第70話 冷たい聖君
午後、聖君がお父さんと帰ってきた。
「ただいま」
お店は、昼の混んでいた時間帯を過ぎ、3組のお客さんがのんびりと、食後のコーヒーを飲んでいるだけだった。
「おかえり。どうだった?」
お店のドアを開け、入ってきたお父さんに、お母さんが近寄って聞いた。
「うん。紗枝ちゃん、ちょっとだけ店を頼む。くるみ、あ、桃子ちゃんも、リビングに行こうか」
私はリビングに凪といると気が滅入るので、凪を抱っこしてお店のカウンターにいた。
聖君は、黙ってお父さんの後ろをついて、家に上がって行った。お客さんの方は、まったく見ようともしなかった。
それに、紗枝さんのことも。紗枝さんが聖君を見て、何か話しかけようとしたが、聖君はちらりとも見ないで、紗枝さんの前を素通りした。
私はそんな聖君のあとを、凪を抱っこしてついて行った。
ドキン。ドキン。聖君のこの様子じゃ、記憶は戻ってないんだよね?
「どうだったの?」
お父さんがテーブルの前に座ると、お母さんは身を乗り出し、お父さんにそう聞いた。
「頭を打って、一時的に記憶が喪失したと思われますって」
「戻るの?」
お母さんは矢継ぎ早にそう聞いた。
「それはわからないけど。でもまあ、戻る可能性のほうがあるとは言ってたね」
「こんな、3年分だけ記憶が飛ぶようなことって、あるわけ?」
お母さんの横に聖君は腰かけた。その聖君をお母さんは見て、ようやく腰を下ろして、落ち着いた顔に戻った。
「ごめん。聖の前で取り乱しちゃった。聖が今一番、辛いわよね」
聖君はお母さんの顔も見ず、下を向いたままだった。
「俺…」
聖君はぽつりとそう言うと、
「また頭でも打てば、思い出せるのかな」
と小声で下を向いたままそう言うと、黙り込んだ。
「やめてよ。わざと頭を打つような事だけは」
お母さんはそう言うと、にこりと笑い、
「大丈夫よ。うん、きっと大丈夫」
と、そう言って立ち上がるとお店に戻って行った。
「母さんって、あんな前向き思考だった?」
「3年の間に、くるみも変わったんだよ」
「そんなにいろんなことがあった?」
「あったね」
お父さんはそう言ってから、
「ま、焦ることないさ」
と聖君の髪をくしゃってした。
「それ、俺が19になってもするの?」
「え?」
「髪、くしゃってした…」
「ああ、してる、してる。ハグもいまだにしてる」
聖君のお父さんはそう言うと、聖君にハグをした。聖君は、黙ってハグをされられたままになっていた。
私は凪を抱っこしたまま、聖君から離れたところに座っていた。聖君はなんとなくだけど、私を避けているような気がする。
聖君に近寄れないような、壁を感じる。一線を引いていて、俺には近づくなってオーラを醸し出しているようだ。
こんなの、初めてだ。
よく、杏樹ちゃんが言ってた。お兄ちゃんは女性を近づけさせない。壁を作ってるって。だから、お姉ちゃんは安心してって。
でも、今、私に壁を作ってるよ?
この壁はどうしたらなくなるの?
すっと聖君は立ち上がった。
「部屋行って、休んでる」
「ああ、そうだな。今日は1日休んでいろよ」
聖君のお父さんが、優しくそう言った。
聖君は階段を、重い足取りで上って行った。
「ふう…」
聖君のお父さんはため息を漏らした。
「桃子ちゃん、しばらく辛いね」
「え?」
「桃子ちゃんが一番辛いかもしれないね」
「いえ、聖君のほうが…」
「…そうだな。聖は漠然と焦ってるよ。なにしろ、3年分記憶がないんだから。大学にも行けないだろうしね」
「…そうですよね」
「桃子ちゃん。辛いとは思うけど、聖のそばにいてやって」
「……」
私はすぐにはいとは言えなかった。そばにいたい。でも、聖君がそばにいさせてくれるかどうか。
「多分、聖は記憶はないものの、感覚で覚えてると思うよ。桃子ちゃんのオーラとか、そういうのをさ」
「え?」
「感覚って残ると思うんだ。だから、そばにいたら、きっと安心できるんじゃないかな」
「私が、そばにいたら?」
「うん。だって、桃子ちゃんはいつでも、聖の原動力だったじゃない。聖、桃子ちゃんがいたから乗り越えられたこといっぱいあるよ。きっと、今もそうだ」
「そ、そうですか?」
「うん」
お父さんは力強くうなづいた。
私は思わず、ぽろっと涙を流してしまった。
私、力になれるのかな。聖君の力に…。
でも、聖君の記憶があろうがなかろうが、私は聖君を好きなのには変わりない。
もし、力になれるなら、いくらでもなりたいよ。
その日、5時を過ぎて、お父さんが凪をお風呂に入れると言うので、私がお店に行った。お母さんは聖君を呼びに行き、
「聖もお店のことはわかるでしょ?凪ちゃんの世話をしている間、店番を頼んでもいい?」
