第71話 遠い聖君
凍り付くような視線だった。あんな聖君の目、初めて見たかもしれない。
なんで、私をあんな目で見ていたんだろう。
駄目だ。落ち込んでいく。どうしたらいいんだろう。
「桃子、大丈夫か?一回、実家に戻ったほうがよくないか?」
桐太が心配してそう言ってきた。
「え?」
「聖といるの、きついんじゃないのか?」
きつい。正直、今みたいな冷たい目で見られたら、辛くって仕方がない。
だけど…。
「ううん、ここにいる」
聖君のそばについていてあげてって、お父さんから言われたもの。
聖君はもう、お店に戻って行った。お母さんが、
「桃子ちゃん、ここで休んで。それと、桐太君、悪いけど、桃子ちゃんのことしばらくお願いしてもいい?」
と優しくそう言って、桐太が、はいと答えると、お店に戻って行った。
私は凪を抱っこした。
「あ~~~」
凪は、ぐずっていた。でも、私に抱っこされて、すぐに機嫌を直した。
「ごめんね?ママが泣くと、凪も悲しくなるんだね」
そう言うと凪は、なんとなく微笑んだ気がした。
わかるのかな。きっと、つながっているんだね。
お腹の中にいても、私の心の内をわかってたみたいだ。生まれてからも、つながってるんだ。きっと。
凪のあっかたさや、匂いに癒された。それに桐太も、
「俺も、麦も来れる時に店に来るからさ。どうしても辛くなったら、俺の店にも来いよ。な?」
と、そう言ってくれた。
私の周りには、優しい人がいっぱいいる。でも、それは聖君を中心にしてつながっていた。
聖君。3年の間にね、いっぱいの人とつながったんだよ。みんな、心を開いてくれて、みんな、優しくってあったかいってわかったんだ。
聖君も一緒に、それを経験した。その記憶がなくなってしまったのは、悲しいことだ。
聖君、思い出して。
その日の夜、聖君はお店で杏樹ちゃんと夕飯を食べたようだ。杏樹ちゃんは、夕飯を終えリビングに来ると、目に涙を浮かべながら、
「お兄ちゃん、ひどい。お姉ちゃんのこと忘れちゃうなんて、ひどすぎるよ」
とそう言って、私に抱きついてきた。
「聖君、なんて?」
私の話をしていたんだよね?聞くのが怖かったけど、勇気を出して聞いてみた。
「覚えてないって。まるっきり思い出せないって。どう接していいかもわからないって言ってた」
ドクン。
「いきなり、奥さんだ、子供だって言われても、戸惑うばかりで、どうしていいかもわからないって…」
「そ、そうだよね」
そうだよ。そんなの当たり前だよ。高校2年までの記憶しかないのに、いきなりある日突然、大学生です。結婚してます。娘がいます。って言われたって、受け入れられないよね。
それも、まったく知らない子が自分の家にいて、奥さんだって言うんだから。そんなの受け入れられるわけないよね。
「杏樹ちゃん。聖君が悪いわけじゃないから」
「ううん、お兄ちゃんが悪い。お姉ちゃんのこと忘れるなんて、信じられないよ」
「…でも、聖君は高校2年の6月までの記憶しかないんだもん。私とはまだ、出会ってないんだから」
「そうか!」
杏樹ちゃんは何かを閃いたようだった。
「じゃ、またお兄ちゃんがお姉ちゃんに恋をしたらいいんだね?」
「え?」
「うん。それ、大丈夫だよ。お兄ちゃん、絶対にお姉ちゃんに惚れちゃうから」
「む、無理だよ」
「なんで?あんなにベタ惚れだったんだよ。惚れないわけがないじゃん」
