第69話 記憶喪失?
「ひ、聖?」
お父さんが聖君の肩をぽんとたたいた。
「病院、行こう。頭、診てもらおう」
「だから。おおげさなんだよ」
「おおげさじゃない。かなり、大変なことになってるぞ」
「大変って?」
「お前は、高校2年じゃないんだ」
「……は?」
聖君は眉間にしわを寄せた。
「今年の4月から、大学2年生になったんだよ」
「俺が?何言ってるんだよ」
「それにね、聖」
今度はお母さんが、真面目な顔をして聖君の真ん前に立ち、
「この子は、桃子ちゃん。赤ちゃんは凪ちゃん。あなたの奥さんと娘なのよ?」
と、ゆっくりと説明した。
「……」
聖君は一瞬目を丸くして、
「あ、あはははは!なんだよ、みんなして。今日、もしかしてエイプリルフール?でも、6月だよな?それか、なに?ドッキリとか?」
とわざとらしく笑って、2人に聞き返した。
「ううん。違うの。あなた、階段落っこちて、きっと打ち所が悪かったのね。3年分の記憶、忘れちゃったのよ」
「3年…分?」
うそ。うそ。嘘だ。聖君が私たちをだましてるんだよね?なんちゃってって、そう言って、舌でもべろって出して、またでへへって笑ってくれるんだよね?
「俺、なに?記憶喪失にでもなったっていうの?」
「そ、そうみたいだな。聖」
「冗談だろ?そりゃちょっと母さん、皺が昨日より増えた気もするけど、でも、そんなもんだったような気もするし」
「皺?」
「父さんは…。変わってないじゃん。あ、髪型、替えた?」
「自分の顔を鏡で見てきたら?」
お母さんにそう言われ、聖君は洗面所に入って行った。
「桃子ちゃん、大丈夫だよ。きっと、一時の記憶喪失だ。とにかく今日、あいつを病院に連れてって、調べてもらうからね?」
お父さんは、真っ白になって固まっている私に、優しくそう言ってくれた。
「は、はい」
本当に?一時の記憶喪失?
高校2年の6月以降の記憶がないの?その頃ってまだ、私、聖君に出会ってないよ。
聖君は、まったく、私のことなんて覚えてないんだ。まったく知らない女の子なんだ!
さっき、すごく冷たい目で私と凪を見た。ものすごく、冷たい視線で…。
ゾク。
寒気がした。血の気が引いた。
聖君が私のこと、忘れちゃったよ。
泣きそうだ。でも、必死にこらえた。凪は、ヒックヒックと涙をためて私を見ている。
「俺…、髭はえてる」
聖君が洗面所から出てそう言った。
「それに、髪型、なんか違う」
「3年たってるんだ。今、聖は19歳だよ。髭もはえるさ」
「19~~?」
聖君はそう言うと、また頭を押さえた。まだ、頭が痛いのかもしれない。
「ふえ…。ふえ…」
凪がまた泣き出した。聖君が眉間にしわを寄せ、凪を見たので、私は慌てて凪を連れ2階に上がった。
ドクン。ドクン。
「な、凪。どうしよう。パパがママのことも、凪のことも忘れちゃったよ」
和室の布団に座り、凪におっぱいをあげながら、そう言った。
ポト…。凪の顔に私の涙が落ちた。
「ごめん、凪」
私は、涙を拭いて、泣くのをこらえた。
私が泣いたら、凪が不安がるかもしれない。
でも、信じられないよ。だって、さっきまで聖君は私の横で、幸せだって言って笑ってたんだよ?
聖君の腕の中で目覚め、聖君の笑顔を見て、聖君に優しい言葉をかけてもらって、私も幸せだって、そう凪にも言って…。
世界が一変した。
聖君の記憶の中から、私は消えてしまった。
ど、どうしたらいいの?!