と聖君を部屋から連れ出してきた。
「いいけど。3年の間に定着した常連客とか、顔も名前もわかんないけどいいの?」
「いいわよ。それにホールにはやすくんがいるから、あなたはキッチンの方の手伝いをして。3年前とキッチンは変わってないから、聖でもできるわよ」
「…わかったよ」
聖君はそう言うと、私のあとに続いて、お店に来たのだ。
「聖さん」
やすくんはお母さんから、聖君の記憶喪失の話は聞いていたようだった。
「俺、やすっていいます。聖さん、いっつもやすって呼んでいたんで、そう呼んでください」
「やす?今、いくつ?」
「高校2年っす」
「なんだ。タメじゃん。敬語じゃなくていいよ。それに、俺のことも聖でいいから」
「え?でも…」
「そうしてくれると助かるんだけど」
聖君はそう言うと、キッチンの奥へとエプロンをつけながら入って行った。
「桃子さん」
やすくんがものすごい小声で私に話しかけてきた。
「大丈夫っすか?」
「う、うん」
「なんかあったら、いつでも俺、相談に乗りますから」
「ありがと」
やすくんは、にこりと微笑み、ホールに行って、お客さんのコップに水を入れて回りだした。
ああ、今日のお客さんの中に、聖君目当てで来ている人もいるなあ。何回か見たことある。聖君にいつも、嬉しそうに話しかけてた。
でも今日はきっと、聖君、ホールには出ないだろうなあ。
これからはどうするんだろう。聖君、お店の手伝いできるんだろうか。
聖君は洗い物をし出した。とても手際がよくて、さっさと洗い物を終わらせてしまった。
お客さんは二組。さっき、一人で来ている人が帰って行ってしまい、その人のコップを片づけたら、お店は暇になってしまった。
やすくんはその間に、伝票の整理をして、トレイを綺麗に拭き、雑誌を綺麗にしまい直し、それでも暇で、また水を持って、お客さんのテーブルを回りだした。
聖君はというと、さっきからキッチンの奥の椅子に座って、ぼ~~っとしていた。
私は、夜のディナーの野菜を切ったり、下準備をしていたが、聖君はまったく手伝おうともしなかった。
「あのさ」
ドキン。聖君が話しかけてきた。
「よく、店の手伝いしてるの?」
「え?う、うん」
「ふうん。だろうね。いろいろと知ってるみたいだもんね」
椅子に座ったまま、聖君は私のほうをなんとなく見てそう言って、また下を向いてしまった。
ドキドキ。聖君に話しかけられ、すごく緊張した。聖君はどこか、よそよそしくって、声もいつもよりも低くって、やっぱり壁を感じてしまった。
「…俺らって、海で知り会ったんだよね」
ドキン。また、話しかけてきた。今度は聖君、こっちを見ようともしないで。
「うん」
「俺、まさかナンパした?」
「ううん」
私はぐるぐると首を横に振った。
「じゃ、なんで…」
「私、友達と3人で海の家に行ったの。聖君は基樹君や葉君と一緒にバイトしてて。それで、私の友達と聖君や基樹君が仲良くなって、それで…」
ああ、上手に話せない。聖君と出会ったころの私に戻ってる。
昨日まで、聖君の背中に引っ付いて、甘えてたのに。聖君も「桃子ちゅわん」って言って、抱きしめてくれたのに。
こんな、赤の他人みたいな会話、していなかったのに。
そうだよ。今朝だって、全裸でまたカーテン開けて、パンツ履いてって言ったら、いやんってバカなこと言って私をからかったりしてたのに。
バカップル炸裂してたのに!!
う~~。なんか、泣きそう。なんか、すごく悲しい。
「俺、学校では女子生徒と話さないんだけど」
「知ってる」
「え?同じ学校?」
「ううん」
「…だよね。見かけたことないし。あ、見かけてもわからないか。顏とか覚えないしなあ」
聖君はちょっと私を見たけど、また下を向いてしまった。
こっちをあまり見ようともしないのが、もっと私を悲しくさせる。
「基樹や葉一のこと、知ってるんだ」
「うん」
「あいつら、今、何やってる?」
「葉君はもう社会人。基樹君は大学生」
「やっぱり?葉一は大学行かないで、働くって言ってたしな」
「それに一人暮らし、始めるよ」
「え?でもあいつの家、母子家庭。あ、まさか、お母さんに何か…」
聖君は顔色を変えて私を見た。
「お母さん、再婚するの。それで…」
「な、なんだ。そっか。今ちょっと、不幸なことでもあったかって、びっくりした」
聖君、葉君のこと、心配したのかな。
いいな。葉君は聖君の記憶に残ってるんだね。
基樹君も。それから、桜さんも…。
でも、私はいないんだ。
「なんで…」
「え?」
ドキン。
聖君はどこか宙を見て、ボソッとそう言うと、そのまま黙り込んだ。
なんでのあとには、何が続くんだったの?
なんで、俺は君なんかと結婚したのか?
なんで俺は君と付き合ったのか?
そんな言葉?