「そ、そんなこと言っても。聖君、私みたいな子、苦手みたいだし」
「ううん。ううん!お兄ちゃんはお姉ちゃんに恋をするようになってるの!絶対にそうなの!」
杏樹ちゃんは、そう断言した。鼻を膨らませ、相当興奮している。
きっと、杏樹ちゃんも、必死なんだ。
「ありがとう。杏樹ちゃん」
なんだか、杏樹ちゃんの健気さが、嬉しかった。
「……。俺、風呂入ってくるけど、着替え取に行ってもいい?」
「わ!びっくりした。お兄ちゃん、いつからそこにいた?」
私と杏樹ちゃんは、同時に後ろを向いた。すると聖君がリビングの入り口で、突っ立っていた。
「さっきからいたけど。ちょっと入りづらそうな雰囲気だったから」
「今の話、聞いてた?」
「ああ」
「……」
杏樹ちゃんは、気まずそうな顔をした。
「俺にはよくわかんないよ」
「え?な、何が?」
「杏樹の言ってたこと」
「え?どういうこと?」
杏樹ちゃんは、また必死な顔をして聖君に聞いた。
「…その子、桐太とのほうが仲いいんじゃないの?」
ドクン。
聖君の声、冷たい。それに、桃子ちゃんとは言ってくれないんだ。
「な、何言ってるの?桐太とは確かにお姉ちゃん仲いいけど、お姉ちゃんはずっとお兄ちゃんのことを好きなんだよ」
「……ふうん」
聖君の「ふうん」が出た。きっと、納得していないんだ。そして、
「着替え取ってくる」
とそう言って、階段を上って行った。
「……」
杏樹ちゃんが、悔しそうな顔をした。私は、何も言えなかった。
聖君がお風呂に入っていると、お母さんが片づけを済ませたようで、リビングに来た。お父さんはすでに、自分の部屋に行き、杏樹ちゃんも部屋に行って勉強を始めたみたいだった。
私はクロと凪とリビングにいた。
「聖、どう?」
「……」
「桃子ちゃんに冷たい?」
「はい」
私はそれ以上何か言うと泣きそうで、黙り込んだ。
クールな聖君、悪い聖君、そんな聖君も見てみたいって、昨日思ったっけ。でも、やっぱり、こんなの寂しすぎる。
「はあ。ごめんね?聖って、本当に女の子に対して冷たいの。今に始まったことじゃないのよ。特に初対面の子は駄目みたい」
お母さんはため息交じりにそう言ってから、
「あ、初対面じゃないわよね。もう結婚もしているわよね」
と慌ててそう言った。
「でも、聖君の中では、初対面なんですよね」
「そうね」
これなんだ。聖君のクールで怖いところって。女の子をまったく近寄らせない。こんなにも冷たく、厚い壁だったんだ。
知らなかった。だって、本当に会ったころから私には優しくて。
ううん。出会ったころは、私のこと、見向きもしてくれなかった。話しかけてもくれなかった。
近づいたのは、花火の時。あの時、一気に距離が縮まった。
聖君はそのあと、ずっと優しかった。はぐれた私を必死に探してくれた。鼻緒で擦り剥けた足を、心配しておぶってくれようとした。
いつでも、小さな声の私の話すことを、耳を傾け聞いてくれた。
優しく、「桃子ちゃん」っていつでも言ってくれた。
う~~。また、泣けてきた。そんな記憶も聖君の中には、残ってないんだ。
「桃子ちゃん」
お母さんの前で泣いてしまった。お母さんが、優しく私の背中を撫でてくれた。
「大丈夫よ。あの子、最初は駄目だけど、一緒にいたらだんだんと心開いていくから」
「…」
「ほら、紗枝ちゃんにだってそうだったし。ね?桃子ちゃんにも心を開いていくから」
「はい」
それはいつ?いつまで待てばいいの?