泣きそう。でも、必死にこらえた。
凪のオムツも替えてあげて、凪と一緒に一階に行った。聖君は、着替えを済ませ、お店のカウンターに座って朝食を食べていた。
その横で新聞を読みながらも、聖君を気遣っているお父さんがいた。
「頭、まだ痛むのか」
「うん。ズキズキする」
「そうか」
「…俺、本当に3年分の記憶、なくしてるの?」
「ああ」
「…店の雰囲気も違うもんな。あ、じゃあ今は、誰が店のバイトに来てるの?」
「絵梨ちゃん。覚えてるか?お前が5~6歳の頃、引っ越して行った…」
「近所に住んでた子?」
「ああ、覚えてるんだ」
「うん。なんとなくね。へえ、こっちに戻ってきたんだ」
「そうだよ。それで6月に入ってから、この店のバイトしてもらってる」
「ふうん」
聖君は、朝食を食べ終え、コーヒーを飲みながら、相槌を打った。
「他は?」
「夜はやすくんっていって、高校2年の男の子が入ってる。平日の昼間は、紗枝ちゃん。夜や、休日には、桜ちゃんが来ることもある」
「え?桜さん、まだバイトしてくれてるんだ」
「ああ、そっか。3年前って言ったら、桜さんがよくバイトに入ってくれてたんだっけね?」
「うん。そっか。知ってる人もいるんだ」
聖君は、ほっとした顔をした。
「桜さんのお母さんも、夜、キッチンを手伝ってくれてるよ」
「あ、そうなんだ。そっか~~」
聖君の顔は、もっとほっとしていった。
「お前、女の人苦手だもんなあ。紗枝ちゃんも、絵梨ちゃんも、ちょっと話しづらいかもしれないね」
「…どんな子たち?」
「紗枝ちゃんは、おとなしい感じかな」
「あ、ダメかも」
「絵梨ちゃんは、良くしゃべる子だね。ちょっと変わってるけど」
「ふうん。しゃべってくれる分には助かるかな。桜さんも向こうからべらべら話してくれるから、楽だし」
「…おとなしい子は駄目なんだっけ?お前」
「うん。何話していいかわかんないし」
「…そっかあ」
お父さんはそう言うと、コーヒーをゴクンと飲んだ。
私は、お母さんが用意してくれた朝ごはんを、テーブル席について食べだした。その間は、お母さんが凪を抱っこして、私の前の椅子に座り、凪をあやしてくれた。
「凪ちゃん。お腹いっぱいになって、機嫌治った?」
「うきゃ」
ああ、凪はすっかりご機嫌だ。パパの記憶喪失のことなんて、気になってないんだね。って、当たり前か。
「俺が結婚して、子供がいるっていうのはさ、まじな話なわけ?」
聖君の声が聞こえてきた。ちょっと声を潜めているようだけど、丸聞こえだ。
「桃子ちゃん?そうだよ。凪ちゃんが生まれたのは、今年の3月。桃子ちゃんとはもう、去年の夏に籍を入れてるよ」
「…いつ、出会ってるわけ?」
「高校2年の夏。お前、海の家でバイトするんだよ」
「あ、そうなんだ。基樹とバイトしようって言って、探してたんだ。やっぱりすることになってるんだ。って、なんかおかしな気分だ。俺だけタイムスリップして、未来に飛んできた気分…」
「そうか。お前の中ではお前、まだ高校2年なんだもんなあ」
「…俺さ、大学2年だろ?なんで、沖縄にいないの?」
「……ん~~。まあ、いろいろとね」
「もしかして、子供ができたから?」
聖君はまた、声を潜めた。だけどやっぱり、お店が静かだから聞こえてきてしまう。
「違うよ。もっと前に、沖縄行きはやめてるよ」
「…なんで?」
「店も大変だったしね。まあ、お前もいろいろと考えたってことだよ」
「店?この店?」
「客、ぐっと増えちゃったんだよ。母さん一人でやっていくには、大変だったんだ。高校2年のお前は、毎日夜手伝ってたけど、3年になって受験勉強するんで、手伝えなくなって。母さん一人でやっていくのも、大変になったんだよ」
お父さんは私のことではなく、お店のことやお母さんの話を持ち出した。
「それで?店手伝うために、こっちに残ったの?」
「まあ、いろいろとね」
お父さんはそう言うと、聖君ににっこりと微えみ、またコーヒーを飲んだ。
「…俺、ずいぶんと親孝行な息子になっちゃったんだね」
「あはは!そうだね。高校2年の頃からお前、いろいろとあったから。一気に成長したんじゃないの?」
「いろいろと?」
「そう。いろいろと」
お父さんはそう言ってから、真面目な顔をした。
そうか。まだ、お父さんと血がつながっていないことも知らないんだ。そんな記憶も、消えてるんだよね。
ドキ…。記憶、戻るのかな。もし、戻らなかったら、どうなるんだろう。
聖君は、高校2年から、また人生をやり直すの?
