪の隣に来て丸くなった。
「……。ねえ」
聖君は私に向かって、話しかけてきた。
ドキン。私?私に話しかけたんだよね?
ドキドキしながら私は、聖君の顔を見た。
「クロに似てるって、言われない?」
「え?」
「だから、クロ。似てるよね?」
クロ?私が?
「……。い、言われたことあるけど」
「やっぱり?俺の他にもそう思った奴いるんだ」
「ううん。聖君に言われた…」
「あ、ああ。俺…。俺がそう言ったのか」
「うん」
聖君はまた、もくもくとご飯を食べだした。そして食べ終わると、ご馳走様と言ってお箸を置いて、アイスコーヒーをゴクンと飲んだ。
「……」
聖君が、私のことを見ている。うわ。緊張しちゃって、なんだか食べづらい。
「ねえ…」
「え?!」
また、話しかけてきた?
「君ってさ、今、いくつ?」
「私?私は18」
「…俺より、一個下ってこと?」
「うん」
「じゃあ、この春で高校卒業…。してないのか。その前に退学になった?」
「ううん。ちゃんと卒業したよ」
「でも、お腹大きかったんだよね?学校には妊娠してること…」
「ちゃんと言った。でも、卒業まで学校に通わせてくれたの」
「ふうん」
聖君はそう返事をして、凪のことを見た。
「安産だった?」
「うん。安産だった」
「俺、まさかと思うけど、立会とかした?」
「ううん。聖君、血とか苦手でしょ?」
「うん」
「分娩室の前で待ってたよ…」
「じゃ、病院には俺、行ったんだ」
「ギリギリまで、背中や腰さすってくれてた」
「君の?」
「うん。すごく痛がってたから」
「痛かった?産むのって痛いの?」
「産むより、陣痛が大変で…」
「そう…」
聖君はちらっと私を見たけど、また凪のほうを見た。それから、凪のことを抱っこした。
「俺、この子、可愛がってた?」
「うん。ものすごく」
「やっぱり?なんとなくわかるよ。今もすごく可愛いし」
「赤ちゃん、好きだもんね?杏樹ちゃんの世話もよくしてたって言ってたよ」
「うん。杏樹の世話してたな、そういえば」
聖君はそう言うと、凪の顔に顔を近づけた。凪は聖君のほっぺをぺちぺちして、
「あ~~~、う~~~」
と何やらおしゃべりを始めた。
「クス。可愛いよね?」
聖君はそう言うと、嬉しそうに目を細めた。
「なんかさ、この重さとか、匂いとか、そういうの懐かしいって言うか、感覚が覚えてるみたいなんだよね」
「え?」
凪の?
「俺、抱っこするの上手くない?抱きなれてる感じしない?」
「うん。する」
「やっぱり?手とか、腕とかが覚えてるんだ。不思議と…」
そうなんだ。そうなんだ!ちゃんと感覚は残ってるんだ。
ドキドキ。なんだか嬉しくなった。全部を忘れちゃったわけじゃないんだね!
「だから、さっきも…」
「え?」
「…匂い、それにぬくもり…」
「え?」
「あ、これ、知ってるって思った」
「凪の?」
「違う。君の…」
ドッキン!
「私の?」
聖君はちらりと私を見た。そしてすぐにまた、凪のほうを見た。
「それだけじゃない。昨日はなぜだかわかんないけど、すんげえ嫉妬してたし、俺…」
「嫉妬って?」
「桐太が君のこと、抱きしめてた。あれ見て、なんだかもやもやしたんだ」
え?え~~~!!!!!
だから、私と桐太を、あんなに刺すような怖い視線で見ていたの?それでなの?
「…変だよね。まったく知らない子なんだ。でも、知ってるんだ」
「……私のこと?」
「あ、全く知らないわけじゃないんだよね?だって、結婚までしてて」
「う、うん」
「………。杏樹や、母さんや父さんに言われた。俺、相当君のことが好きだったの?一緒に風呂に入っていただの、メロメロだっただの…。バカップルだの、にやけっぱなしだの…。なんだか、さんざんなことを言われたんだけど」
さ、さんざん?