ううん。そうだよ。聖君は本当は優しくって、あったかくって。冷たいのは、心を閉じちゃってるからなんだよ。だから、心を開いてくれるまで、待とうよ。
私は必死に自分にそう言い聞かせた。
聖君がお風呂からあがってきた。
「凪ちゃんのこと見てるから、桃子ちゃんもお風呂に入ってきたら?」
「はい」
私は2階の和室に着替えを取りにいった。
聖君も2階にやってきたようだ。そして、聖君のお父さんが部屋から出てきたみたいで、2人で話す声が聞こえてきた。
「風呂、桃子ちゃんと入らないのか?」
「は?なんで一緒に入らないとならないわけ?」
「夫婦じゃないか」
「父さん。俺、父さんと母さんとは違うから」
「あはは。何言ってるんだ。昨日も一緒に入ってたぞ。結婚してからずっと一緒に仲睦ましく入っていたぞ?」
「俺が?!」
「ああ」
「信じられない」
「なんで?」
「……父さんたち見て、ああはなりたくないって思ってたし」
「なんだよ、その、ああはって」
「バカ夫婦のことだよ」
「あははは。お前の場合、俺らよりもさらに上を行くバカップルだけどな」
「俺が?!」
「うん」
そんな会話が聞こえてきた。そして、
「筋トレしないか?聖」
とお父さんが言って、どうやら二人で、バルコニーへと移ったらしい。声が聞こえてこなくなった。
私はそっと部屋を出た。やっぱり、2人はバルコニーに出て、黙々と筋トレをしていた。
私はそのまま、足音も立てず、下に下りた。
そしてお風呂に入って、バスタブで寂しさを思い切りかみしめた。
「一緒にお風呂…」
入りたいよ…。
今日は川の字で寝れないよね。聖君は自分のベッドで寝るんだよね。
悲しい。寂しい。お風呂の中で沈んでいきそうになった。
お風呂から出て、髪を乾かし、リビングに行った。凪はもうすやすやと座布団の上で寝ていた。お母さんは、ノートを開き、何かを書いていた。どうやら、新たなレシピを考えているようだった。
クロは凪の隣で丸くなっていた。でも、私が近寄ると、顔をあげた。
「ク~~ン」
今日のクロは、私のことを気遣ってくれているようだ。
「クロ、お守りありがとう」
そう言うと、クロはちょっとだけ尻尾を振った。きっと、凪が起きないよう、尻尾を振るのも気を使ったんだろう。
「桃子ちゃん、大丈夫?」
「はい」
お母さんが心配そうに聞いてきたので、私は笑顔を作った。それから凪を抱っこして、そうっと凪が起きないように階段を上った。
和室のドアを開けた。中には私と凪の布団が敷いてあった。
誰が敷いてくれたんだろう。
そっと、凪を布団に寝かせ、私は自分の布団にゴロンと横になった。
今朝、一緒の布団で寝てた。裸で抱き合い、べったりとくっついていた。聖君の胸のあったかさ、鼓動、匂い。すべてを今も覚えている。
じわ~~~。
ああ、また涙が出てきた。聖君は、隣の部屋に居るんだよ。どっか、遠くに行ったわけじゃないんだから。
そう思っても、もうあの優しくって可愛い聖君には会えないような気がして、もっと涙が出てきてしまった。
いつの間にか私は寝ていた。夢の中で私は、聖君の腕の中にいた。
「桃子ちゅわん」
聖君が私に甘えてきた。
「桃子ちゃんの胸は、俺専用だよね?」
「聖君の胸は、私専用…」
「うん!書いてあるよ。ほら」
聖君はTシャツをまくって、胸を見せた。するとマジックで本当に、「桃子ちゃん専用」と書いてあった。
「何これ?」
「ね?書いてあるでしょ?」
「やだ~~~。何これ~」
私はそれを見て笑った。聖君はでへへへって嬉しそうににやついた。
そこで目が覚めた。
「夢…」
隣を見た。凪がすやすやと寝ている。でも、反対側に聖君はいない。
なんで?昨日まで、べったりとくっついて寝ていたのに。なんで隣にいないの?