私との結婚は?凪は?どうなるの?
「さてと。もうそろそろ出るか。きっと受け付けはしてるだろうし、あんまりのんびりとしていると、総合病院って言うのは混むからなあ」
お父さんはそう言うと、カウンターの椅子から立ち上がり、
「車、店の前に移動させてくるからな」
と聖君に言って、お店から家のほうに上がっていった。
「聖…」
「え?」
「なんでもないわ」
お母さんは何かを言いたかったらしいが、そう言って、また凪をあやしだした。
「うっきゃ~~」
「凪ちゃん、ご機嫌ね?」
聖君はお母さんのほうに来た。そして凪の顔を覗きこんだ。
「きゃ!」
凪は聖君を見て、手を伸ばした。
「可愛いね」
「もちろん。あなたの子だもの。可愛いのは当たり前よ」
「…そう言われてもなあ。いきなり、子供ですって言われても、俺さ…」
聖君はいきなり、戸惑った顔を見せた。
「…まあ、そうよね」
お母さんはそう言うと、ちょっと顔を曇らせたが、私の顔を見て、またすぐに明るい顔に戻った。もしかして、私に相当気を使っているかもしれない。
「抱っこしてもいい?」
聖君がお母さんに聞いた。
「いいわよ。聞かなくたって抱っこしたら?あなたの子なんだから」
「…凪ちゃんだっけ?」
「凪って呼んでたわよ。な~~ぎって。そりゃもう、目の中に入れても痛くないくらい、可愛がっていたのよ?」
聖君は凪を抱っこした。凪は聖君の顔に手を伸ばし、
「あ~~~」
と話しかけた。
「あ…」
聖君は一瞬、動きを止めた。でも、すぐに凪のことを揺らしながら、辺りを歩き回りだした。
「あ~~う~~」
「クス。話しかけてるの?可愛いなあ」
聖君、凪のこと、可愛いんだ!