「俺、そんなにあれなのかな。ベタ惚れに惚れて、結婚したのかな」
ドキン。
「赤ちゃん、できたから結婚したんだよね?父さんがさ、赤ちゃんができて、俺がすごく喜んで、結婚するのもすごく喜んでいたんだよって、そう言ってたけど」
「……うん」
私はコクンとうなづいた。ああ、聖君がちゃんと、私と話をしてくれてる。それだけでも嬉しい。
「そっか。まいったな」
え?
「まったく覚えてないし…。俺、中学の時、ちょっと付き合った子がいたってだけで、ずっとそのあとも彼女いないし。なのにいきなり、結婚してて子供もいてって言われても、なんていうか…。俺のことじゃないみたいでさ」
「そ、そうだよね」
そう言うと、聖君は私を見た。
「俺は、君のどこに惹かれたんだろう」
え?
「君は俺のどこが好きになったの?」
「…わ、私は…」
全部。そう言おうとした。でも、聖君は私の返答も聞かず、また凪のことをあやしだした。
「この子、君に似てるね」
「……そう?」
「うん。似てるよ」
聖君はそう言うと、しばらく凪のことをじいっと見ていた。
「俺の子なんだなあ」
「…」
「信じられないよなあ。よくドラマであるじゃん。いきなり子供が現れて、パパって言って来るの。身に覚えがあるなら、ああ、俺の子なんだって思うだろうけど、身に覚えがなけりゃ、誰の子だ?この子はってなるじゃない?」
「え?うん」
「俺、まったく身に覚えがないって言うか、記憶にないからさ。なんだか、変な感じだ」
聖君はそう言うと、ちらっと私を見た。
「でも、俺らちゃんと付き合って、そういう関係になったから、赤ちゃんができたんだよね?」
「……う、うん」
そういう関係って、そういう関係のことだよね。
「……やっぱ、それも信じられない」
「…」
「白状するけど、俺、キスすらまだだよ?」
そうか。16歳の聖君は、ファーストキスもまだだったか。あ、正確に言えば、幼い子供の頃、絵梨さんとしていたっけね。
「なのにさ、いきなり子供って…。そりゃ、戸惑うって」
聖君は独り言のようにそう言うと、しばらく黙って凪のことを見ていた。凪は聖君を見ていたけど、隣にいるクロが気になりだしたのか、クロのほうに手を伸ばした。
「はあ…」
聖君はため息をつき、下を向くと、
「ごめん。やっぱりどう接していいか、わかんないな。女の子とまともに付き合ったこともないんだ。いきなり奥さんって言われても、どう接していいかわかんないよ」
とそうつぶやいた。
「う、うん。そ、そうだよね」
そうだよね。と言いながら、私の顔から血の気が引く。
聖君。聖君はすごくタフで、毎日のように私のことを…。なんて、そんなこと絶対に言えるわけもなく。
よくスケベ親父って私に言われてたの。聖君はいつも、でへへってにやけてたんだよ。桃子ちゅわんって言って抱きついてきて、ぎゅうって言いながら抱きしめてきて…。
そんなね、バカップルだったの。そりゃもう、あつあつのラブラブの…。
聖君から見たら、いきなり奥さんが現れて、どう接していいかわからないのかもしれない。でもね、私から見たら、いきなり私を忘れてしまった聖君と、どう接していいかわからないんだよ。
いきなり冷たくされたり、いきなり遠くなったり、いきなり壁を作られてしまった私。
ねえ、私はいったいどうしたらいいの?
「………」
2人して、しばらく黙り込んだ。沈黙の中、凪が、大きなおならをした。
「………。くっちゃい」
聖君はそう、赤ちゃん言葉を使った。
あ、あれ?
「あははははは。おならした!凪!」
いきなり、笑った?
「うっきゃ~~」
「うっきゃ~~じゃないよ。こんなシリアスな場面で!笑える~~!!!」
聖君はしばらくげらげらと笑っていた。その笑い声で凪まで、うきゃきゃきゃっと笑っている。なぜかクロも嬉しそうに尻尾を振って喜んでいる。
「ごめん。笑っちゃって。えっと、なんの話してたっけ?俺ら」
「どう接していいかわからないって話」
「ああ、そうだった。あはは…。いいや、もう」
「え?」
「俺、シリアスなのは向いてないみたい。なんつうの?楽天家っていうか、あほっていうか」
聖君?