聖君の記憶がなくなったことが夢であってほしかった。だけど、現実なんだ。
しばらくぼ~~っとした。聖君はもう起きたんだろうか。起きて、記憶が戻っていましたってことは、ないんだろうか。
凪が起きたので、おっぱいをあげ、凪を抱っこして一階に下りた。
リビングには誰もいなかった。私はそのまま、お店に行った。
「おはよう、桃子ちゃん」
カウンターにお父さんが座っていた。お父さんは新聞を広げ、朝食を食べていた。
「おはようございます」
そう言うと、お母さんもキッチンから出てきた。
「おはよう、桃子ちゃん、凪ちゃん。さ、座ってて。今、聖が朝ごはん作っているから」
「え?」
「なんだか、早くに目が覚めちゃったんですって」
「…」
聖君、もしかして寝れなかったのかな。寝つきがいい聖君。でも、聖君って本当は、繊細なんだよね。すぐにお腹壊しちゃうし。
今は大丈夫なのかな。
私は凪を抱っこしたまま、テーブル席に着いた。するとそこに、聖君が私の朝ごはんを持ってやってきた。
トレイから、ハムエッグの乗ったお皿と、トーストの乗ったお皿をテーブルに置くと、聖君はトレイもテーブルの隅に置いて、
「凪、抱っこしてるよ」
と言ってくれた。
「ありがとう」
私はそう言って、聖君に凪を渡そうとした。そして、手が少しだけ触れてしまった。
パッ!一瞬、凪を受け取ろうと伸ばした手を、聖君が引っ込めた。
嘘。もしかして、私が聖君の手に触ったから?
聖君、もしかして、私のこと思い切り、嫌がってる?
聖君は、ちょっと眉をしかめ、それから私の腕の中にいた凪をさっと抱き、そのままお店から出て行ってしまった。
「……」
私はしばらく呆然と、窓の外の聖君と凪を見ていた。聖君は凪を抱っこして、その辺を歩いている。
手、ちょっと触れただけなのに。
私、嫌われてる?
駄目だ~~。また、泣きそうだ。私の涙腺、弱すぎるよ。
聖君は、しばらくお店の中に入ってこなかった。凪に何か話しかけたり、凪を抱っこしてウッドデッキに座ったり、何やら親子水入らずの時間を楽しんでいるようにも見えた。
聖君、きっと凪は可愛いんだ。赤ちゃんや子供、好きだって言ってたし、杏樹ちゃんのことも可愛がってたみたいだし。
ああ、凪がめちゃくちゃ羨ましい。私も聖君に抱きしめて欲しい。
でも、一生無理かも。だって、ちょっと手が触れただけで嫌がられた…。
駄目だ。いったいどうしたら私、この落ち込みから回復するんだろう。一番の元気のもとの聖君がそばにいてくれないのに。
聖君の力になるどころか、役に立てるどころか、私、聖君をもしかすると苦しめてるかもしれないのに。
高校2年。今、16歳かな。そんな聖君にとって、結婚だの、子供だのって重荷でしかないかもしれないのに。
まだ、未来を夢見て、未来に希望を持っている年齢で、16歳の聖君は沖縄に行くことが何よりもわくわくする未来だったかもしれないのに。
それなのに、いきなり、結婚、子供…。そんなの、辛い現実でしかないかもしれない。受け入れたくない現実でしか…。
私、そばにいていいかどうかも、わかんなくなってきた。今の聖君にとって、私は原動力じゃなくって、足かせにしかならないんじゃないの?
泣きそう。胸が痛いよ。つぶれそうだよ。
聖君。
19歳の聖君に会いたいよ。戻って来てよ。今すぐに抱きしめてほしいよ。
ちら。窓の外の聖君を見た。聖君は凪に優しい顔で微笑みかけていた。
ああ、あの笑顔見るの久しぶりかも。
その笑顔はやっぱり、私の大好きな聖君の笑顔だった…。
聖君は、目の前にいるのにな…。切ないな。