「ワン!」
クロが嬉しそうに尻尾を振り、聖君のあとをついて回った。
「この犬、名前なんて言うの?」
「クロよ。まだ赤ちゃんの頃、もらってきたのよ」
「やっぱりクロかあ。我が家はずっと犬の名前はクロなんだね」
クロはもっと嬉しそうに尻尾を振った。
「可愛いな。こいつ。人懐っこいね」
「あなたが可愛がっていたからよ」
「そっか。それでか…。クス。なんか、似てるね、お前」
聖君はそう言うと、凪を抱っこしたまま、クロの前にしゃがみこんだ。
クロは聖君の顔をベロベロと舐めた。
「あはは。くすぐったいよ」
聖君が笑うと、凪はうきゃって喜んだ。
「あ、今、喜んだ」
「パパが笑ったからでしょ?」
「わかるの?もう」
「わかるわよ。ねえ?凪ちゃん」
お母さんは聖君の横に立ち、凪の顔を覗きこんでそう言った。
「母さん、もう、ばあちゃんなんだ」
「いやあね。くるみママって呼ばせるわよ。絶対にばあちゃんなんて、呼ばせないわ」
「なんだよ、それ」
聖君はまた、笑った。
「ワン」
クロが吠えると、凪はクロに手を伸ばした。クロはその手をベロンと舐めた。
「クロと凪って仲いいの?」
「いいわよ。クロは凪ちゃんのお守役だもの」
「へえ、そうなんだ。えらいんだね、クロ」
聖君は片手で凪を抱き、もう片方の手でクロの頭を撫でた。
「ワン」
クロは嬉しそうにまた吠えた。
「やっぱり、似てる」
「誰に?」
お母さんが、聖君の隣にしゃがみ込んで聞いた。
「……あの子」
「あの子って?桃子ちゃん?」
「うん。似てない?クロに」
「似てるわよ。クロが赤ちゃんの頃はもっと似てたわよ。クロじゃなくって、桃ちゃんって名前にしようかって言ってたくらい」
「………そうなんだ」
聖君はそう言って、しばらくクロを見ていた。
私は、クロに私が似てるって言ってくれたのは嬉しかった。
でも、悲しかった。
「あの子」って、私のことだよね?
桃子ちゃんとも、呼んでくれないんだ。
お父さんが車を店の前に回してきたので、聖君はお店を出て行った。顏はげんなりしていた。病院に行くのがよっぽど嫌なんだろう。
「大丈夫よ、桃子ちゃん」
お母さんが、外をぼ~~っと眺めている私の肩を抱き、そう言ってくれた。
「聖、きっと帰ってくるころには、思い出してるわよ」
そうだったら、嬉しい。そうだったらいいけど…。
「さ、店の準備しちゃおうかな」
お母さんはそう言うと、キッチンの奥へと入って行った。
私は凪を抱っこしたまま、しばらくお店にいた。
いったい、何をしたらいいのか。頭は真っ白だった。
10時半。紗枝さんがお店にやってきた。
私は凪を2階のゆりかごに乗せ、洗濯物を干したり、2階の掃除をしたりしていた。
何かをしていないと、悪いことばかりを考えてしまうので、何も考えないようにして体をひたすら動かした。
聖君はまだ帰ってこなかったし、お父さんからもなんの連絡もないままだった。
掃除が済み、凪を連れて一階に下りると、紗枝さんがリビングに来て、
「桃子ちゃん、お母さんから聞いたんだけど、聖君、記憶喪失なんだって?」
と心配そうに言ってきた。
「はい。今、病院行ってて」
「そうなんだ。早く、記憶戻るといいね」
紗枝さんはそう言って私を元気づけようとしてくれた。私はそれに答えて、必死に笑顔を作った。でも、きっと引きつっていた。
紗枝さんはそれ以上何も話さず、お店に戻って行った。
う。また、泣きそう。でも、凪が見てる。
私はリビングのソファに座り、泣くのをこらえた。足元にクロが寄り添い、私の気持ちを察したのか、
「く~~ん」
とすり寄って私を慰めてくれた。
「いいね、クロ」
クロのことはすぐに聖君、名前を呼んだし、頭も撫でてあげてた。
それに、凪のことも。抱っこしていたし、可愛いって…。
でも、私のことは…。
見ようともしなかった。桃子ちゃんとも呼んでくれないし、話しかけてもくれない。
ああ、おとなしい子は駄目だって言ってたっけ。きっと、あれ、私も入っているんだよね。
ドスン。
まるで、聖君に会ったころに戻ったみたいだ。
ううん。聖君にとっては、私は初めて会ったまったく知らない子なんだ。
どうしよう。
このまま、聖君の記憶が戻らなかったら。私のことなんて、好きになってもらえるわけもないし。
私、この家にいていいの?
聖君の奥さんでいても、いいの?!