「そうだったんじゃないの?19歳の俺も」
「う、うん。そうだった」
「やっぱり?じゃ、いいよね?このままの俺でも」
「え?」
「どう接していいかわかんなかったし、19歳の俺がどんなだったかもわかんないけど、もういいね?」
「な、何が、いいの?」
「そのうち、俺、記憶を取り戻すかもしれない。でも、それまでは16の俺でもいいよね?」
「う、うん」
「…ふ。なんかさ、桃子ちゃん、面白いし」
「え?!!!」
「ボウル落っことして、尻餅ついて、またこけて、よろけて…。実は相当な天然?」
「う…。うん」
「やっぱり?」
聖君はまた、下を向いてクスクスと笑ってから、
「駄目だ。思い出したら、なんだか…」
と言って、げらげらと笑いだしてしまった。
もしや、笑うのをさっき、こらえてた?
「駄目だ~~~!!桃子ちゃんって、まじで犬に似てるし!クロそっくりだし!あははは」
あ!そういえば、ちゃんと桃子ちゃんって言ってくれてる。
なんだか、花火大会の日を思い出した。あの日も、桃子ちゃんって呼んでくれて、私、感動したんだ。
それに、私に思い切り笑顔向けてくれてる。
う、嬉しい~~~~。
な、泣きそう。
「…ねえ。もしかして、今、泣くのをこらえてたりする?」
「え?う、うん」
ばれた?
「鼻の頭、真っ赤だよ。それに、鼻の穴、ひくひくしてるし」
「う…」
慌てて私は鼻を両手で隠した。
「今頃隠しても遅いって」
聖君はそう言って、また笑った。
「うっきゃ~~~」
「凪は俺が笑うと嬉しいの?」
「聖君が、めっ!って怒っても、喜ぶよ」
私はまだ鼻を隠しながら、聖君にそう教えてあげた。
「え?そうなんだ。凪、めっ!」
そう言うと、凪はまた、声をあげて笑った。
「あ、ほんとだ。怒られても笑うんだ。あはは。笑い上戸なんだね。俺に似てる」
聖君はまた、凪に、めっ!と言って、凪を笑わせた。
「可愛い。めちゃ可愛い」
聖君は目を垂らし、にやけ顔で凪を見た。そしてすぐに私のほうを向くと、
「俺さ、もしかして、いつも可愛いって言ってたかな?」
と聞いてきた。
「うん、いつも言ってたよ。凪に」
私がそう言うと、聖君は首を横に振り、
「凪にじゃなくって、君に」
とそう聞いてきた。
「え?」
私?
「言ってなかった?俺、照れ屋でそんなこと言えなかったかな?」
「う、ううん。言ってくれてた」
「そうなんだ」
聖君はなぜか、嬉しそうに目を細めた。
そしてクスクスと笑い、
「うん。記憶はないけど、感覚が覚えてるよ。きっと、ずっと俺、こう感じてたんだろうな」
「…え?」
こうって?
「君を見ると、なんだか、嬉しくなる。可愛いって思えてくる」
え?!
「変だよね?泣くのをこらえていた顔も、赤くなってる顔も…」
「……うそ」
「嘘じゃないけど?」
ひ、聖君だ。やっぱり、聖君だ。16歳までの記憶しかなかろうが、なんだろうが、やっぱり、私の知ってる聖君なんだ。
「ひ、ひ、聖君」
「え?」
「う、うれひい」
私はそう声にならない声で言って、え~~んと泣き出してしまった。
「………。ごめん。泣かせた。泣かせるつもりはなかったけど」
聖君はそう言って、戸惑っている。
「こ、これ、嬉し泣きだから」
そう言うと、聖君はまた、クスクスと笑い、
「すげ、可愛い」
とそうつぶやいた。
記憶、戻ったんじゃない?そう思えるほど、聖君は、聖君になっていた。