こんなぱっとしない、大人しい子と。
ぱっとしない?まじで言ってる?
そう聖君が言っていたのは、つい昨日のこと。
「こんなに可愛いのに」
そうにやけながら、言っていたのに。にやけた顔も可愛い顔も、もう見られないの?
カラン。
その時、ドアが開き、お客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ。あ…」
やすくんの声。
「あっれ~~?聖は?いないの?」
この声、桐太!
「桐太」
私は思わずキッチンから、桐太を呼んでしまった。
「おお!桃子!ちょうどよかった。新しいTシャツ、持ってきたぞ」
そう言って、桐太は袋からごそごそとTシャツを2枚取り出した。
「ピンクが桃子で、水色が聖。で、俺がこの黄緑色ってわけ。みんなお揃い。あ、ちなみに麦はオレンジ…」
桐太が自分のTシャツをつまみながらそう言うと、聖君がキッチンの奥から、とぼとぼと歩いてきた。
「なんだ、聖、いたんじゃん」
「桐太?なんで、お前ここにいるの?」
聖君はすごく不思議そうな顔をした。
「なんでって、ずいぶんだな。夕飯食いに来たんだよ。あ、セットでいいから。飯のあとにアイスコーヒー頼むよ」
そう言って、桐太は、持っていた水色のTシャツを聖君に渡そうとした。でも、聖君は受け取ろうとしなかった。
「なんでお前、江の島にいるの?確か、中2の時、引っ越したよな?」
「……何それ。何かの冗談?」
桐太はそう言うと、にかって笑って、
「そうそう。俺、転校したの。で、また戻ってきたわけさ。聖に会いに」
と言いながら、聖君に抱きつこうとした。
でも、聖君は冷たく桐太の胸に手を当てて押しながら、
「何?どんな魂胆があるんだよ?」
と怖い声でそう言った。
「え?」
桐太はびっくりして、私の顔を見た。すると、桐太の後ろから、
「桐太さん。聖さん、実は3年間の記憶なくしてるんです」
とやすくんが耳打ちした。
「3年?記憶?」
桐太は驚きながら、やすくんを見た。
「う、嘘だろ?」
桐太は聖君を見た。聖君は、眉間にしわを寄せたまま、桐太を冷たく見ていた。
「桃子、冗談だろ?」
「……」
だ、駄目だ。桐太の顔を見てゆるんだ。一気に気がゆるみ、私はボロボロと泣きだしてしまった。
「桃子?」
桐太が驚いて私に近づき、
「何?まじでなの?まじで聖、記憶ないの?」
と聞いてきた。
私は泣きながら、コクンとうなづいた。
「え?3年ってことは何?まさか、桃子の記憶も」
「ないの。まったく覚えてないの」
私はそう言ってから、わっと泣き出してしまった。
ああ、ホールにはお客さんがいるのに!
「だ、大丈夫っすか?桃子さん」
やすくんが慌てている。
「桃子、大丈夫か?」
桐太も、私のことを優しく抱き留めてくれた。
でも、当の聖君は、冷たい視線で私を見ている。
「どうしちゃったの?夫婦喧嘩?聖君、なんで奥さん泣いてるの?」
ホールにいた常連さんが聞いてきた。
「い、いえ。大丈夫です」
聖君は営業用の笑顔を作り、そう答えた。
「桃子。リビング行こう」
桐太が私の背中を抱きながら、リビングに連れて行ってくれた。
「桃子ちゃん、どうしたの?」
凪に白湯を飲ませているお母さんが、泣いている私を見てびっくりしながら聞いてきた。
「おばさん。聖、本当に記憶喪失なんですか?」
桐太はまだ、私の背中に手を回したまま、お母さんに聞いた。
「そうなのよ。あ、桃子ちゃんにあの子、何か言ったの?冷たいことでも言った?」
「いいえ」
「あれ?桃子ちゃん、どうしたんだ」
聖君のお父さんも、今、お風呂から出てきたらしく、髪をバスタオルで拭きながら、私に聞いてきた。
「桃子の記憶、あいつ、まったくないんですか?」
桐太が、そう低い声で聞いた。
「そうなのよ」
お母さんも、顔を曇らせた。
「……そっか。そりゃ、きついよな。桃子」
桐太は、私の背中に回している腕に力を入れ、そう言った。
「……。桃子ちゃん、ずっと泣くのを我慢してた?」
お父さんが優しくそう聞いてきた。私はその声でまた、こらえていた涙を流してしまった。
「ご、ごめんなさい」
ヒック。ヒック。涙はなかなか止まらなかった。
私、しっかりして、聖君の力にならないとって思っていたのに。どうしても悲しくって、気持ちが沈んで行ってしまう。
今、不安なのはきっと、聖君の方なのに。
涙が止まらない。クロが、私の足元に来て、ク~~ンって泣いている。凪も私の異変に気が付き、ぐずりだした。
そして…。
視線を感じて私は後ろを向いた。リビングからお店につながっている廊下に、聖君が黙って立って私を見ていた。
その目は、すごく冷たく、刺さるような視線だった。
優しい聖君には、もう会えないの?